第3話 薬草園に眠る記録
薬草園に駆けつけたとき、ベアーテ師匠は乾燥棚の下に倒れていた。
リヒトが泣きそうな顔で師匠の肩を揺すっている。見習い薬師の少年は、そばかすだらけの顔を真っ赤にして、わたしの姿を見た瞬間に叫んだ。
「イルゼ先輩! ベアーテ先生が——突然倒れて——さっきまで普通に薬草の選別をしてたのに——」
わたしは走った。
膝をつき、師匠の手首を取る。脈は弱く、不規則。一分間に四十を切っている。瞳孔が開き気味で、唇の端にわずかな泡がある。皮膚は冷たく、指先にチアノーゼの兆候が出ている。
(……これは)
薬師の目が、一瞬で状況を読む。
自然な発作ではない。この症状の組み合わせ——瞳孔散大、唾液の異常分泌、徐脈、末端の冷え。心臓の伝導障害を示す不整脈。
トリカブトの中毒症状に酷似している。
トリカブトはキンポウゲ科の植物で、主成分のアコニチンは極めて強い神経毒だ。少量であれば鎮痛や強心の薬として古くから使われてきたが、致死量はわずか数ミリグラム。特に心臓への作用が強く、不整脈から心停止を引き起こす。
「リヒト、解毒の調合を。棚の三段目、青い蓋の瓶——活性炭の粉末を持ってきて。それからカモミールの抽出液、琥珀色のやつ。あと、薬務局に走って医師を呼んで。急いで」
「は、はい!」
リヒトが駆け出す。ポケットの中の乾燥ラベンダーを握りしめているのが見えた。この子は緊張するとそうする癖がある。
リヒトは半年前に薬務局に入った見習いだ。辺境の村で薬草採りをしていた祖母に育てられ、薬草の名前だけは誰よりも知っている。ただし、調合の技術はまだ覚束ない。師匠は「知識は土台、技術は建物。土台がしっかりしていれば、建物はいくらでも建てられる」とリヒトを可愛がっていた。
わたしは師匠の上体を起こし、横向きに寝かせた。気道を確保するための基本動作。嘔吐物による窒息を防ぐ体位だ。師匠の白髪が土の上に広がる。いつも高く結い上げている髪が、ほどけている。
四十年間、この薬草園を守り続けた人の髪が、土にまみれている。その光景が、わたしの胸を締めつけた。
「師匠、聞こえますか」
「……イル、ゼ」
かすれた声。師匠の目が、わたしを見ている。焦点は合っている。意識はまだある。
「棚の……裏に……」
「喋らないで。今、解毒を——」
「聞きなさい」
弱々しいのに、声だけは昔と同じ師匠の声だった。叱るときの、あの毅然とした響き。わたしが調合を間違えたときに「やり直し」と言うのと同じ声。
「棚の裏の、煉瓦の三つ目。……わたしの記録がある。薬草の流通記録。十年分の——おまえに、伝えなければならないことが——」
師匠の手が、わたしの袖を掴んだ。力はもうほとんどない。けれど、その握り方には意志がある。
「……伯爵が、何をしてきたか。全部書いてある。おまえなら——読める」
リヒトが瓶を持って戻ってきた。わたしは震える手で解毒の調合を始めた。活性炭の粉末を水に溶かし、カモミールの抽出液を加える。活性炭は毒素を吸着する性質があり、経口毒の応急処置として最も基本的な手段だ。
師匠の唇に含ませる。少しだけ、嚥下する動きがあった。
医師が来た。薬務局の同僚たちも集まってきた。ヨナスもいた。
ヨナスは「先生!」と叫んで駆け寄り、わたしの隣で師匠の手を握った。
けれど、ベアーテ師匠は、その夜のうちに息を引き取った。
享年六十歳。王室薬務局に四十年仕えた女性。わたしに薬師のすべてを教えてくれた人。「おまえの目は薬師の目だ」と、わたしの人生を変えてくれた人。
わたしは師匠の枕元で、声を出さずに泣いた。泣かないと決めたばかりなのに。けれど、師匠はもう「泣いてからそう言うもんだよ」と笑ってくれない。
◇
翌日、わたしは薬草園の乾燥棚の裏に行った。
煉瓦の壁は古く、苔が隙間に入り込んでいる。三つ目の煉瓦を探す。他の煉瓦より少しだけ新しい。師匠が入れ替えたのだろう。指をかけると、するりと抜けた。
奥に、油紙に包まれた手帳が入っていた。表紙は薬草の汁で汚れているが、中のページは丁寧に保存されている。師匠らしい。薬草の保管と同じ方法で、大切な記録を守っていた。
開くと、びっしりと文字が並んでいた。
日付、薬草の品名、数量、仕入先、納品先。公式の流通記録と同じ項目を、師匠が独自に追跡した個人的な記録。それが十年分。
手帳の後半に、赤い線で囲まれた項目がある。
『オズヴァルト伯爵家経由の薬草流通——帳尻が合わない。年間で約二割の薬草が、記録上消えている。行先は遠征軍の補給名目。だが、遠征軍の規模に対して薬草の量が多すぎる。兵士千人に対して、三千人分の薬草が計上されている。差分はどこへ行ったのか』
わたしは手帳を胸に抱えた。
師匠は、この記録を守るために命を落としたのかもしれない。あるいは、この記録の存在に気づいた誰かが、師匠を狙ったのかもしれない。
(トリカブトの毒は、意図的に調合しなければ致死量にならない。自然界に存在する状態では、経口摂取しても致死量に達することは稀だ。粉末にして濃縮し、飲み物に混入する——そういう手順を踏まなければ、人は死なない)
(師匠が自分で飲むはずがない。トリカブトの危険性を、誰よりも知っている人だ)
観察。仮説。
まだ検証が足りない。けれど、師匠の死が事故ではなかった可能性が高いことは、薬師として断言できる。
わたしは手帳を作業着の内ポケットに入れた。
法務局のノーランに見せなければならない。離縁の手続きだけではない。もっと大きなものが、この手帳の中に眠っている。
薬草園を出ようとしたとき、入口に人影があった。
「イルゼ」
ギルベルトだった。金髪が逆光で暗く見える。甲冑ではなく、上等な平服を着ている。宮廷の社交着だ。英雄として迎えられた人間に相応しい、仕立ての良い服。
「少し話せるかな?」
十年前は眩しかった笑顔が、今は影の中にある。
「……何の話?」
「離縁のことだよ。きみが法務局に行ったって聞いた。——もう少し、穏便にできないかな?」
穏便に。
師匠が倒れた翌日に、その言葉を選ぶ人なのだ。この人は。師匠の死を知っているはずなのに、それには触れもしない。
「穏便に、というのは?」
「公にしなくても、内々に処理できるだろう? きみの立場だって守れる。宮廷薬師の職はそのまま——生活に不自由はさせない」
「ギルベルト」
わたしは夫の名前を呼んだ。十年ぶりに、この名前を怒りとともに口にした。
「わたしの師匠が、昨夜亡くなった」
ギルベルトの表情が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、あの柔らかい笑顔に戻る。表情を取り繕う速度が、十年前より速くなっている。
「それは……残念だ。ベアーテ先生にはお世話になった」
「あなたは世話になっていない。会ったこともほとんどないでしょう」
わたしの声は静かだった。薬を調合するときと同じ、揺れない手と揺れない声。
「離縁の件は、法務局を通します。それが正規の手続きですから」
「イルゼ——」
「それと。師匠の死因について、わたしは独自に調べます。薬師として」
ギルベルトの笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。
頬の筋肉が一瞬引きつるのを、わたしは見逃さなかった。
薬草園の土の匂いが、師匠の記憶と一緒にわたしの鼻腔を満たしていた。




