第2話 離縁状は誰の手で
「離縁の申し立てですね。担当は私になります」
銀縁の眼鏡の奥の目が、わたしをまっすぐに見た。感情の色がない。水の底を覗いているような、静かな視線だった。
法務局の面会室は質素で、壁には王国の紋章と法典の棚しかない。窓から差し込む光が、机の上の書類を白く照らしていた。
「ノーラン・ヴィス。法務局補佐官です」
差し出された名刺を受け取る。紙の質が良い。法務局の正規品ではなく、私費で作らせたものだろう。文字の配置が几帳面で、余白の取り方に神経質なほどの均整がある。名前の下に小さく「法学士」と記されている。
(この人、細部に気を遣う人だ)
薬師にとって、相手を観察する習慣は呼吸と同じだ。患者の肌の色、爪の状態、瞳孔の開き方。それと同じように、わたしは人の持ち物や仕草から、その人の内面を読み取ろうとする。
ノーラン・ヴィスという人物は、黒髪を短く整え、姿勢が良く、長い指で書類を扱う動きに無駄がない。法務官という職業に、全身で適応している人間だ。
「ファーレン家の婚姻は騎士爵の格式ですので、離縁には三つの手続きが必要になります」
ノーランは机の上に書類を三枚並べた。それぞれに付箋が貼ってある。黄色、青、赤。色分けの意味を聞く前に、彼が説明を始めた。
「一つ目、婚姻無効の申立書——黄色の付箋です。二つ目、財産分与の査定申請——青。三つ目、爵位継承に関する確認書——赤。このうち、最も重要なのは一つ目です」
「婚姻無効……」
「はい。王国の婚姻法では、重婚は婚姻無効の事由に該当します。ただし——」
ノーランの声が一瞬だけ止まった。この人が言い淀むのを見るのは、これが初めてだった。
「——ただし、遠征中の軍人には『戦地婚』という特例があります。魔王討伐のような長期遠征の場合、現地での婚姻が認められる場合がある。歴史的に見ても、ローマ法においては駐屯地での軍人の婚姻に関する特別規定が存在しました。この国の法制度も、その流れを汲んでいます」
「つまり、ギルベルトの婚姻は合法かもしれない、と?」
「可能性としては。ですが、戦地婚が認められるには三つの条件があります。第一に、遠征の実態が確認されること。第二に、現地の領主または軍司令官の承認があること。そして第三に——本国の配偶者に通知がなされていること」
通知。
わたしは一通の手紙も受け取っていない。十年間、一度も。
「通知は届いていません」
「であれば、そこが争点になります」
ノーランが付箋のついた書類の一枚目を、わたしの方に押し出した。万年筆のキャップを外し、「ここに日付を」と指差す。その指先が正確に記入欄を指している。
「ファーレンさん。これは時間のかかる案件です。相手は凱旋したばかりの英雄だ。宮廷の世論は彼に味方するでしょう。英雄の名声は、法よりも強く人の心を動かす。覚悟はありますか」
覚悟。
その言葉に、昨日のベアーテ師匠の声が重なった。「法廷に立つ日が来たら、涙は一滴も許されないからね」。
「……あります」
「わかりました。では、まず事実を整理しましょう。あなたが送った手紙の控えは残っていますか?」
「はい。すべて写しを取っています。薬師の習慣で——調合記録と同じように、日付と内容を控えるのが癖で」
薬師は調合のたびに記録を残す。使った薬草の種類、分量、患者の症状、処方後の経過。記録がなければ、万が一の事故で原因を追跡できない。だから、記録を残すことは職業病のようにわたしに染みついている。
ノーランの眼鏡の奥で、わずかに目が動いた。感情の読めないこの人の、初めて見る反応だった。驚きではない。何か別の——敬意に近いものかもしれない。
「……それは、非常に有用です。記録を残す習慣が、あなた自身を守ることになる。多くの依頼人は、感情の記憶は鮮明でも、事実の記録を持っていません」
ノーランが初めて、わたしの目を少しだけ長く見た。そして視線を書類に戻した。
「手紙の写しを、次回の面談時に持ってきてください。全通、日付順に。——付箋は私が貼ります」
◇
法務局を出ると、回廊にヨナスが待っていた。
薬務局の主任薬師で、わたしの三つ年上の先輩だ。穏やかな笑顔で、いつも周囲に気を配る人。新人の頃からわたしの面倒を見てくれた、信頼できる同僚。
「イルゼ、大丈夫? 昨日のこと、薬務局中に広まってるよ」
「……そう。早いわね」
「まあ、凱旋式だからね。みんな見てたし。とくに女官たちの間では、もう噂でもちきりだよ。英雄の帰還に、知らない女と子ども——物語みたいだって」
「物語なら良かったのにね」
ヨナスが並んで歩きだす。回廊の窓から午後の光が差し込んで、石畳に格子の影を落としていた。ヨナスの足音はいつも静かだ。薬務局では「猫足のヨナス」と呼ばれている。
「何か力になれることがあったら言ってくれ。書類仕事の引き継ぎとか、調合の分担とか。今週は俺が多めに受け持つよ」
「ありがとう。でも大丈夫、仕事はいつも通りにやるわ。手が空いてると、余計なことを考えてしまうから」
「イルゼらしいね」
ヨナスが笑う。この笑顔に何度か救われたことがある。新人の頃、調合を失敗して落ち込んだとき。師匠に叱られて泣きそうになったとき。「大丈夫、次はうまくいくよ」と、いつもこの笑顔で言ってくれた。
「ところで、ベアーテ先生に会った?」
「昨日。法務局に行けと言われた」
「さすが先生だな。判断が早い。……あのさ、イルゼ」
ヨナスが少し声を低くした。回廊に他の人影がないか、さりげなく確認するように目を動かしている。
「オズヴァルト伯爵が、ギルベルトの凱旋祝いを主催するらしい。伯爵家の主催ってことは、宮廷の上層部がギルベルト側についてるってことだ。気をつけて」
「……オズヴァルト伯爵が?」
オズヴァルト伯爵は、王室薬務局の上位管轄者だ。薬草の流通に関する利権を握り、宮廷の薬に関する一切を支配している人物。わたしの直属の上司筋にあたる。
茶会の席で穏やかに笑いながら、相手の弱点を探る人だと聞いている。直接会ったことはあまりないが、会うたびに高級な香水の匂いがした。薬草の匂いを消すような、強い香水。
「ありがとう、ヨナス。気をつける」
「うん。……無理しないでね。困ったら、いつでも頼ってくれ」
ヨナスが去った後、わたしは回廊の柱に背中を預けた。石の冷たさが背中に染みる。
(オズヴァルト伯爵がギルベルトの後ろにいる。薬草利権と、遠征の英雄。この二つが繋がっているとしたら——)
薬師の頭が動き出す。
観察。仮説。検証。
遠征中、ギルベルトが「魔王討伐」の名目で何をしていたのか。遠征費はどこから出ていたのか。そして、なぜオズヴァルト伯爵がわざわざ凱旋祝いを主催するのか。薬草の管轄者が、騎士の凱旋に関わる理由は何だ。
答えはまだ見えない。
けれど、問いの形は見えてきた。問いの形さえわかれば、薬師は答えに辿りつける。調合と同じだ。症状を正しく観察できれば、処方は自ずと決まる。
わたしは法務局でもらった書類を抱え直し、薬草園へ向かった。師匠に報告しなければ。今日の面談の内容と、ヨナスから聞いた伯爵の動きを。
——そのとき、薬草園の方角から、悲鳴が聞こえた。




