↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命の影  作者: 竜の牙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/9

第二章 上の階では笑う

三か月目の終わり、ルーが先生との内輪の話を、別の弟子に漏らした。


 その晩は机が片づけられ、壁の表示が落とされた。弟子たちは半円になって待った。グレイスもその一人だった。


「ルー」


 呼ばれた女は、背中で両手を握って前に出た。いつもよりきれいに髪をまとめていた。


「何を話したのかしら」


「私は、その」


「私にではなく、あの子に」


「西の壁が変わったことを。グレイスを呼ばれたのは、研究だけのためではないと」


「間違っていた?」


 ルーは答えなかった。


 タリアの指の背が、その頬に触れた。ルーは目を閉じ、顔を寄せた。


「どこまでを、自分のものだと思ったの」


 指が離れる。


 ルーの頬は、触れられていた空間に向いたままだった。


「それも、あなたのものではないわ」


 グレイスは自分の爪が掌に食い込むのを感じた。女の口から漏れた音を、止めることも、聞かなかったことにすることもできなかった。


「部屋へ連れていって」


 先輩二人がルーを支えた。膝が床をこすった跡だけ残った。


 三日後、同じタリアがグレイスの隣で六時間働いた。飛び越えられなかった証明の隙間が、一つずつ埋まった。質問をすると、最後まで聞いてくれた。彼女が答えを見つけるまで待ってくれた。


 あまりに楽しかった。


 ルーの声を覚えているまま、楽しかった。


 帰りの廊下で、メリスに会った。背中の布地に骨の線が浮いていた。七年この研究室にいる女の背骨は、首の付け根に向かって斜めに寄っていた。


 グレイスが立ち止まると、メリスも止まった。


「見えるようになったのね」


 胸に掌を当てる。その下で肋骨がゆっくり位置を変えた。


「場所を空けているの。先生が、お入りになるから」


 メリスは楽しそうだった。少し遅刻を気にしているようでもあった。


 グレイスは上の階へ戻った。


 半年目に、ドレイヴンが来た。


 貨物便に乗って、工具袋を下げていた。研究員ではない。正式な配属先を訊くと、彼自身も少し首をかしげた。直すものがあると呼ばれた、それ以上は聞いていないという。


 彼が近づいても、壁は温度を変えなかった。


 三週間後、グレイスは上層の廊下で中継器の配線をしていた。下の研究が忙しいのに、なぜ自分がこれを引き受けたのかは考えなかった。


「逆だよ」


 入口から声がした。


「わかっています」


「わざと?」


「違います」


 ドレイヴンは隣に腰を下ろし、彼女から工具を受け取った。線を外し、接ぎ直し、電源を入れる。蛍光灯が点いた。


「これで明るい場所で逆にできる」


 思わず笑った。声が廊下に響いて、自分でも驚いた。


「上にいると違うな」


「私が?」


「ここでは笑うんだ」


 工具を返してもらうときに指が触れた。そのまま一拍、離すのが遅れた。彼は手を引かなかった。


 下層に戻る途中、古い点検蓋に目が止まった。保守記録では通常閉鎖。溶接痕は、内側から押されることを想定して重ねられていた。


 グレイスは両手を当てた。


 タリアの暖かさを探す必要はなかった。蓋の向こうで何が耐えているのか、三十秒だけ、そこにいた。


 金属が小さく震えた。


 手を離すと、廊下の奥で何かが息を吐いた。


 その晩の研究室では、タリアが全員を集めて実演をした。空間が折り返し、弟子たちの影が先に立ち上がった。暖かさが全身を満たした。タリアはグレイスを見ていた。隠すものを残さず、見せていた。


 グレイスは最後まで席を立たなかった。


 その日の記録は白紙のままになった。


 それから、上層で過ごす時間が増えた。


 ドレイヴンは弁を直し、食事をし、時々居眠りをした。彼女が話すまで話さない日があった。一言も話さずに終わる日も、途中で帰らなかった。


 コーヒーを持っていったことがある。


「俺の?」


「ほかに誰がいますか」


 受け取るまでに少し時間がかかった。その顔を、グレイスは帰ってからも思い出した。


 彼は旅の話をした。二つの太陽が別々の色で差し込む施設のこと。回収コンテナを開けたら子供の靴だけが詰まっていたこと。名簿も送り状もなかったという。


 そこで笑ったので、彼女は訊いた。


「なぜ笑うの」


「笑わないと考えるから」


 次から、コーヒーは二つ買った。


 ある晩、工具を取りに行くと、彼が長椅子で寝ていた。丸めた上着を枕にしている。眠っている顔が、話しているときと同じだった。


 彼女は工具棚の前にしばらく立った。何を取りに来たのか、すぐには思い出せなかった。


 使いにくかったロッカーの蝶番が、翌朝には滑らかになっていた。誰も修理について報告しなかった。


「この前の論文、読んだよ」


 上層の壁は冷たかった。グレイスが寄りかかっても変わらない。


「全部はわからなかった」


「わからなくてもいいのに」


「わかりたいんだよ」


 彼は数歩離れて立っていた。


「次の異動、半年くらいだと思う。一緒に来てもいい。今、返事はいらない」


 グレイスは彼を見た。返事を待たないと言った口が、本当にそのまま閉じていた。


「下へ戻ります」


「うん」


 背中を壁から離した。冷たさはついてこなかった。


 三日後、彼を探しに行くと、タリアと一緒にいた。


 研究区画の外廊下だった。ドレイヴンは動かず、タリアがその周りをゆっくり歩いていた。


「気が散るでしょう、この人がいると」


 タリアはグレイスを見ずに言った。


「私が呼んだの。ちゃんとした理由があって来たと思っている人が、必要だったから。もう、役目は終わりかけているわね」


 ドレイヴンの目が、廊下のグレイスを捉えた。


「この人には見えないわ。あなたが何なのか。安心して見られるところだけ見ている」


「それを欠点にしないでください」


「限界よ」


 グレイスはドレイヴンに上へ行くよう頼んだ。彼が去るまでタリアは黙っていた。


「先生を知らないから、離れたいわけではありません」


「知っているわ」


「知ったうえで、それでも」


「だから、あなたがよかったの」


 タリアの表情がわずかに崩れた。


 グレイスは、それを了承だと思った。


 その夜、共用室の床にドレイヴンが座り込んでいた。汗をかいていた。


「一時間、向かいにいた。何もしなかった。見ていただけだ」


 彼は両手を見下ろした。


「俺の中にある、君のものを読んでるみたいだった」


「次の貨物便で出て」


 グレイスは膝をついた。


「連絡先を残して。終わったら、私から行くから」


 彼はうなずいた。


 次の便が離床したあと、グレイスは下層へ戻り、壁に線を一本足した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。