第1話 凱旋の日に届いた裏切り
十年ぶりに夫の顔を見た瞬間、わたしの足は一歩も動かなかった。
動けなかった、のではない。動く理由がわからなかったのだ。
宮廷の正門に敷かれた赤い布の上を、ギルベルト・ファーレンは堂々と歩いてくる。金の髪が陽光に透けて、甲冑の胸当てに刻まれた王国騎士の紋章が眩しい。
周囲では宮廷の人々が拍手をしている。「英雄の帰還だ」と誰かが叫んだ。花弁が宙に舞い、歓声が石造りの回廊に反響していた。
十年前と変わらない笑顔だった。
いや——少しだけ、頬のあたりが柔らかくなっている。戦場で削がれるはずの頬が、ふっくらと丸い。騎士が十年も戦い続ければ、顔は削げ、皮膚は日に焼け、目の下には深い影が刻まれるものだ。
(……おかしい)
薬師は観察が仕事だ。人の顔色、肌の質感、爪の状態。体のわずかな変化から病を読み取り、適切な薬を処方する。わたしは十年、その技術で王宮に仕えてきた。
だからこそ、些細な違和感を見逃せない。
手の甲にも目を向けた。騎士の手は剣だこで硬くなるものだ。だがギルベルトの手は滑らかで、指先には薬草を扱ったような細かな傷がある。剣ではなく、植物を扱う手だ。
爪の状態も確認した。戦場では衛生環境が悪く、爪に縦筋が入ることが多い。栄養不足や感染症の兆候だ。けれど彼の爪は健康そのもので、つやがあった。
だから気づいた。
夫の後ろに立つ、栗色の巻き毛の女性と、その腕に抱かれた幼い子どもに。
女性はおそらく二十代の半ば。素朴な旅装だが、仕立ては悪くない。子どもは三つか四つ。栗色の髪を母親から受け継いでいるが、目の色は——碧い。ギルベルトと、同じ色だ。
「イルゼ」
ギルベルトがわたしの名を呼ぶ。凱旋の歓声の中で、その声だけが妙にはっきりと聞こえた。
十年前に聞いたのと同じ響き。出立のとき「すぐに戻る」と言った、あの声。
「久しぶりだね。元気そうでよかった」
元気そうでよかった。
十年間、季節ごとに送った手紙への返事は一通もなかった。届いているのかさえわからなかった。春の薬草の芽吹きのこと、夏の疫病のこと、秋の調合試験に合格したこと、冬の宮廷行事のこと——四十通以上の手紙を書いた。一通も返ってこなかった。
それなのに、「元気そうでよかった」と。
「……ええ、お帰りなさい」
声は震えなかった。薬師は調合を間違えれば人が死ぬ。微量の差が生死を分ける仕事だ。だから手も声も、揺らさない訓練をしてきた。
ベアーテ師匠に叩き込まれた基本だ。「手が震えるなら薬師を辞めなさい」と、十八のときに言われた。あれ以来、わたしの手は震えない。
けれど、わたしの視線はギルベルトの後ろへ向かう。あの女性と子どもから、目を離せない。
「あの方は?」
「ああ、紹介するよ。ソニアだ。遠征先で……その、世話になった」
世話になった。
その表現が何を意味するのか、ソニアと呼ばれた女性の左手の薬指に光る指輪が教えてくれた。
わたしと同じ意匠の、ファーレン家の婚姻指輪だった。
銀の台座に小さな蒼玉が一粒。ファーレン騎士家の紋章である蒼い盾を象ったもの。わたしの左手にあるものと、寸分違わない。
呼吸が止まりそうになった。でも、止めなかった。息を吸って、吐いて、もう一度吸った。薬師が倒れたら、患者は誰が診る。自分に倒れる権利はない。
◇
王宮の薬草園は、正門の喧騒が届かない場所にある。
わたしはそこに戻り、乾燥棚に吊るしたカモミールの束を一つ手に取った。花の部分だけを丁寧にほぐす作業は、感情を殺すのにちょうどいい。指先に集中すれば、頭の中の嵐を少しだけ静められる。
カモミールはキク科の薬草で、鎮静作用と抗炎症作用を持つ。煎じて飲めば不眠に効き、湿布にすれば傷の化膿を防ぐ。ローマ帝国の時代から「大地のリンゴ」と呼ばれ、戦場の軍医が最も頼りにした薬草の一つだ。
わたしはこの薬草を育て、乾燥させ、調合し、王宮の人々に届けてきた。十年間、ずっと。
「イルゼ」
薬草園の入口に、白髪を高く結い上げた老女が立っている。ベアーテ師匠だ。薬務局長でありながら自ら薬草園の管理も兼ねているこの人は、わたしを名前で呼ぶ数少ない一人だ。他の同僚は「ファーレンさん」と呼ぶ。
エプロンに薬草の粉がついている。今日はセージの選別をしていたのだろう。セージの粉は灰緑色で、独特の苦い匂いがする。
「師匠、カモミールの今年の収量ですが——」
「そんな話をしに来たんじゃないよ」
ベアーテ師匠がわたしの手からカモミールの束を取り上げる。皺の深い手だが、力は強い。四十年薬草を扱ってきた手だ。
「見たんだろう。あの女と子どもを」
「……はい」
「泣くなら今のうちだ。薬草は涙で濡れても乾かせばいい。けれど、法廷に立つ日が来たら、涙は一滴も許されないからね」
法廷。その言葉に、わたしの指が止まる。
師匠はもう、その先を見ている。わたしがまだ裏切りの衝撃に呑まれている間に、師匠はもう戦いの準備をしている。
「師匠、わたしは——」
「おまえは宮廷薬師だ。十年、この薬草園を守り、王宮の薬務を回してきた。疫病の年には三日間眠らずに解熱薬を作り、飢饉の年には食あたりの治療法を市井の薬師に伝えた。それは事実だよ。事実は、どんな英雄譚より強い」
ベアーテ師匠の手が、わたしの肩に触れる。乾いた、薬草の粉がついた手。この手に何度叱られ、何度助けられたかわからない。
わたしが薬師を志したのは、この人に出会ったからだ。十八歳の、何も持っていなかったわたしに、「おまえの目は、薬師の目だ」と言ってくれた人。
「離縁するにしても、ファーレン家の婚姻は騎士爵の格式だ。王宮の法務局を通さなければならない。簡単には切れない。相手は英雄の称号を持つ男だ」
「……わかっています」
「わかっているなら、明日、法務局に行きなさい。わたしが紹介状を書く。昔の教え子の弟がいるはずだから」
薬草園の空気は、いつも少し甘い。カモミールとラベンダーが混ざった匂いだ。この匂いの中にいると、わたしは自分を取り戻せる。
わたしはその匂いを深く吸い込んで、師匠の目を見た。
「師匠。わたし、泣かないことにします」
「……馬鹿だね。泣いてからそう言うもんだよ」
ベアーテ師匠は呆れたように笑い、わたしの背中を一つ叩いた。
その一打は、いつも通りの強さだった。弟子を甘やかさない、けれど壊さない力加減。
薬草園に西日が差し込んでいた。カモミールの花弁が橙色に染まる。十年前もこうだった。ギルベルトが出立する日の夕方も、わたしはこの薬草園にいた。
(十年。わたしの十年は、嘘の上に建っていたのか)
手が震えた。けれど、握り込んだ掌の中にはカモミールの花弁が一枚だけ残っていて、その薄い感触がわたしを引き止めた。
これは現実だ。この花弁の手触りは本物だ。わたしが十年育てた薬草は、嘘じゃない。
明日、法務局に行こう。
真実がどこにあるのか、この目で確かめるために。
……だけど、ギルベルトの頬がふっくらしていた理由を、わたしはまだ考えている。戦場ではなく、誰かの手料理を食べていた十年。家庭の温かさの中で、柔らかくなっていった頬。それを想像するたび、胸の奥が焼けるように熱い。
翌日の法務局で、わたしを待っていたのは——黒髪に銀縁の眼鏡をかけた、およそ感情というものを持たなさそうな青年だった。




