第10話 隣を歩く人
聴聞会から一ヶ月が経った。
オズヴァルト伯爵は全権凍結の後、司法部門の本格調査で次々と不正の証拠が発掘された。薬草の闇取引の記録、ヨナスとの連絡文書、辺境の密売ルートの全容——師匠の手帳が突破口となり、十年分の不正が白日の下に晒された。
調査の過程で、伯爵が薬草利権を使って宮廷内の複数の貴族に便宜を図っていた事実も明るみに出た。銀蓮花の精製品を社交界に流し、その見返りに政治的な支持を集めていた。薬草園の管理権を奪おうとしたのも、証拠の隠滅と利権の維持が目的だった。
伯爵は爵位を剥奪され、領地も没収された。ベアーテ師匠とヨナスの死についても、伯爵の指示による毒殺が認定された。
ギルベルトは騎士爵を剥奪され、宮廷を去った。英雄の名声は地に落ち、凱旋式での歓声がまるで嘘のように消えた。ソニアとの婚姻は法的に無効とされたが、子どもの養育権はソニアに認められた。ギルベルトは辺境に戻り、一から出直すらしい。
恨みは、もうない。あるのは、十年という時間への惜しみだけだ。あの十年がなければ、わたしは今の自分にはなれなかっただろう。矛盾しているけれど、それが本音だ。
わたしは——宮廷薬師を続けている。
ただし、肩書が変わった。王室薬務局長代理。ベアーテ師匠の後任として、アーデルハイト王太子妃から直々に任命された。
「代理、ですか」
「正式な局長任命には三年の実績が必要よ。それが制度というもの。まずは代理からね」
王太子妃はそう言って、紅茶を飲んだ。判断を下す前の儀式ではなく、ただのお茶の時間だった。白薔薇の花瓶の横で、銀灰色の髪が午後の光に透けていた。
「あなたが聴聞会で見せた能力は評価に値します。薬師としての専門知識を法的な証拠に変換する力。それは、この宮廷に必要な力です。けれど、わたくしが最も印象に残ったのは、あなたの言葉よ」
「どの言葉でしょうか」
「『揺れるべきときに揺れなければ、いずれもっと大きく崩れる』。——宮廷に必要な人材は、正しいことを正しいと言える人間です。そういう人間は少ない」
王太子妃が少しだけ——ほんの少しだけ、口元を緩めた。これがこの人の笑顔なのだろう。
◇
薬草園のカモミールは、今年も順調に咲いている。
師匠がいなくなった薬草園を、わたしとリヒトが引き継いだ。リヒトは見習いから正規の薬師に昇格し、毎日忙しく走り回っている。足の速さだけは薬務局一だ。
「イルゼ先輩! カモミールの新しい株、植えていいですか!」
「いいわよ。でも、間隔は拳ひとつ分空けてね。根が絡まるから。カモミールは見た目に反して根の張りが強いの。密植すると栄養を奪い合って、どちらも弱くなる」
「はい! メモしときます!」
リヒトが走っていく。ポケットから乾燥ラベンダーの匂いが漂う。いつか、この子も自分の薬草園を持つだろう。師匠がわたしに教えてくれたように、わたしもリヒトに教えていく。薬草の知識は、そうやって受け継がれていくものだ。
師匠の手帳は、今も薬草園の乾燥棚の裏にある。煉瓦の三つ目に戻した。次の世代が、必要なときに見つけられるように。師匠がわたしのためにそうしたように。
ソニアからは手紙が届くようになった。辺境の町で小さな薬草屋を開いたらしい。わたしが教えたカモミール茶の淹れ方が好評だと書いてあった。カモミールの花を乾燥させるとき、直射日光ではなく風通しの良い日陰で干すのがコツだと伝えたのを、実践してくれている。
不思議な縁だ。夫に裏切られた二人の女が、薬草を通じて繋がっている。
手紙の最後に、子どもの似顔絵が添えてあった。丸い顔に大きな目。ギルベルトには似ていない。母親似だ。「お花やさんになりたい」と言っていると書いてある。
わたしはその絵を見て、少しだけ笑った。
法務局のノーランは、聴聞会の後も変わらず寡黙だ。けれど、変わったことが一つある。
仕事の帰りに、薬草園に寄るようになった。
「何か用?」と聞くと、「通り道ですから」と答える。法務局から彼の住居への最短ルートに薬草園は含まれない。法務局は東棟にあり、彼の住居は南の官舎だと聞いている。薬草園は西だ。まったく通り道ではない。
けれど、わたしはそれを指摘しない。
今日も、ノーランが薬草園の入口に立っている。黒髪を短く整え、銀縁の眼鏡をかけて、姿勢の良い長身が夕日に影を落としている。
「ファーレンさん」
「ノーランさん。今日もお仕事?」
「いえ、今日は……」
彼が鞄から小さな包みを取り出した。油紙に包まれた、植物の苗。
「高山セージです。薬務局の記録で、この園に以前植えられていたのを見つけたので。古い栽培台帳に、ベアーテ先生の字で記載がありました」
「……高山セージ。師匠が好きだった薬草ね」
高山セージは標高の高い場所に自生するシソ科の多年草で、抗菌作用と消炎作用を持つ。学名はサルビア・アルピナ。「サルビア」はラテン語の「salvare」——「救う」に由来する。薬草の中でも、特に歴史の古い植物だ。
「寒さに強く、乾燥にも耐える。環境が厳しいほどよく育つ、と記録にありました」
わたしは苗を受け取った。ノーランの指先がわたしの手に触れた。冷たい指だった。書類を扱う人の、インクの匂いがする指。長くて、細くて、正確な指。
「……ありがとう」
「いえ」
沈黙が落ちた。けれど、嫌な沈黙ではない。薬草園の風が吹いて、カモミールの甘い匂いが漂っている。夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「ノーランさん」
「はい」
「名前で呼んでもいいですか」
ノーランの眼鏡の奥で、目が少し見開かれた。
「……ノーラン、と?」
「ええ。もう法務局の案件は終わったし。担当官と依頼人じゃなくて——普通に、呼びたいの」
ノーランの耳が、わずかに赤くなった。この人にも、こんな表情があるのだと知った。水の底のように静かだった目に、さざ波が立っている。
「……では、私もイルゼさんと」
「うん」
それだけの会話だった。告白でも、約束でもない。ただ、名前を呼び合っただけ。
けれど、わたしにはそれで十分だった。
師匠の薬草園で、新しい苗を一緒に植える。土に手を入れて、根を整えて、水をやる。隣にいる人の呼吸が聞こえる。書類のインクの匂いと、薬草の匂いが混ざる。
十年間、わたしは一人で待っていた。遠くにいる人の帰りを。手紙を書いて、返事を待って、来ない返事をまた待って。
でも、本当に大切な人は、隣にいるものなのだと——今なら、わかる。
高山セージの苗は、翌週には小さな芽を出した。
環境が厳しいほど、よく育つ。
師匠が聞いたら、きっと笑うだろう。「おまえも同じだよ」と。あの厳格で温かい声で。
薬草園に夕日が差し込んでいた。カモミールの花弁が橙色に染まる。あの日と同じ景色。ギルベルトが凱旋した日の夕方に見たのと、同じ光。けれど、隣に立つ人が違う。
それだけで、世界は——少しだけ、温かい。
高山セージの苗の横に、カモミールの新しい株を植えた。師匠が育てた古い株から取った種だ。古い根から新しい芽が出る。終わりは始まりになる。
薬師の仕事は、続いていく。薬草を育て、調合し、人を癒す。その繰り返しの中に、わたしの人生がある。嘘の上に建っていた十年は崩れたけれど、その瓦礫の下から本物が芽を出した。
それでいい。それが、わたしの物語だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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