第18話 葵の輝き
雪が静かに降り、忠義の血がその白さを染めた。
芦ノ牧より大内宿へと至る道のりは、丹波色兵衛の周到なる手配により、まるで迎え入れられるかのように、滞りなく進んだ。
色兵衛の動きに無駄がなく、まるで宿場の空気すら掌握しているかのようだった。
新左衛門は、その姿に初めて色兵衛の真の器を見た気がした。
かつて絵皿を砕き、証文を破った男の内に、こんな采配を振るう才があったとは…
「この宿場は叔父の丹波錦が宰領しております。ゆえに、隅々まで目が行き届きます。
ここで安心して帰藩の準備をなさってください。用心棒は三十人ほど、宿の各所に散らせております。」
色兵衛がそう告げると、間もなく長身の痩せた男が現れた。
丹波錦だ。粗末だが品のある着物に身を包み、静かな威厳を漂わせている。
「丹波錦にございます。松平容敬様の長柄の駕籠をこの宿場で預かっております。
このまま大内宿より駕籠にて帰藩されるのがよろしいかと。」
錦の言葉に、容保は穏やかに頷いた。
新左衛門と左京もまた、その提案に異を唱える理由はなかった。
だが、新左衛門の胸に、かすかなざわめきが走る。
毒味役の勘――いや、身体が覚えている微かな便意が、何か不穏なものを告げていた。
「明日を運命の日とするか。」左京が低く呟き、容保を見やった。
容保は静かに目を閉じ、般若心経の節を小さく唱えた後、決然と言った。
「いや、今夜のうちに出立する。刺客は必ず動く。白河の関を越えた今、遠山の残党が最も襲いやすいのはこの先の藩境だ。」
新左衛門もまた、左京の鋭い眼差しに無言の肯きを返した。
「このまま旅装を解かず、進もう。私のケツの目処も、そう告げている。」
その言葉に、色兵衛は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべ、準備を整えるよう指示を出した。
旅籠の前には、屈強な用心棒三十人が整然と並び、松平容敬の遺した長柄の駕籠が月光の下で輝いていた。
金色に染め抜かれた会津三つ葵の紋が、まるで生きているかのように紅葉の闇に映える。
新左衛門は、その美しさに一瞬見とれた。
「駕籠ときたら、俺たちだろ。任せておきな!」
突然、聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、そこには柿崎源之助と権八が、駕籠かきらしい軽やかな笑みを浮かべて立っていた。
「源之助! 権八! お前たち、なぜここに?」新左衛門は驚きを隠せなかった。
源之助は肩をすくめ、笑いながら言った。
「お徳婆さんから話は聞いたぜ。新左衛門さんが大事な人を守るってんなら、俺たち駕籠かきが黙っちゃいられねえ。
色兵衛さんに頼んで、こうやって駆けつけたんだ。」
権八が豪快に笑い、「エイッホッ、エイッホッの掛け声で、会津までひとっ飛びだぜ!」と付け加えた。
容保は二人の姿を見て、穏やかに微笑んだ。
「柿崎殿、権八殿、そなたらの志、しかと受け止めた。では、参ろう。」
「出立!」
左京の号令が夜空に響き、駕籠を囲む一行は一気に動き出した。
三十人の用心棒が左右を固め、源之助と権八が駕籠を担ぎ、新左衛門と左京が容保を護るように前後を歩く。
会津三つ葵の駕籠は、まるで大名行列のように堂々と進んだ。
宿場との境、雪霧漂う森の陰に、武断派の刺客十数名が身を潜めていた。
彼らは忍びの襲撃を想定していたが、目の前に現れたのは、威風堂々たる三つ葵の駕籠と、それを守る屈強な一行だった。
刺客たちは互いに顔を見合わせ、動くべきか躊躇した。
その隙に、一行は速度を上げ、森を抜け、会津への道を突き進んだ。
「刺客め、度肝を抜かれたか。」
左京が小さく笑い、新左衛門に目配せした。
新左衛門は箸を握り直し、答えた。
「毒味役の勘が騒がぬ。だが、油断は禁物だ。会津に着くまで、ケツの目処はたたぬよ。」
一行は次々に難所を抜け、雪がちらつく街道を進む。
源之助と権八の「エイッホッ、エイッホッ」の掛け声が、冷たい空気を切り裂いた。
容保は駕籠の中で静かに目を閉じ、般若心経を唱え続けていた。
その声は、まるで一行の心を一つに束ねるようだった。
やがて、会津の城下が見えてきた。
雪に覆われた城門が、月光に白く輝く。
だが、その手前で、新たな刺客の気配が立ち上った。
数は五人。黒装束に身を包み、薩摩とも長州ともつかぬ異国の匂いを漂わせている。
「左京殿、今度こそ本物だ。」
新左衛門が低く呟き、箸を構えた。
左京は刀を抜き、静かに言った。
「新左衛門殿、若殿を頼む。私はこれを片付ける。」
刺客が一気に飛びかかってきた。左京の剣が閃き、一人の首を刎ねる。
新左衛門は二天箸流の構えで二人目の刺客に立ち向かい、箸を投げて額を貫き、返す脇差しで喉を突いた。
残る二人は用心棒たちが押さえ込み、色兵衛が自ら短刀で仕留めた。
「色兵衛殿、鮮やかだな。」
新左衛門が息を整えながら言うと、色兵衛は照れくさそうに笑った。
「町人の浅知恵さ。だが、新左衛門さん、俺もお前さんの宝の一つになりてえよ。」
その言葉に、新左衛門はふと長屋の灯りを思い出した。
お徳のイナゴの蒲焼き、源之助の笑顔、太助の無邪気さ。
そして、義高の「生きろ」という声。
戦いの後、一行はついに会津城下に辿り着いた。
城門が開き、松平容保の駕籠は雪の積もる石畳へと進み出た。
「左京殿、新左衛門殿、そなたらの忠義、決して忘れぬ。会津はこれから新たな道を歩む。そなたらと共に。」
駕籠の中から響く容保の声は穏やかだが、力強かった。
新左衛門と左京は膝をつき、頭を下げた。
その夜、城下の雪は静かに降り続き、会津三つ葵の幟が風に揺れた。
新左衛門は懐から義高の紙を取り出し、そっと広げた。
ひぐらしの鳴く夕暮れの記憶が、雪中に溶ける。
「生きろ、か。」新左衛門は呟き、雪を見上げた。
その刹那、雪霧の奥から鋭い気配が走った。新左衛門の毒味役の勘が、危険を捉えた。
容保が駕籠から出ようとするその瞬間、新左衛門は咄嗟にその前に立ち塞がった。
「若殿、下がって!」
同時に、闇から放たれた毒矢が新左衛門の胸に突き刺さった。
武断派の最後のあがき――遠山の残党が放った一撃だった。
新左衛門はよろめきながらも、箸を握り、刺客の影に向かって投げつけた。だが、力尽き、雪の上に仰向けに倒れた。
左京が吼え、脇差しを抜き放つ。
鋭い刃が雪霧を切り裂き、刺客の喉を貫いた。
刺客は呻き声を上げ、雪に沈んだ。
「新左衛門殿!」左京が駆け寄るが、新左衛門は静かに目を閉じていた。
雪に広がる血が、ゆっくりと白い地面を赤く染めた。
容保は新左衛門の側に跪き、その手を握った。
「新左衛門殿…そなたの命、決して無駄にはせぬ。」
源之助と権八が呆然と立ち尽くし、色兵衛は唇を噛みしめた。
雪は静かに降り続き、新左衛門の顔を白く覆った。
お徳は一行の無事を道祖神に願う。道祖神は遠く江戸に佇み、雪の訪れを静かに告げた。
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