第9話 試練の幕開け
賞金三両の貼り紙が、江戸の猛者を呼び寄せる。
左京は木剣の打ち合う音で目を覚ました。
あの日、火傷姿で戻った左京を出迎えたのは、またしても塀和惣太郎であった。
それ以降の記憶は途切れ、体の包帯と火傷の痛みから、どうやら数日間は意識を失っていたらしい。
伊庭道場の離れで目を覚ました今朝、道場からは激しい木剣の音が響いていた。
今日は練兵館の剣士たちが出稽古に来ている日だ。
練兵館の若者たちが、気迫を込めて心形刀流の剣士たちに技をぶつけている。
そして、当然のごとく、塀和惣太郎がその中心に立ちはだかっていた。
練兵館は、江戸の九段坂上に位置する神道無念流の剣術道場だ。
開祖・斎藤弥九郎の剣は「力の斎藤」と称される剛剣で知られ、伊庭道場の心形刀流とは異なる剣風を持つ。
そのため、両道場は技術交流の一環として、互いに出稽古を頻繁に行っていた。
その木剣の音の凄まじさよ。伊庭道場の離れで休んでいた左京の意識を呼び起こすほどの力強さだった。
道場口に左京の姿を認めると、惣太郎は静かに微笑んだ。
ちょうどその時、練兵館の若手、野原正一郎が激しい打ち込みを繰り出していたが、
惣太郎は軽やかにその身をかわし、瞬時に背後を取った。振り返りざま、野原の首に木剣の切っ先を静かに置く。
「参りました。」
野原は一礼して下がった。
「汗一つかかないだなんて、さすがだな。」左京が声をかけると、惣太郎は笑みを深めた。
「左京殿にお相手いただきたいのに、いつもその有様で…。いつであれば怪我の無いお姿なのでしょうか。」
左京は釣られるように笑い、「好き好んでこの有様ではないさ。むしろ、こちらが知りたいくらいだ」と苦笑した。
その軽口に、惣太郎は左京の心に何か変化が生じたのを感じた。
いつもなら重い空気を纏う男が、今日はどこか晴れやかだ。
「技は形でしかない。心正しければ、すなわち刀に宿る。心持ちが大事ですぞ。と、我が師が口うるさく申してきます。」
惣太郎が言うと、左京は小さく頷いた。
「心配をかけたな、惣太郎。」そう言って、左京は頭を下げた。
「ところで、惣太郎。お主に頼みがある。」左京は声を低くし、続けた。
「ここで若殿を守るのはたやすいが、いずれ虎口に入らねばならぬ時がくるやもしれぬ。
道場に縁のない、腕に覚えのある者が欲しい。賞金を懸けて、一般から参加者を募り、武術交流会を開いてもらえぬか。」
惣太郎は目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「賞金付きの道場破りですか。面白い試みですが、伊庭道場に挑む武芸者がどれほどいるか…。
だが、腕の立つ者を探しているのですね。では、試しに三両の賞金をつけて、門前に貼り出してみましょう。」
左京は小さく頷いた。「それで良い。頼むぞ。」
惣太郎は立ち上がり、道場の方へ歩きかけたが、ふと思い出したように振り返った。
「そうそう、左京殿。会津藩の清見彦左衛門様から書状が届いていますよ。」と、懐から書状を取り出し、左京に手渡した。
左京の目が鋭く光った。
清見彦左衛門――遠山政勝の策により逼塞を命じられたはずの男が、生きている。
驚きを隠せなかった。封を切り、書状を開く。そこには、端正な筆跡でこう記されていた。
「江戸に潜むと思われる潔目処新左衛門を探し出し、彼と共に若殿を守護せよ。」
左京は書状を握りしめ、思わず息を呑んだ。
潔目処新左衛門――会津藩の毒味役としてその名は知られている。毒をものともしない特異な体質と、
二天箸流の使い手として名高いが、左京には直接の面識がない。
なぜ彦左衛門がこの男を名指しし、若殿の守護を託したのか。
彦左衛門が新左衛門と争ったことなど知らぬ左京は、ただその名を胸に刻んだ。
「潔目処新左衛門…毒味役か。」左京は呟き、視線を窓の外へ移した。
江戸の空は秋の気配を帯び、冷たく澄んでいる。
武術交流会の貼り紙が、どんな風を巻き起こすのか。
容保を守る決意と、新たな謎が左京の胸に交錯した。
練兵館の木剣の音を耳に、左京は傷ついた身体を支え、未来を見据えた。
どんな猛者が現れようと、どんな試練が立ちはだかろうと彼の剣は容保のために振るわれる。
それだけは、変わらない。
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