第四章 見張りの記録
最初の四十年、異常領域は空だった。
十年ごとにグレイスは戻った。点検票を受け取り、入口で一呼吸置き、下へ降りる。白い測定膜は何度も交換され、そのたびに端の数列だけは引き継がれた。
帰る家もできた。
借りた部屋が持ち家になった。ドレイヴンは何度も同じ旅の話をした。同じ箇所で笑い、年を取ると、その手前から笑うようになった。
十二年目の記録を撮った夜、グレイスはカメラに言った。
「確認しました。いつも確認しています。何を確かめているのかは」
録画を止めた。
結婚三十八年目の映像には、食卓の向こうのドレイヴンが映っている。
「また、どこかへ行ってる」
「ここにいるわ。あなたを見てる」
「何が要る?」
「これ。これだけ」
画面の端に、彼の指が入った。カメラを取り上げるつもりはなく、ただ彼女の手を探していた。
五十七年目、空だった領域に水が触れた。
第三層の検査室。卓上に置いたコップから、水が一筋持ち上がった。こぼれず、壁の文字に沿って伸びる。
グレイスは椅子から立ち上がった。
「続けて」
水は止まった。
「どうして、止まるの」
先端が曲がった。壁を離れ、彼女の方へ向いた。
その日の記録に、漏出、とは書かなかった。
触れようとしている。
夜、ドレイヴンに話した。
「あと、どれくらい」
「四十年ほど」
彼は彼女の手を覆った。
「じゃあ、四十年ある」
水がどちらへ曲がったかは、話さなかった。
満期が近づいた最後の帰還では、影が光と逆に寄った。扉の向こうの足音が、扉の手前で止まる。担当者たちは故障箇所を個別に記入し、総括欄を空けた。
検査室の金属板を磨いた日、自分の鏡像が先に歩いた。
グレイスは足を止めた。鏡像はそのまま部屋を横切り、振り返った。
タリアの顔つきで。
「練習していたのね」
鏡像が首を傾けた。
「私の顔を、勝手に使わないで」
板の表面が膨らんだ。彼女と同じ指が金属を押し分け、頬に近づく。
グレイスは動かなかった。
あと一寸のところで指は戻り、板は平らになった。鏡像の足が、彼女の足に追いついた。
その晩の記録には、一行だけ残した。
私は、触れさせるつもりだった。
ヴェナリスが自分の考えを自分のものだと言わなくなったのは、その帰還の十八日目だった。
蘇生装置の前に立ち、顔を少し上へ向けていた。グレイスは向かいに座った。
「今日は近い」
「どうしてわかるの」
「俺のふりを、やめた」
彼がこちらを見た。
「まだきれいだと言っている。待っていた姿のままでいてくれたと。帰ってくると、知っていたと」
グレイスはその手首を掴んだ。
「やめて」
「それでも帰ってきた、と」
手を放し、壁へ行った。両掌を押し当てる。
「もういい」
「壁の向こうにいたと言ってる。君がそうするたびに」
指が白くなった。
「楽しいんだと。君と同じ部屋にいられる。俺の口からでも。終わってほしくない」
グレイスは振り返った。目元が濡れていた。
ヴェナリス自身の声が戻った。
「会いたかったんだろう」
カメラは棚に置いたままだった。電源を入れなかった。
その夜、ドレイヴンの肩に顔を埋めて、呼吸が朝まで続くのを聞いていた。
最初の帰還者の映像は、四十光時離れた貨物中継所から届いた。
夕飯の卓。元弟子の女が椅子に座る。夫が食事を取り分け、十四歳の娘が話している。椅子の背に通学鞄が掛かっていた。花が描いてあった。
七分後、夫が女の肩に触れた。
九分後、娘がその手を握った。
十一分後、女は顔を上げた。
グレイスはそこで一度停止した。娘を見る顔が、次の一コマで変わっていた。
再生した。
女は道具を取りに立った。夫の口が名前を呼ぶ形になった。娘は廊下へ走った。扉は、ほとんど開いていた。
九十秒後、女は道具を洗い、服を替え、荷物を持たずに家を出た。
行先はダークホールド5だった。
四件目で、グレイスは映像を閉じた。画面の暗い部分に、自分の手が映っていた。
帰還者たちは何も持たず、下へ降りた。
「止まって」
最初の男は止まった。首の角度が、あの鏡像と同じだった。
「あなたがいると、おっしゃっていました」
「引き返して」
「覚えていらっしゃいますよ、あなたを」
グレイスが殴ると、男は折れるように倒れた。フィティナが後ろを見た。
「まだ来ます」
五日後、一人だけ走る女がいた。下から上へ、逃げていた。途中で体が止まった。片足を浮かせた姿勢のまま向きが変わり、何事もなかったように下へ歩いた。
九日目には、建設時から封じられている保管室の中に女がいた。点検窓に手を当てると、向こうでも同じ手が重なった。
唇が動く。
ここにいる。
グレイスが下がると、女は奥の壁へ向き直った。手だけが窓に残っていた。腕は体を通り抜けていた。
人差し指が、ゆっくり窓を叩いた。
カスパルは内側の境界で帰還者を止めた。殴っても倒れた男は起き上がり、やがてカスパルの腕を取った。短い争いのあと、カスパル自身が下層へ歩き始めた。
「殺してください」
フィティナが言った。
グレイスは彼女を見た。
「確かですか」
「はい」
命令を出した。
二日後、若い男が廊下の途中で止まった。まだ銃口を向ける前だった。自分の両手を見て、グレイスを見た。
「来たくなかった。わかるんです、引かれてるのが」
右足が前へ出た。男はそれを見下ろした。
「止めてください。どうやってもいい」
左足が動いた。
グレイスは銃を上げた。
「ありがとう」
男は目を閉じた。
記録の表題を、封鎖経過、から書き換えようとした。別の語を入力する前に、指が止まった。
彼女の作った壁の内側で、何かが育ち終わろうとしていた。




