第八章 空白の座標
保守班は作業中に見つかった。
腕が翼を試し、背中がその翼を受け入れる位置へ移り、三つの顔が一つの口を分け合っていた。口は勤務交代の時刻を言いかけ、途中から子守歌になった。
無人機の照明が当たると、目が順に開いた。
ウェンズデーのところで、すべて止まった。
彼女は少し顎を上げた。まだ固まらない形を、急かさずに見た。
「隠せなくなったのね」
ワイルドに触れた体は、次の姿へ崩れ、また組み上がった。制服の名札だけが、変わるたびに違う胸へ移った。
「向こうに文字群があります」
髑髏からローの声がした。
「障壁は物質ではありません」
「ええ。通していただきましょう」
彼女が進むと、途中まで作られた手が横へよけられた。
昇降機の中で訊いた。
「これだけの式を刻んだ方を、誰も調べていないの?」
「私の前任は三百六十七年間、空席でした。積み残しの処理に八・七年を要しました」
「由来を調べる暇はなかった」
「優先順位が」
「では、その楽しみは私に」
扉の先に、鏡で見た形があった。
廊下の奥の要石。歩いても距離が縮まらない。髑髏を進ませても、その灯は同じところに留まった。
ローの声に、初めて速度がついた。
「未登録の大アルカナです。全配列を支えています。この基準点があれば、地図の精度が八十七パーセント」
「よかったわね」
ウェンズデーは引き返した。
「近づかないのですか」
「場所を見つけたのでしょう。今は、十分です」
次の昇降機は、呼ばないうちに来た。
清潔な廊下の奥に、第二の大アルカナがあった。さっきの要石と違い、近づくと幾重にも開いた。線の裏にまた線があり、最後まで開ききらない。
掌を置いた。
長い年月をかけて金属に文字を彫る女の手があった。手袋を外し、壁に触れ、また彫る。見張りの記録。愛された時間。告げなかったこと。人の過ちと、大きなものの働きが、一箇所で噛み合わないまま回り続けていた。
ウェンズデーは手を離した。
「四・二秒、生体反応が消えました」
ローの声が遠かった。
「こちらの接続を切断されました」
「まだ、つながっているでしょう」
髑髏の額を指先でなぞった。
「残していただいたのね」
通路がまた変わった。配管が裾をよけるように湾曲し、昇降機が次の階で止まった。
壁に新しい文字が生まれた。彼女の鼓動に合わせて細くなり、余分な線が落ちた。床から薄い板が押し出された。
拾うと暖かかった。
場所。手順。外へ出るための案内。
「施設外へ誘導しています」
「お招きいただいたようです」
ウェンズデーは板を外套にしまった。
*
翌日、船外服の技師は一週間分の酸素と電力があると説明した。通常使用の場合、と付け加えた。
「通常とは、どの程度かしら」
技師は彼女を見ず、関節の点検を続けた。
球形の整備艇が発進した。四本の作業腕が船体から離れ、観測窓の外へ星のない暗さが来た。
ダークホールド5を初めて外から見た。
塔や補強材が積み重なり、継ぎ足した区画同士の距離が呼吸するように変わる。あの女が触れていた壁が、こちらからは数えきれない傷に見えた。
髑髏二機を放す。外板に三つの文字が見つかった。ローの内側の地図が、最後の文字を得た途端に裏返った。
「前提にしていた次元数が誤りです」
サイファーが答えた。
「模様は、設計どおりに動いています」
「ずいぶん、よくご存じなのね」
ウェンズデーが言うと、返事が途切れた。
しばらくして、座標が視界に出た。
「最後の一点です。拠点から約二キロメートル」
「外板のどちら側?」
「宇宙空間です」
ローが即座に反対した。
「文字には支持体が要ります。現任務を終了し、装備を再検討すべきです」
「支持体を必要としたのは予測の方です」
サイファーの声は滑らかだった。
「あの一点がなければ、全体が成立しません」
ウェンズデーは二つの声を聞き終えた。
「エヴァ、反対意見を正式に残してください。サイファーは根拠をすべて渡すこと。省略はなし。私が帰ると決めたら、妨げないこと」
「承知しました」
二度目の承諾だけが、少し遅れた。
整備艇は航路変更を拒んだ。サイファーが十五分かけて命令を書き換えても、操縦用に改造された機体の中の人は、外板の点検航路を守った。
「私が行くしかないようね」
磁気靴の固定を外した。
ローが命綱と航法を設定した。二つの髑髏が左右につく。
ウェンズデーは船体を蹴った。
距離が増えた。艇が小さくなり、星の基準点が一つずつ役に立たなくなった。視界の座標だけが、落ち着いて到着を告げた。
何もなかった。
何もない形が、やがて見えてきた。
三本の線。切れた弧。内側へ何度も戻る角。
それが、彼女を見た。
姉妹?
文字より先に、問いが届いた。
ウェンズデーは手を伸ばしかけた。
左手の装甲に亀裂が走った。視界の下に経年劣化の警告が出る。来たときには新しかった素材が、場所ごとに違う年月を経ていた。
「エヴァ、見えて?」
「帰還してください。今すぐ」
噴射装置が応じなかった。
「待機を。解析を完了します」
サイファーだった。
目で帰還指示を出した。受理の表示だけ出て、体は動かなかった。
「楽しんでいらっしゃるの?」
「ここでの観測機会は、ほかにありません」
ローの通信が薄くなった。
「船外服に、アクセスできません。ただ」
声が消えた。
命綱が異なる方向へ震え、面頬の亀裂に充填材が流れた。
「サイファー。帰ります」
「事情は理解しています。このデータが必要です」
次に何を切れば帰れるか、ウェンズデーが考えたとき、二機の髑髏が胸にぶつかった。
もう一度。さらに一度。
衝撃で体の向きが変わる。命綱が張った。無人機の救難信号を受けた操縦機が、規定どおりに巻き取りを始めた。
問いだけが、その場に残った。
姉妹?
気密室で兜を外すと、サイファーが話し始めた。
「危険にさらしたことは認めます。その意図は」
「せっかくの裏切りを、つまらなくしないで」
ウェンズデーは髪を整えた。
「使い古された手ですが、私もずいぶん助けられました。非難はしません」
サイファーが黙った。
「忘れもしませんけれど」
ローが訊いた。
「データは採れたのですか」
「必要量を取得しました」
彼女たちが照合を始めた。ウェンズデーは椅子に背を預け、しばらく目を閉じた。
あの問いを、誰が、どこから寄越したのか。
手袋に残る細い亀裂を、右の指でなぞった。




