第一章 十二分早い到着
着任理由の欄には、数式に惹かれた、と書いた。
グレイスは送信済みの申請書を閉じ、連絡艇の窓に映る自分を見た。二十三歳。髪を結び直すと、窓の向こうの研究拠点が、わずかに傾いた。傾いたのは艇だった。
ダークホールド5。
外縁宙域の古い施設には、出迎えの灯さえ必要な分しか点いていなかった。接続管を渡るあいだ、靴底から細かい振動が上がってくる。換気装置の周期に、一拍だけ余分な音が混じる。
受付機は彼女に寝台番号と食事券を与えた。研究区画の利用時間は六時から二十二時。下層区画については、指導担当者の承認を要する。
その担当者の論文を、グレイスは昨夜も読んでいた。
十六歳のとき、世界にも文法があると知った。正しく並べれば、物はそこに在りつづける。間違った箇所を見つければ、まだ誰も知らない扉に指が届く。その扉の向こうから、今回の論文は彼女に返事をした。
最後の式を読み終えたとき、胸の奥に何かが触れた。誰にも話していない。着任理由の欄にも書かなかった。
昇降機は第四層を過ぎた。
空気が暖かくなった。
襟元に指を入れる。温度表示は変わっていない。息を深く吸うと、その暖かさも少し深く入ってきた。
下層の入口に女が立っていた。黒髪に細い銀の筋が走り、両手は体の前で重ねられている。背後の扉には、紙垂に似た白い短冊が四枚吊られていた。よく見ると薄い測定膜で、縁に微小な数列が流れていた。
「フィティナです」
「本日付で配属になりました、グレイスです。よろしくお願いします」
一礼すると、フィティナも同じ角度で頭を下げた。
「先生は早い便で来るとおっしゃっていました」
「その便です」
「便よりも早く」
到着予定より十二分早かった。
「いつも、そこまでおわかりなんですか」
「必要なときは」
フィティナは扉の横に触れた。四枚の膜が揃って裏返り、数列が一瞬だけ消えた。
「入る前に、一呼吸置いてください」
「汚染防止ですか」
「そう教えています」
グレイスは足を止めた。吸って、吐く。扉が開いた。
配置図では未使用空間になっている三層分の空洞が、下に広がっていた。壁という壁に式が刻まれている。彼女が読み込んできた対応幾何学だった。論文では比喩に見えた接続が、ここでは実際に梁を支えていた。
一歩入ると、背中の筋肉がこわばった。目には直角の角が、体には直角として入ってこない。
足元の境界線に、さっき自分が置いた一呼吸と同じ長さの空白があった。
荷物を下ろした。
「まず、この反転を見せていただけますか」
フィティナは初めて彼女の顔から目を離した。
タリアに挨拶できたのは三日目だった。短い面談で、研究歴を訊かれ、好きな証明を一つ挙げるよう求められた。準備していた志望動機は最後まで使わなかった。
二週目には、誰も時計を見ずに休憩を取る理由がわかった。
タリアが共用室に入ると、ペンを置く音が順に止む。茶を淹れる当番の弟子は、湯を注ぐ前から入口に体を向けている。離れた作業机でも、視線だけが同じ場所へ集まる。
グレイスはその様子を観察していた。
自分のペンも止まっていた。
暖かさは下層全体に行き渡っていたが、タリアがこちらを見ると、胸の内側に集まった。そこに自分の席が用意されているような気がした。受け入れれば座れる。背筋を伸ばしたままでいるのは、毎回少しずつ疲れた。
二十二日目、タリアが作業壁の前に来た。
「反転を直したのね」
「符号が逆でしたので」
「四年間、逆のままにしていたわ。あなたは三週間」
グレイスは返事を考えた。謙遜を入れると式が嘘になる。
「先生は四年間、この式の内側にいらしたからだと思います。私は外から入りました」
タリアは、壁から彼女の手へ目を移した。
「さっきまで触っていたでしょう」
指先に、消しきれない熱が残っていた。
「接触による変動を確認していました」
「やめなくていいのよ。そのために作ったのだから」
白い袖がすぐそばを通った。タリアは式の一箇所をなぞり、彼女の修正を残した。
その月は、あと四度、一緒に作業した。
最後の日、退出時刻を知らせる音が鳴った。グレイスが片づけようとすると、タリアが後ろに立った。肩越しに手が伸び、彼女の書いた数字の隣に小さな補助記号を足した。
グレイスは息を止めた。
「その記号で、終わりですか」
「あなたはどう思う?」
終わらないでほしいと思っていた。
翌朝、彼女が茶を盆に並べると、タリアは他の弟子に渡すより先に、その一つを取った。グレイスが自分用に置いた、縁の欠けた湯呑みだった。
誰も何も言わなかった。
個人用の記録を開いたのは、それから二か月近く経った夜だった。
ほしい。
その下に一行空けた。
手に入れない。
どちらも消せず、画面を伏せた。




