第17話 街道の影
紅葉が血を呼び、三人の旅は死地へと変わった。
晩秋の会津西街道は、紅葉が血のように燃えていた。
冷たい霧が谷間を這い、一行の足元に絡みつく。
潔目処新左衛門と黒崎左京は、松平容保を護り、会津への帰藩を目指して江戸を後にした。
それは死地へと向かう路であり、唯一の活路である。
容保は僧形に身をやつし、二人に先導され、駕籠も使わず山道を進む。
馬蹄の音は遠ざかり、代わりに梟の声が闇に妖しく響く。
新左衛門は懐に藤川義高の紙を握りしめ、歩みを進めた。
義高の「生きろ」という言葉が、冷たい風に混じって耳元で囁く。
左京は刀の柄に手を添え、鋭い目で周囲を窺う。
容保は静かに般若心経を唱え、その穏やかな声が二人の心を落ち着かせた。
「左京殿、白河の関が近い。刺客はそこに潜むやもしれぬ。」
新左衛門は低く言った。
状況は違えど、討手を避けて会津から逐電した時の風景が重なる。
新左衛門が霧の向こうに不穏な気配を窺いとった。
左京は頷き、刀の鯉口を軽く切った。
「新左衛門殿、そなたの箸は準備できておるか。私の剣とそなたの箸で、若殿を必ず守り抜く。」
新左衛門は金属製の箸を握り、苦笑した。
「ケツの目処がたたぬまま、こんな大事に挑むとはな――
刺客の刃も、毒と変わらぬ。残しては相手に失礼というもの…上手に平らげてやろう。」
三人は意を決して霧の中を進んだ。
白河の関の手前、朽ちかけた道祖神が苔に覆われて佇む。
新左衛門は一瞬立ち止まり、石に手を触れた。
その冷たい感触が、江戸の四つ辻の記憶を呼び起こす。
お徳の声、源之助の笑顔、色兵衛の変わりゆく姿。
あの長屋の灯りが、遠く離れた今も彼の胸を温めた。
「新左衛門殿、気を取られるな。」
左京の声が鋭く響く。
その刹那、霧の中から三つの影が湧いて出た。
白い装束の刺客たちだ。霧に紛れ、月の光を帯びた青白い刃が容保を狙う。
刺客の一人が、薩摩訛りの低い声で呟いた。
「足掻いちょっも、もはや無駄じゃっ。遠山ば迎えたときにゃあ、会津はもはや終いじゃっど。」
新左衛門の耳がその言葉を捉えた。
遠山政勝の死が、藩外の外様大名――薩摩か長州か――に権力の空白を突く機会を与えたのだ。
刺客の装束には、薩摩の家紋を思わせる微かな意匠が縫い込まれている。
新左衛門の毒味役の勘が、敵の意図を鋭く見抜いた。
「遠山の残党ではなさそうだな。外様の野心が、会津を喰らおうとしている。」
左京は瞬時に刀を抜き、刺客の一人の刃を弾いた。
火花が散り、霧が揺れる。
「新左衛門殿、若殿を!」
左京の声が響く中、新左衛門は身を低くし、二天箸流の構えを取る。
右手に持つ箸が刺客の刀の鎬を滑るように押さえ、左手の箸が喉元を突く。
刺客は呻き声を上げ、力なく崩れ落ちた。
「若殿、下がって!」
新左衛門が叫ぶと、容保は冷静に岩陰に身を隠した。
もう一人の刺客が左京に斬りかかるが、左京の剣は風を切り、刺客の胸を突き刺した。
刺客は倒れる間際、血に濡れた唇で吐き捨てた。
「会津ん乱れはのう……薩摩ん好機じゃっ。容保んやつば……生かしちょっば、あいがならん。」
最後の刺客が新左衛門に襲いかかる。
新左衛門は箸を投げ、額を貫き、返す脇差しで喉を突いた。
血が霧に混じり、雪のちらつく地面を赤く染めた。
静寂が戻り、霧が再び一行を包んだ。
「左京殿、こやつらは遠山の残党ではない。薩摩の匂いがする。遠山の死で会津が乱れるのを待っていた外様の刺客だ。」
新左衛門は息を整えながら言った。
左京は刀の血を払い、眉を寄せた。
「遠山の首が落ち、会津が揺れる今、外様が動くのは道理だ。だが、こやつらの雇い主はまだ闇の中。油断はできぬ。」
容保が岩陰から現れ、静かに言った。
「左京殿、新左衛門殿、礼を言う。そなたらの忠義、しかと見た。
だが、刺客はこれで終わりではあるまい。会津に帰るまで、試練は続くのだろうな。」
新左衛門は容保の穏やかな瞳を見て、胸に熱いものが込み上げた。
毒味役として藩主の命を守るのは役目であったが、容保の言葉には主従を超えた信頼が宿っている。
三人は白河の関を越え、芦ノ牧の宿場へ向かった。
雪がちらつき始め、街道は一層厳しさを増す。
宿場の提灯が揺れる中、新左衛門はふと異変を感じた。便意だ。
「またこのタイミングか…」と自嘲しつつ、物陰に駆け込む。
だが、その瞬間、藪から新たな刺客が飛び出した。
黒装束に身を包み、目だけが鋭く光る。
「遠山の遺志を継ぐ者だ。容保を討ち、武断派の名を再び!」その声は会津訛り。
遠山の死に忠義を燃やす武断派の残党だった。
「新左衛門殿!」左京が叫ぶが、新左衛門はすでに動いていた。
投げた箸が刺客の額に深く突き刺さる。
刺客が膝をつく間に、新左衛門は脇差しを抜き、喉を突いた。
血が雪に染まる。
「遠山の遺志か…まるで亡霊のようだ。」
新左衛門は呟き、倒れた刺客を見下ろした。
「運が良いと言うべきか、悪いと言うべきか…」左京が苦笑すると、新左衛門も笑みを返した。
「ケツの目処がたたぬまま、死ぬわけにはいかぬよ。」
二人のやり取りに、容保も小さく笑った。
宿場で一夜を過ごす間、容保は新左衛門に静かに語りかけた。
「新左衛門殿、そなたが江戸で何を背負い、何を捨ててきたのか、詳しくは知らぬ。
だが、そなたの箸には、ただの技以上のものがある。人の命を守る心だ。」
新左衛門は言葉に詰まり、目を伏せた。思い浮かぶのは長屋に灯る、一つ一つの灯りだ。
「この新左衛門、江戸の長屋暮らしの中で、多くの柵に囲まれながらも、その柵に救われ、諭され、時に涙し、
いつしか人としての心の在り方を教えられたような気がするのです。」
「そうか…私もいつか長屋に住みたいものだ。」
容保の言葉に、二人は顔を見合わせ、笑った。
翌朝、宿場の外で、意外な人物が待っていた。
丹波色兵衛だ。粗末な旅装に身を包み、数人の屈強な男を連れている。
色兵衛は新左衛門を見て、照れくさそうに笑った。
「ケツメド…いや、新左衛門さん、婆さんから話は聞いた。俺は大内宿で用心棒を用意した。
刺客の噂が流れてたからな。俺の浅知恵だが、受け取ってくれ。」
新左衛門は目を丸くし、言葉を失った。
お徳の祈り、色兵衛の行動が、こんな形で繋がるとは。左京もまた、色兵衛の誠意に小さく頷いた。
「色兵衛殿、礼を言う。だが、なぜここまで?」新左衛門が尋ねると、
色兵衛は道祖神の方をちらりと見て、呟いた。
「婆さんが言ってたよ。道祖神は迷った者を導くって。あの石の前で、俺は昔の自分を思い出した。
お前さんや源之助さんを見て、変わりたかったんだ。」
容保は静かに微笑み、色兵衛に一礼した。
「丹波殿、そなたの心、しかと受け止めた。会津に帰れば、そなたの志も共に語り継ごう。」
色兵衛は照れ隠しに頭を掻き、連れてきた男たちに指示を出した。
「大内宿まで、俺たちが道を開く。刺客が来たら、俺たちで食い止めるぜ。」
新左衛門は色兵衛の背中を見送り、長屋の灯りを思い出した。
源之助の笑顔、太助の無邪気さ、お徳のイナゴの蒲焼き。
あの日常が、こんな遠くの街道でも支えとなってくれている。
「生きろ、新左衛門。」義高の声が、再び響く。
新左衛門は箸を握り直し、容保と左京と共に、雪の降る街道を進んだ。
道祖神は無言で佇み、紅葉と雪に埋もれながら、三人の背を見守っていた。
刺客の影はなお近く、試練の道は続く…。
読んで頂き有り難うございます。




