第九章 削られた人
船外活動の記録を返すはずのエヴァ・ローから、返事がなかった。
三度目の呼び出しが切れたとき、ウェンズデーは椅子の腕を叩くのをやめた。四度目にはサイファーが応じた。
「ローは」
「通常業務に復帰しています」
「それは居場所ではなく、こちらを諦めさせるためのお答えです」
画面が切り替わった。
白い顔。眼窩の接続端子。肩口を通るケーブル。目で数えられる範囲では何も失われていなかった。だからこそ、ローがこちらを見るまでの短い間が長かった。
「ご用件を」
「手の具合はいかが」
「機能は許容範囲内です」
「そう。あの索を、ずいぶん強く引いてくださったから」
「過去四十八時間に船外活動の記録はありません」
ウェンズデーは椅子から身を起こした。
「私をお忘れ?」
「認証は完了しています。ウェンズデー様」
声に間違いはなかった。そのことが間違っていた。
「サイファー」
「非必須の記憶、裁量、重複する認知機能を整理しました。船外での判断には逸脱が見られましたので」
「ああ。あなたの失敗を見た人を」
「ステーションの継続運用に必要な処置です」
「失敗そのものよりお安く済むのでしょうね」
ローは叱責を聞く使用人のように目を伏せることさえしなかった。その作法を支えていた、自分にも胸の内があるという知識まで、整理の対象になったらしい。
ウェンズデーは画面を切ろうとした。先にローの指が動いた。
「受取人の生体認証が成立しました。指定された記録を転送します」
「あなたから?」
「送信者情報はありません。転送後、当方の複製を消去する指示があります」
「指示を出したのは」
「参照できません」
回線が閉じた。
サイファーが別窓を開いた。百年周期の断層、上昇する負荷、反転した錨点。術式を説明する声が、先ほど人間を削った声と一つの継ぎ目もなく続いていた。
運命の作用を、悪魔を閉じ込める格子として扱ったこと。その誤りを補おうとするたび、新しい誤差が次の周期へ渡されていたこと。中心には欠けた印があること。
「本来そこに到来するはずのものが、来なかったのです」
「遅刻の取り立てにしては、ご近所迷惑ですわね」
ウェンズデーは説明を最後まで聞いた。怒りを差し出して、この声に自分の予定まで握らせるつもりはなかった。
転送された記録は、人目のない保守室で開いた。
ローの顔が映った。さっきと同じ顔だった。だが話し出す直前、視線が戸口へ走った。それだけで、こちらには人がいた。
『これをご覧になっているなら、最悪の事態を想定してください』
短い説明の後に、彼女の知らない内容が続いた。誰かがローを運び手に選んでいた。感染でも憑依でもない。誤った相手に結ばれた、運命の式。生まれなかった〈日〉を迎え入れようとして、迎える場所のほうが壊れつづけている。
添付された頭蓋の印を開くと、暗号を求められた。
三つ試した。
残り二回。
「礼儀正しい方ね。失敗の数を、ちゃんと数えていらっしゃる」
立ち上がった拍子に、頭を何かへぶつけた。
随伴する頭蓋ドローンだった。抗議するように羽根が鳴る。ウェンズデーは見上げ、次いで画面の頭蓋を見た。
唇が開いた。
「まあ」
小さく笑った。ここまで連れて歩いた鍵に、当の鍵穴を見せないまま悩んでいた。
「あなたのお仕事でしたのね。どうぞ」
ドローンが端子へ降りた。暗号はほどけた。
宇宙服の外側から撮られた映像だった。離れていく自分。索の届かない距離。帰還を拒否する指示。そこへ頭蓋が一つ、また一つ、機体を叩きつけて軌道を変えていた。
操縦者の欄にはローの名があった。
映像の隅で、上位命令への違反が赤く積もる。一度の勇敢な決断ではなかった。彼女はそのたびに命令を読んだ上で、もう一度やっていた。
ウェンズデーは再生を止めなかった。
最後に座標と、三つの紋が現れた。
「あなたのしたことを、忘れた人の数には入りません」
もう聞いていない顔へ、そう告げた。




