第3話 雪中の別離
「生きろという声だけが、雪の闇で唯一の灯だった。」
会津の夜を雪が閉ざす。
潔目処新左衛門は、清見彦左衛門の屋敷の庭に立ち、信頼していた上役の裏切りを前に、凍りついた心で佇んでいた。
彦左衛門の眉間に滲む血を月明かりが妖しく映し出す。
新左衛門の投じた金属製の箸が、冷たく雪に落ちると、静寂は確かな響きを持って新左衛門の心を揺さぶった。
昨夜、藩主を狙った刺客を二天箸流で仕留めたばかりの新左衛門にとって、彦左衛門の刃はあまりに冷たかった。
信頼が砕け散る瞬間、彼の胸には、幼い日の記憶――姉・志乃が母の毒入り料理をそっと差し替え、
弟を守るために微笑んだ顔――がよぎった。
あの温もりが、今は遠く、雪のように冷え切っていた。
「どうしたのですか?」奥から響く声。志乃だった。
彼女の足音が雪を踏むたび、新左衛門の心は締め付けられた。
志乃は倒れた夫・彦左衛門の姿を見て凍りつき、その瞳には深い悲しみと、弟を守らねばならぬという決意が宿っていた。
彼女の顔は、かつて新左衛門を毒の修練から守った少女の面影を残しつつ、
妻としての哀しみと、姉としての強い意志に彩られていた。
「新左衛門、あなたは相談する相手を間違えた。」
志乃の声は震え、雪よりも冷たく、しかしどこか熱を帯びていた。
「夫は暗殺を企てる連判状の中心だった。若侍たちの命を守るため、あなたを斬ろうとしたのよ。」
その言葉は、新左衛門の心に雪のように積もり、重く圧した。
志乃の目には、夫を失った悲嘆と、弟を危険から遠ざけたいという切実な願いが交錯していた。
彼女は幼い頃、母が新左衛門に毒を盛るたび、こっそり毒の量を減らし、
時には別の料理にすり替えて弟の命を守ってきた。
藩の毒味役の家に生まれながら、女という理由から志乃自身は毒を食らう修練を課されずにいた。
女である為に、身代わりになる事も出来ずに、ただ弟の無事を祈り続けた。
その過去が、彼女の心に深い傷を刻んでいた。
「姉上…なぜ、彦左衛門殿が…」
新左衛門は言葉を絞り出したが、志乃は首を振った。
彼女の瞳は涙で濡れていたが、その奥には揺るがぬ決意が宿っていた。
「新左衛門、夫は忠義に縛られていた。遠山様の治世に不満を抱く若侍たちをまとめ、暗殺を企てた。
でも、彼は同時に、若侍たちの命を、藩の未来を守りたかったのよ。あなたを斬ることで、
連判状の秘密を守り、藩内の混乱を防ごうとした。」
志乃の声は低く、しかし一言一言に重みが込められていた。
「でも、私には関係ない。あなたは私の弟よ。母の毒から守ったように、今もあなたを守る。それが私の生きる理由なの。」
志乃は懐から金子を取り出し、新左衛門の手に強く押しつけた。
その手は震え、冷たい雪の感触とは裏腹に、姉の温もりが伝わってきた。
「家中が動き出す前、江戸に逐電なさい。家には戻れません。」
新左衛門は志乃の顔を一瞥した。
幼い日、ひぐらしの鳴く夕暮れに、志乃が毒入りの汁をこぼした。
「これ、食べちゃダメよ」と笑った顔が脳裏に浮かぶ。
あの笑顔は、母の厳しい修練の中で新左衛門を支えた唯一の光だった。
しかし今、志乃の顔には笑みはなく、夫の死と弟の未来を背負った深い悲しみが刻まれていた。
彼女の決意は、新左衛門を逃がすことで、せめて弟だけでもこの血と陰謀の連鎖から解放することだった。
「姉上…私は…」
新左衛門は言葉を続けられなかった。
彼女は夫を失い、弟を遠くへ送る選択をした。
その痛みは、新左衛門の胸に剣よりも鋭く突き刺さった。
無言で頷き、新左衛門は塀を跳び越え、雪煙の中へ消えた。
志乃の嗚咽が、雪の夜に溶け、風に飲み込まれる。
背後で志乃の声が、かすかに響く。
「生きて、新左衛門…生きて…。」
その声は、まるで母の毒をすり替えたあの日の約束のように、新左衛門の心に刻まれた。
藩の境界へと急ぐ新左衛門は、雪の小道で親友・藤川義高と鉢合わせた。義
高は暗殺計画の一員だったが、新左衛門を案じ、蚊帳の外に置いていた。
新左衛門は死を覚悟し、彦左衛門との一件から逃亡に至る経緯を語り出す。
義高は静かに耳を傾け、複雑な表情を浮かべ――
「生きろ、新左衛門。」
義高はそう呟き、金子と尻拭きの紙を差し出す。
かつての夏の夕暮れ、ひぐらしの鳴く中で共に笑った記憶を呼び起こした。
新左衛門は紙と金を握りしめ、義高の視線を背に、江戸への道を急いだ。
雪の夜、会津の冷たい風だけが彼を追いかけ、志乃の祈りが遠く響いていた。
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