第二章 上の階では笑う
三か月目の終わり、ルーが先生との内輪の話を、別の弟子に漏らした。
その晩は机が片づけられ、壁の表示が落とされた。弟子たちは半円になって待った。グレイスもその一人だった。
「ルー」
呼ばれた女は、背中で両手を握って前に出た。いつもよりきれいに髪をまとめていた。
「何を話したのかしら」
「私は、その」
「私にではなく、あの子に」
「西の壁が変わったことを。グレイスを呼ばれたのは、研究だけのためではないと」
「間違っていた?」
ルーは答えなかった。
タリアの指の背が、その頬に触れた。ルーは目を閉じ、顔を寄せた。
「どこまでを、自分のものだと思ったの」
指が離れる。
ルーの頬は、触れられていた空間に向いたままだった。
「それも、あなたのものではないわ」
グレイスは自分の爪が掌に食い込むのを感じた。女の口から漏れた音を、止めることも、聞かなかったことにすることもできなかった。
「部屋へ連れていって」
先輩二人がルーを支えた。膝が床をこすった跡だけ残った。
三日後、同じタリアがグレイスの隣で六時間働いた。飛び越えられなかった証明の隙間が、一つずつ埋まった。質問をすると、最後まで聞いてくれた。彼女が答えを見つけるまで待ってくれた。
あまりに楽しかった。
ルーの声を覚えているまま、楽しかった。
帰りの廊下で、メリスに会った。背中の布地に骨の線が浮いていた。七年この研究室にいる女の背骨は、首の付け根に向かって斜めに寄っていた。
グレイスが立ち止まると、メリスも止まった。
「見えるようになったのね」
胸に掌を当てる。その下で肋骨がゆっくり位置を変えた。
「場所を空けているの。先生が、お入りになるから」
メリスは楽しそうだった。少し遅刻を気にしているようでもあった。
グレイスは上の階へ戻った。
半年目に、ドレイヴンが来た。
貨物便に乗って、工具袋を下げていた。研究員ではない。正式な配属先を訊くと、彼自身も少し首をかしげた。直すものがあると呼ばれた、それ以上は聞いていないという。
彼が近づいても、壁は温度を変えなかった。
三週間後、グレイスは上層の廊下で中継器の配線をしていた。下の研究が忙しいのに、なぜ自分がこれを引き受けたのかは考えなかった。
「逆だよ」
入口から声がした。
「わかっています」
「わざと?」
「違います」
ドレイヴンは隣に腰を下ろし、彼女から工具を受け取った。線を外し、接ぎ直し、電源を入れる。蛍光灯が点いた。
「これで明るい場所で逆にできる」
思わず笑った。声が廊下に響いて、自分でも驚いた。
「上にいると違うな」
「私が?」
「ここでは笑うんだ」
工具を返してもらうときに指が触れた。そのまま一拍、離すのが遅れた。彼は手を引かなかった。
下層に戻る途中、古い点検蓋に目が止まった。保守記録では通常閉鎖。溶接痕は、内側から押されることを想定して重ねられていた。
グレイスは両手を当てた。
タリアの暖かさを探す必要はなかった。蓋の向こうで何が耐えているのか、三十秒だけ、そこにいた。
金属が小さく震えた。
手を離すと、廊下の奥で何かが息を吐いた。
その晩の研究室では、タリアが全員を集めて実演をした。空間が折り返し、弟子たちの影が先に立ち上がった。暖かさが全身を満たした。タリアはグレイスを見ていた。隠すものを残さず、見せていた。
グレイスは最後まで席を立たなかった。
その日の記録は白紙のままになった。
それから、上層で過ごす時間が増えた。
ドレイヴンは弁を直し、食事をし、時々居眠りをした。彼女が話すまで話さない日があった。一言も話さずに終わる日も、途中で帰らなかった。
コーヒーを持っていったことがある。
「俺の?」
「ほかに誰がいますか」
受け取るまでに少し時間がかかった。その顔を、グレイスは帰ってからも思い出した。
彼は旅の話をした。二つの太陽が別々の色で差し込む施設のこと。回収コンテナを開けたら子供の靴だけが詰まっていたこと。名簿も送り状もなかったという。
そこで笑ったので、彼女は訊いた。
「なぜ笑うの」
「笑わないと考えるから」
次から、コーヒーは二つ買った。
ある晩、工具を取りに行くと、彼が長椅子で寝ていた。丸めた上着を枕にしている。眠っている顔が、話しているときと同じだった。
彼女は工具棚の前にしばらく立った。何を取りに来たのか、すぐには思い出せなかった。
使いにくかったロッカーの蝶番が、翌朝には滑らかになっていた。誰も修理について報告しなかった。
「この前の論文、読んだよ」
上層の壁は冷たかった。グレイスが寄りかかっても変わらない。
「全部はわからなかった」
「わからなくてもいいのに」
「わかりたいんだよ」
彼は数歩離れて立っていた。
「次の異動、半年くらいだと思う。一緒に来てもいい。今、返事はいらない」
グレイスは彼を見た。返事を待たないと言った口が、本当にそのまま閉じていた。
「下へ戻ります」
「うん」
背中を壁から離した。冷たさはついてこなかった。
三日後、彼を探しに行くと、タリアと一緒にいた。
研究区画の外廊下だった。ドレイヴンは動かず、タリアがその周りをゆっくり歩いていた。
「気が散るでしょう、この人がいると」
タリアはグレイスを見ずに言った。
「私が呼んだの。ちゃんとした理由があって来たと思っている人が、必要だったから。もう、役目は終わりかけているわね」
ドレイヴンの目が、廊下のグレイスを捉えた。
「この人には見えないわ。あなたが何なのか。安心して見られるところだけ見ている」
「それを欠点にしないでください」
「限界よ」
グレイスはドレイヴンに上へ行くよう頼んだ。彼が去るまでタリアは黙っていた。
「先生を知らないから、離れたいわけではありません」
「知っているわ」
「知ったうえで、それでも」
「だから、あなたがよかったの」
タリアの表情がわずかに崩れた。
グレイスは、それを了承だと思った。
その夜、共用室の床にドレイヴンが座り込んでいた。汗をかいていた。
「一時間、向かいにいた。何もしなかった。見ていただけだ」
彼は両手を見下ろした。
「俺の中にある、君のものを読んでるみたいだった」
「次の貨物便で出て」
グレイスは膝をついた。
「連絡先を残して。終わったら、私から行くから」
彼はうなずいた。
次の便が離床したあと、グレイスは下層へ戻り、壁に線を一本足した。




