第8話 鎖の重さ
柵に生き、柵に苦しみ、柵を越えようとした剣士の物語。
会津藩の剣術指南役に黒崎左京という男がいる。
彼は、自他共に認める忠実な男であり、まさに忠臣そのものであった。
だが、その忠義は一人の主に仕えるときのみ、清廉に輝いた。
天保年間、松平容敬が藩主の頃、会津藩に示現流が俄かに流行した。
「一の太刀を疑わず、二の太刀要らず」と説くこの剣術は、武断派の若侍たちを惹きつけ、藩内の気風を一変させた。
戦場での功を重んじ、武力による統治を是とする空気が広がり、刃傷沙汰が絶えなくなった。
左京を除く剣術指南役の多くが示現流に傾き、心形刀流の技は次第に影を潜めた。
容敬は立派な藩主であった。
だが、武断派の数の波に呑まれ、その志は泡沫のごとく消えた。
左京はただ見守るしかなかった。忠義に縛られ、動くことすらできなかった。
そんな折、清見彦左衛門から密命が下った。
「若殿・容保を護り、江戸の道場へ届けよ」と。
左京は容保を背負い、討手を五人斬り、駕籠も使わず山道を進んだ。
二十日後の江戸下谷、伊庭道場に辿り着いた時、容保を預けたのは後の九代目宗家、塀和惣太郎であった。
左京は事の次第を伝え、僅か四日で会津へ帰藩した。
だが、帰藩した左京を出迎えたのは、新藩主・遠山政勝だった。
政勝は不敵な笑みを浮かべ、座したまま低く響く声で告げた。
「ご苦労。」
左京は一瞬、事態を飲み込めなかった。
遠山政勝は、清見彦左衛門が容保を隠した動きを見越し、幕府に上奏。
軍務家老として新藩主に収まり、相続の御朱印状を得ていたのだ。
「左京殿、若殿の行方を知っておいでか。子供を連れてこの早さで帰藩とは、
江戸までは行かず、どこぞの寺に預けたのであろう。」
政勝の目は鋭く、左京を射抜いた。
左京は平伏したまま、一言も発さなかった。
「どんな手練れでも、妻子は愛おしかろう。このまま若殿の元へ戻り、わしの指示に従い、若殿を殺せ。
目立たぬよう、時期を選べ。よいか、わしの目は江戸にも及ぶ。どこに隠れようと、若殿を見つけ出すぞ。」
「…わかり申した。」
左京の声は震え、僅かに掠れた。
清見彦左衛門なら現状を変えられると信じ、左京は彼の屋敷へ向かった。
だが、彦左衛門は遠山の策により逼塞を命じられ、門前は鉄の鎖と厳重な警備に閉ざされていた。
その姿すら見ることは叶わなかった。
権力の冷酷さが、左京の心に重くのしかかった。
もはや頼る者もなく、左京は重い足取りで再び江戸へ向かった。
伊庭道場に戻ったのは、会津を出て一月余り、秋の気配が漂う頃だった。
容保の居場所を遠山に知られぬよう、道場には立ち寄らず、下屋敷へ向かうべきか迷った。
だが、尾行を振り切り、でたらめに街道を進むうち、左京は力尽きた。
意識が途切れる直前、左京は四つ辻の道祖神に身を預けた。
ひんやりとした石の感触が、傷ついた身体を癒す。濁りのない池の水面に、朧月が揺れていた。
「懐かしくも苦い記憶を呼び覚ますとは、お前の悪戯か…。」
左京は道祖神に呟き、微笑んだ。
あの長屋での一件――お徳婆に煮え湯を浴びせられ、トリカブトを手にできなかった屈辱が甦る。
火傷の痛みが身体を突き、意識が遠のく。
左京は道祖神に身を委ね、静かに目を閉じた。
「のう、道祖神。俺の記憶を覗いたなら、教えてくれ。俺はどうすればいい…。」
やがて、意識が再び浮上した時、左京は伊庭道場の離れにいた。
塀和惣太郎が看病し、火傷の傷を包帯で覆っていた。
左京の痩せ衰えた姿に、惣太郎はただならぬ事態を察した。
「容保殿は無事か…。」
左京のひび割れた唇から、かろうじて言葉が漏れた。
惣太郎が頷くのを見届け、左京は再び意識を失った。
――我が父、容敬は何をしたのか。ずっと考えていたが、どうやら私にその答えは出せそうにない。
命の軽重などなく、誰もが尊い命を持っている。だが、父は、たくさんの柵の上で生き、
時に柵に守られ、柵によって命を奪われた。それが運命ならば、もはや天命と呼ぶほかあるまい。
その答えが出せぬまま、私は生きながらえている。きっと同じ柵の上に乗るのだろうなぁ。
「左京殿、どうせ死ぬのなら、私は毒で死にたい。」 容保の言葉が耳の奥でこだまする。
刀で斬られれば、誰に殺められたのか、知らねばならぬが毒であれば、知らずにあの世に逝けるであろう。
そう口にして、悲しげに容保は笑った。
――容保殿――左京は手を伸ばし、何かを掴もうとした。しかし、それは届かない。空をさまよい、虚しく落ちた。
容保の悲しげな笑みが、左京の胸を刺す。
あの言葉は、左京が遠山から受けた暗殺の密命を見抜いていたのだ。
忠義の鎖に縛られ、ただ命令を果たすだけの剣は、あまりにも軽すぎる。
左京は道祖神の冷たい石を思い出す。会津の山々、容敬公の志、容保の未来。
それら全てが、彼を縛る鎖であり、導く光でもあった。
「容保殿…俺はお前を守る。」
小さな決意が、秋の夜風に乗り、闇に溶けた。
それは道祖神のみぞ知る誓いだった。
左京は立ち上がり、月光に照らされた傷だらけの身体を起こす。
左京は一歩、闇の中へ踏み出した。その先に待つ試練を、知る由もない。
だが、心は初めて自由だった。
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