第4話 宮廷の毒と薬
ベアーテ師匠が亡くなってから三日後、わたしは法務局のノーランの元を訪ねた。
手帳を見せると、ノーランは眼鏡の位置を直してから、一ページずつゆっくりと読み始めた。途中で何度か頷き、要所に付箋を貼っていく。黄色、青、赤——彼なりの分類があるのだろう。その手つきが丁寧で、わたしはその指先を見ながら少しだけ安心した。
この人は、事実を粗末にしない。
法務局のノーランの執務室は、窓際に積まれた書類の山と、壁一面の書架で埋まっていた。棚には法令集や判例集がぎっしりと並び、背表紙が日焼けして色褪せたものもある。整理されているのに雑然として見えるのは、書類の量が人間の限界を超えているからだ。
机の上だけは完璧に整っていた。万年筆が二本、インク壺が一つ、付箋の束が三色。それだけだ。この人の仕事道具はこれだけで事足りるらしい。
「……これは重要な資料です」
「師匠が十年かけて記録したものです」
「薬草の流通記録は、通常、薬務局の公式文書として保管されます。この手帳は私的な記録ということですか」
「はい。師匠は公式記録との差異を個人的に追跡していたようです。公式記録だけでは見えない差分があると気づいて、独自に記録を取り始めた。それが十年前——ちょうどギルベルトが遠征に出た年からです」
ノーランが顔を上げた。眼鏡の奥の目に、初めて明確な感情が浮かんでいた。静かな怒りに似た、けれどもっと冷たいもの。法を侵す者への、職業的な敵意のようなもの。
「ファーレンさん。この手帳が示していることを、整理しましょう」
彼は白い紙を取り出し、万年筆で図を描き始めた。線が正確で、文字が美しい。書類を扱い慣れた人の筆跡だ。
「オズヴァルト伯爵家が管轄する薬草の流通経路は、三つあります。一つ目は王室向け——宮廷の医療に使われる薬草。二つ目は市中の薬屋向け——一般市民への販売ルート。三つ目が遠征軍向け——戦場の軍医が使う薬草の補給。このうち三つ目が、遠征費の名目で大量の薬草を計上しています」
「でも、師匠の記録では実際の出荷量と計上量が合わない」
「ええ。差分は約二割。単年で見れば誤差に見えるかもしれませんが、十年分を合計すると、かなりの量になる。国家予算の不正流用の規模です」
薬草は多くの場合、乾燥させて保存する。乾燥薬草は重量あたりの価値が高く、特に希少種は金貨に匹敵する。歴史上、胡椒が同重量の金と交換されたという記録がある。スパイスや薬草は、かつて通貨と同等の価値を持っていた。この世界でも、薬草の価値は馬鹿にならない。
特に希少薬草——高山地帯や特定の気候条件でしか育たない品種——は、正規の市場でも金貨数枚に相当する値がつく。それが闇市場に流れれば、価値はさらに跳ね上がる。
「ノーランさん。この二割の薬草は、どこに消えたと思いますか」
「仮説としては二つ。横流しか、あるいは遠征そのものが——」
ノーランが言葉を切った。万年筆を机に置く。
「——実態のないものだった可能性」
わたしたちの目が合った。
この人もまた、同じ結論に辿りついている。法務官の論理と、薬師の観察が、同じ地点を指している。
遠征が実態のないものだったとすれば、ギルベルトは十年間、存在しない戦場に向けた補給物資を名目に、薬草を横流ししていたことになる。そしてオズヴァルト伯爵が、その流通経路を管轄していた。
「まだ仮説の段階です」とノーランは言った。「検証が必要だ。仮説だけでは法廷に立てない」
「どうやって?」
「遠征軍の補給記録と、実際の戦闘記録を突き合わせます。法務局には軍事記録の閲覧権限がある。——ただし」
「ただし?」
「閲覧申請にはオズヴァルト伯爵の管轄部署を通す必要がある。つまり、こちらの動きが筒抜けになる可能性が高い。閲覧申請を出した時点で、相手は警戒する」
わたしは考えた。薬師の頭で、回路を探す。薬の調合と同じだ。正面から効かない薬があるなら、別の成分を組み合わせる。
「……別のルートがあります」
ノーランが眉を上げた。
「遠征軍に薬草が届いていたなら、現地の薬師が受領記録を残しているはずです。遠征先の薬師ギルドに問い合わせれば、伯爵の管轄を通さずに確認できる」
「薬師ギルドの連絡網を使うということですか」
「はい。薬師同士の情報交換は、貴族の管轄外です。ギルドの互助制度は、各地の薬師が独自に運営しているもので、王宮の行政機構とは別系統です。かつての修道院が独自の薬草園と情報網を持っていたのと同じ構造ですね」
ノーランの口元が、わずかに緩んだ。笑顔とは呼べない。けれど確かに表情の変化があった。氷が一滴だけ溶けたような。
「……なるほど。法の外側にある制度を使うわけだ。法務官としては少し複雑な気分ですが、合法である以上、有効な手段です」
「法の外側というより、法が及ぶ前からある制度ですね。薬師の知恵は、国の法律より古いですから」
ノーランが眼鏡をかけ直した。その仕草に、わずかな照れが混じっている気がした。
◇
薬務局に戻ると、ヨナスがわたしの机に茶を置いていた。湯気の立つ、カモミールの茶。わたしが好きだと知っているから、いつもこれを淹れてくれる。
「お疲れさま。法務局、長かったね」
「うん、ありがとう」
「ベアーテ先生のこと、みんな悲しんでるよ。来週の追悼式の準備、薬務局全体で進めてるんだけど、手伝おうか?」
「助かる。師匠の薬草園の管理も、当面はわたしが引き継ぐことになったの」
「大変だな。仕事の分担、考えよう。調合の依頼で急ぎのやつは俺が引き受けるから」
ヨナスの笑顔は相変わらず穏やかだ。この人がいるから、薬務局はうまく回っている。主任薬師としての事務能力が高く、後輩の面倒見もいい。師匠も信頼していた。
けれど——。
ふと気づいたことがある。
師匠が倒れた日、ヨナスは薬務局にいたはずだ。わたしが法務局から戻ったとき、彼は回廊で待っていた。「大丈夫?」と声をかけてくれた。
師匠の茶を淹れたのは誰だったのだろう。薬務局の茶は当番制で淹れる決まりだが、当番表はヨナスが管理している。
(……考えすぎだ。ヨナスは味方だ。十年間、ずっとわたしの味方だった)
わたしはその疑問を、頭の隅に仕舞い込んだ。
今はまだ、疑うべき相手ではない。確証のない疑いは、薬師の美徳ではない。
けれど薬師は知っている。毒も薬も、同じ草から生まれるのだと。トリカブトも微量なら鎮痛薬になり、カモミールも過剰摂取すれば嘔吐を引き起こす。善と悪は、量と意図で決まる。
机の上の茶を、わたしはそっと脇に置いた。飲まないまま。
窓の外で、薬草園のカモミールが風に揺れていた。師匠がいつも手入れしていた一角が、少しだけ荒れ始めている。師匠がいなくなって三日で、もう草が伸び始めている。
それを見て、わたしは小さく息を吐いた。
「師匠。わたし、ちゃんとやりますから」
独り言は、誰にも聞こえない。
けれど、カモミールの花がひとつ、頷くように揺れた気がした。
その夜、リヒトが息を切らせて薬草園に駆け込んできた。そばかすだらけの顔を真っ赤にして、膝に手をついて息を整えてから、叫んだ。
「イルゼ先輩! 大変です! オズヴァルト伯爵が、薬草園の管理権をファーレン家に移すって——中庭の掲示板に公示が出ました!」




