第19話 ひぐらしの残響
姉の毒は、弟を殺すためではなく、生かすための道しるべだった。
会津の晩春、雪解けの水が山々を潤し、桜の花びらが城下の石畳をそっと彩っていた。
潔目処新左衛門は、毒矢の傷を負いながらも、毒味役の特異な体質により命を繋いだ。
清見彦左衛門の屋敷に運ばれ、姉・志乃の献身的な看病の下、昏睡の中で生死の境を彷徨った。
志乃の手は、かつて幼い新左衛門の額を拭った時のように優しく、しかし今は深い悔恨と愛情が入り混じっていた。
「新左衛門、生きて…どうか、生きて…」
その囁きが、闇の底へと沈みゆく新左衛門の心に微かな灯りをともした。
初夏の陽光が屋敷の障子を柔らかく照らす頃、新左衛門の瞼がわずかに動き、ついに目を開いた。
志乃の涙と笑顔が、静かな部屋に春風のように満ちる。
「姉上…ここは…会津か。」
声は弱々しかったが、志乃の眼差しは安堵に満ちていた。
彼女は静かに語った。
「ごめんね、新左衛門…あの日、お前が逐電した、あの夜、私は母から習った毒を、お前に盛ったの。
お前に斬られたのは、主人ではない事を私は知っていた。でも、言えば、お前は立ち止まる。
わたしの知るお前は、優しすぎる。それでは遠山の手中にお前を残したままになる。だから言葉の毒をひとつ、仕込んだ――
あの毒は、お前を江戸に送り出すための道しるべだったのよ。」
あの雪の夜に斬った男が彦左衛門の身代わりだったこと、遠山政勝の冷酷な策に抗いながら、
彦左衛門が松平容保を守るために動いていたこと。そして、新左衛門の逃亡が、結果として容保の帰藩を支えたことを。
「新左衛門、お前の刃は無駄ではなかった。生きて、ここに戻ってきてくれて…ありがとう。」
志乃の声は震え、涙が頬を伝った。
新左衛門は姉の手をそっと握り、かつて毒入りの汁をすり替えた少女の笑顔を思い出した。
あの温もりが、あの無垢な心が、今も彼を支えている。
初夏の陽が会津城下を照らす頃、彦左衛門からの登城の命が下った。
松平容保の御前で、新左衛門は再び毒味役に就くことを命じられた。
容保の穏やかな瞳は、深い信頼を湛えて新左衛門を見つめる。
だが、新左衛門は深く一礼し、静かに口を開いた。
「若殿、この新左衛門、毒味役の家に生まれ、幼きより毒を食らい、藩主の命を守るを務めとして参りました。
されど、江戸の長屋にて、初めて人の温かさに触れ、生きる意味を知りました。
長屋では、皆で飯を分け合い、毒など誰も気にせずに大メシを喰らいました。
毒を用いたのは、鼠退治の時ただ一度きり。
藩主は民の父たる存在。毒を盛り、盛られるような指導者は、長屋の鼠と何も変わりませぬ。」
新左衛門の声は静かだが、確固とした決意に満ちていた。
彦左衛門が眉を動かし、容保が小さく息を飲む。
だが、新左衛門は言葉を続けた。
「これからの世は、長屋の町民にすらできること――全うに、皆で、皆の幸せを願う政をすれば良いのです。
さすれば、鼠もわかず、毒も不要。ゆえに、この新左衛門、毒味役をご辞退申し上げます。」
御座の間は静寂に包まれた。
容保はしばし目を閉じ、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「新左衛門、そなたの心、しかと受け止めた。そなたの志は、会津の民の魂そのものだ。
毒味役を辞すとも、そなたの忠義は永遠に我が胸に刻む。自由に生きよ。そして、いつかまた、長屋の灯りの下で共に飯を食おう。」
彦左衛門が立ち上がり、新左衛門を見据えた。
あの雪の夜、命を賭けた男の目には、今は深い理解と敬意が宿る。
「新左衛門、俺はお前に一度斬られた身だ。だが、そなたの言う通り、俺もまた新たな世を生きてみたい。ご苦労だった。」
新左衛門は深く頭を下げ、御座の間を退出した。
背後で、彦左衛門の低いつぶやきが聞こえた。
「生きろ、新左衛門…。」
会津を後にし、新左衛門は江戸への道を歩んだ。
懐には、藤川義高から渡された紙がまだあった。
ひぐらしの鳴く夕暮れの記憶が、胸に温かく灯る。
道すがら、彼の足は自然とあの場所へ向かった――義高と尻を並べて笑い合った、藩境の草むらだ。
草むらに腰を下ろし、懐かしい土の匂いを吸い込む。
すると、聞き覚えのある声が響いた。
「よう、新左衛門。江戸に戻るのか?」
横を向けば、そこには藤川義高が、まるで昔と変わらぬ笑顔でしゃがんでいた。
新左衛門は目を丸くし、だがすぐに笑みを返した。
「義高…お前、なんでここに。俺はな、江戸で待ってる婆さんがいるんだ。お徳さんのイナゴの蒲焼きが、腹に沁みるんだよ。」
義高は腹を抱えて大笑いした。
「お前らしいや! 相変わらずケツの目処がたたねえな!」
二人は顔を見合わせ、少年の頃のように笑い合った。
「新左衛門――どんな試練があっても、こうやって笑い合える。それが宝だろ?」
新左衛門は頷き、懐の紙をそっと握りしめた。
義高がふと真顔になり、言った。
「俺たちの人生、これからだ。やっぱり始まりは野ぐそでなきゃな。」
「ちげぇねえ!」
新左衛門も声を上げ、二人でまた大笑いした。
二人の笑い声が、草むらに響き合い、ひぐらしの声と重なる。
まるで、過ぎ去った時とこれからの日々を繋ぐように――
夕陽が山々を赤く染め、遠く江戸の町に長屋の灯りがともるのを、新左衛門は感じた。
四つ辻の道祖神は、静かに佇み、彼らの背を見守っていた。
過去の柵も、未来の試練も、全てを包み込むように――会津帰藩編【完】
読んで頂き有難う御座いました。




