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夫が十年間『魔王討伐の遠征』と言い張った先に、別の妻と子どもがいました。  作者: 渚月(なづき)


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第5話 英雄の勲章の裏側

薬草園の管理権移転。それは、わたしから師匠の記録への接触手段を奪うということだ。


手帳はすでに回収している。けれど、薬草園には他にも師匠が残した資料があるかもしれない。煉瓦の裏の手帳は、師匠が最後に伝えようとしたものだ。しかし、四十年にわたる師匠の記録の全てがあの一冊に収まっているとは思えない。


「リヒト、その公示はどこに出ている?」


「中庭の掲示板です。今日の夕刻付で——伯爵の署名入りです」


わたしは走った。


中庭の掲示板には確かに、オズヴァルト伯爵の署名入りの公示が貼られていた。『王室薬草園の管理業務を、凱旋の功に報いる褒賞の一環として、ファーレン騎士家に委託する』。日付は本日。朱色の蝋印が押されている。


(師匠が亡くなって三日で、もう手を打ってきた)


速い。あまりに速い。


通常、王室施設の管理権移転には、関係部署の合議と上奏が必要だ。それを三日で公示まで持ってきた。事前に準備していなければ、この速度は不可能だ。


王室施設の管理権移転には、通常、三つの段階がある。まず関係部署——この場合は薬務局と管理局——の合議。次に上奏。そして王族の裁可。この三段階を三日で終えるには、合議を省略するか、あるいは事前に合議を済ませておくかのどちらかだ。どちらにしても、師匠の死の前から準備が進んでいたことを意味する。


つまり——師匠の死は、この計画の中に組み込まれていた可能性がある。


「ファーレンさん」


背後からノーランの声。法務局の執務時間はとうに過ぎているのに、彼はまだ宮廷にいた。外套を肩にかけた姿は、帰りがけにここに寄ったことを示している。


「公示を見ました。手を打ちましょう」


「……打てるの?」


「薬草園の管理権移転には、薬務局長の同意が必要です。これは王室薬務局設置令の第十二条に明記されている。現在、局長は空席。ベアーテ先生の後任がまだ決まっていない」


ノーランが公示の文面を指差した。長い指が、署名欄の一点を示す。


「この公示には伯爵の署名しかない。薬務局長の同意署名が欠けています。手続き上の瑕疵がある」


「つまり、無効にできる?」


「異議申立てを行えば、局長後任が決まるまで凍結できます。法的な手続きとしては、異議が受理された時点で公示の効力は停止する。——ただし、申立人は薬務局の現職でなければならない」


わたしは宮廷薬師だ。現職の条件は満たしている。


「やります」


ノーランは頷き、鞄から書類を取り出した。すでに異議申立書の雛形が用意されている。日付と署名の欄だけが空白だった。条文の引用も、必要な添付資料の一覧も、すべて整っている。


「……もう準備してあったの」


「公示の内容は予測できました。ベアーテ先生が亡くなった時点で、薬草園の管理権が空白になる。それを利用する動きは当然想定される。法務局にいると、こういう動きの前兆は書類の流れから見えるんです」


わたしは署名した。手は震えなかった。



異議申立ての翌日、わたしは薬師ギルドの連絡網を使って、遠征先とされる辺境の町に問い合わせを送った。


薬師ギルドの連絡網は、各地の薬師が鳥便と宿場を使って情報を交換するシステムだ。貴族の行政機構とは独立しており、薬草の品質情報、疫病の発生報告、希少薬草の流通状況などを共有する。このネットワークは何百年もの歴史があり、王宮の法律が制定されるよりも前から機能していた。


返事は三日で届いた。思ったより早い。辺境の薬師ギルドは、中央の政治に巻き込まれたくないのか、事務的な対応だった。


『遠征軍への薬草納入記録は存在しません。当ギルド管轄区域に、王国正規軍の長期駐留記録もありません。ただし、ファーレンの名で個人的に薬草を買い付けた記録が複数あります。品目は主に希少薬草——高山セージ、黄金カモミール、銀蓮花等。購入量は年間で相当な量に上ります。なお、買い付けには常に同じ連名者が記載されています』


わたしは返信を読みながら、手帳のベアーテ師匠の記録と突き合わせた。


合う。


師匠の手帳で「消えた二割」と記された薬草の量と、辺境でギルベルトが個人的に買い付けた量が、ほぼ一致する。品目も重なっている。


構図が見えた。


オズヴァルト伯爵が遠征費として計上した薬草を、ギルベルトが辺境で安く買い付け、差額を懐に入れていた。遠征は実質的に、薬草の密売ルートだったのだ。公的資金で仕入れ、私的に転売する——古典的な横領のスキームに、「英雄の遠征」という名目をかぶせたもの。


いや——もう少し正確に言えば、遠征そのものが完全な嘘ではなかったかもしれない。魔王討伐という名目で出発し、辺境に滞在して薬草の取引をする。ソニアと暮らしながら。時折、小規模な魔物退治の報告を送って体裁を整える。


「十年間、夫は商人をしていたのね」


独り言が漏れた。


怒りよりも先に、妙な感心が来た。十年もこの仕組みを維持できるのは、それなりの計画性がなければ無理だ。伯爵との連携、ギルドへの偽装、報告書の作成——一人では回せない規模の不正だ。


けれど、計画的であればあるほど、わたしの十年は——意図的に踏みにじられたことになる。遠征を信じて待つわたしの存在が、「英雄の妻が健気に留守を守っている」という物語を補強していた。わたし自身が、嘘の共犯者にされていたのだ。知らないまま。


リヒトがポケットの乾燥ラベンダーを握りしめながら、わたしの横に立った。


「イルゼ先輩、なんか……すごいことになってますね」


「すごいことになってるわね」


「先輩、顔色悪いです。薬草茶淹れましょうか」


「……ありがとう。でも今は、茶より証拠の方が欲しいわ」


リヒトが真剣な目をした。普段はそばかすだらけの丸顔が幼く見えるが、こういうときの目は大人だ。


「僕にできることありますか」


「あるわ。薬務局の書庫に、過去の遠征軍への納品伝票が保管されているはず。年度ごとに束ねてあるはずだから、十年分を探して。オズヴァルト伯爵の署名が入った伝票と、実際の出荷記録を照らし合わせてほしい」


「わかりました!」


リヒトが走り出す。この子の素直さと足の速さが、今は本当にありがたい。師匠に似て、素直な心を持っている。


わたしは辺境からの返信をもう一度読んだ。最後の一行に目が止まる。


『なお、ファーレン氏の購入記録に連名されている人物があります。オズヴァルト伯爵家家令、ヨナス・メルツの名前が記載されています』


ヨナス。


返信を持つ手が震えた。今度は、押さえられなかった。


連名者。つまり共犯者だ。


薬草園の乾燥棚がきしむ音がした。風が吹いている。師匠が残した薬草の匂いが、まだここに漂っている。


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