毒味役長屋絵草紙 若葉のこえ
毒味役の家に生まれた新左衛門。蜘蛛の一拍子が、彼の未来と家の運命を変えていく。
第一章:街道の緑
初夏の下野街道は木々に緑を宿し、その木漏れ日は幾重にも大地に降り注ぎ、生命に溢れている。
旅人は笠の縁を指で押さえながら、ゆるやかな上り坂を越える。
その背には、かつて会津西街道を進んだ者たちの影が重なる。
あれは死地へと向かった旅路。
そして今、潔目処新左衛門は、その記憶の道を逆に辿っている――すなわち、下野街道を江戸へと向かう旅である。
新左衛門の足取りは軽やかだった。
会津での試練を乗り越え、松平容保を無事に帰藩させ、毒味役を辞した今、彼の心には長屋の灯りが温かく灯っていた。
懐には藤川義高から新しく渡された紙が、ひぐらしの鳴く夕暮れの記憶と共に、そっと彼を支えている。
大内宿の茅葺き屋根が見えてきた。
宿場の入口に佇む苔むした道祖神が、静かに新左衛門を迎える。
彼は石に手を置き、その冷たい感触に目を閉じた。
瞬間、掌に伝わる冷たさが、かつて母・登喜乃から渡された鉄製の箸の感触を呼び起こした。
あの重く、冷たく、しかしどこか温もりを感じる鉄の感触。
新左衛門の胸に、幼い日の会津が鮮やかに甦る――
第二章:什の仲間
天保年間、会津の城下町は泰平の気配に満ちていた。
潔目処新左衛門、八歳。毒味役の家に生まれ、父・安兵衛と兄・左馬之丞の背を追い、幼心に忠義と毒の気配を刻んでいた。
だが、毒味の修練はまだ遠い世界。母・登喜乃が差し出す食事に紛れた微量の毒は、
幼い舌にほのかな苦みを残し、新左衛門に小さな誇りを芽生えさせていた。
新左衛門の日常は、「什」と呼ばれる子供たちの集団によって彩られていた。
五人の仲間が織りなす世界は、藩の重苦しい空気から切り離された、自由で活気ある時間だった。
什長・染谷千草、八歳。藩医の娘で、博識かつ剣術を嗜む才女。
「ならぬことはならぬものです」が口癖で、仲間を率いる姿は小さな将軍のよう。
弟の草玄、六歳は泣き虫だが、将来の藩医の片鱗を瞳に宿す。
親友・藤川義高、八歳は、常に笑顔で新左衛門の心を軽やかにした。
雨宮面真、八歳は諜報の家に生まれ、変装の才を持ち、
人をじっと見つめる癖が「ヘビの目」とからかわれたが、その観察力は鋭かった。
什は城下を駆け、川で石を投げ、森で秘密の基地を作り、木刀を手に剣の真似事で遊んだ。
仲間たちは、毒味役の家の重圧から新左衛門を解放してくれた。
ある春日、仲間と山菜採りに出かけた一行は、子供だけで立ち入ることを禁じられた「忘れ道」に差し掛かった。
タケノコの季節を知る子供たちは、進むべきか葛藤した。
「ならぬことはならぬものです」と千草が引き返そうとするが、義高が目を輝かせて言った。
「初もののタケノコだぞ。俺たち什の実力を大人に見せつけるチャンスだ!」
彼は枝を地面に刺して道しるべを作り、自信満々に進み始めた。
千草は渋々頷き、「一理あるわね」と従った。
しばらく進むと、草玄が面真の口から血が流れているのに気づき、皆が心配そうに近づいた。
面真は無表情に微笑み、こう言った。
「これは血糊仁丹。酸っぱくて美味いんだ。ただ、赤いヨダレが出るから人前では食うなよ。我が家の秘伝だ。」
彼は仁丹を皆に分け与え、一行の口は瞬く間に赤く染まった。
血まみれのような口元を指差し、子供たちは笑い合った。
忘れ道を抜けた先、竹林が緑の壁のようにそびえ、風に揺れる葉がサヤサヤと音を立てていた。
足元には見事なタケノコが土から顔を覗かせ、皆は興奮に沸いた。
「何だか獣臭い気がする」と新左衛門が呟いたが、仲間たちの耳には届かず、皆は夢中でタケノコを掘り始めた。
最初はまとまって掘っていた一行だったが、次第に互いの距離が開き、群れは個々に散った。
夢中で土を掘る中、誰もイノシシの気配に気づかなかった。
縄張りを侵されたイノシシは、離れてタケノコを掘っていた草玄に狙いを定め、猛然と突進した。
その瞬間、新左衛門がイノシシめがけて手元のタケノコを投げつけた。
標的を新左衛門に変えたイノシシは、勢いを増して突進してきた。
体当たりを受ける寸前、面真が新左衛門を突き飛ばし、イノシシに覆い被さるようにその目を布で巻きつけた。
面真は跳ね飛ばされ、目隠しされたイノシシは竹林の奥へと姿を消した。
一行は、倒れた面真のもとに駆け寄った。
見れば、面真の体からおびただしい血が流れている。千草は凍りつき、呆然と立ち尽くす。
義高と新左衛門は手ぬぐいで止血しようとしたが、面真はそれを制し、笑いながら言った。
「血糊袋が破れただけだ。」皆は呆れつつも安堵した。
無事に山を下りた一行は、タケノコを抱えて解散した。
千草は弟の草玄に先に帰るよう促すと、面真に駆け寄った。
「弟を助けてくれてありがとう。」
面真は無表情に「誰も怪我しなくてよかったな」と答えた。
「あんたが怪我したじゃないの。わたしを甘く見ないで、こう見えても藩医の娘なんだから。」
千草はそう言うと、面真の脇腹を軽く拳で叩いた。
面真は「うっ」と声を漏らし、「いつから気づいてた?」と尋ねた。
「あんたが倒れてる時、かすかに血の匂いが混じってたのよ。」
千草の言葉に、面真は驚きつつ「子供に気づかれるようじゃ、血糊の研究をせねばな」と呟いた。
千草は呆れながら「あなたも子供でしょうに」と答え、布を細く裂いて面真の患部に巻きつけた。
「大した傷じゃなくてよかった。でも、これからはちゃんと報告しなさいよ。」
そう言い残し、千草は足早に立ち去った。
面真はその背を見送りながら、「男であれば、立派な藩医になれたものを」と呟いた。
その日、城下の一角はタケノコの香りで満ちあふれたという。
第三章:白鼠の兆し
潔目処家の朝は、静寂と厳粛さに包まれていた。
父・安兵衛、四十五歳。藩主・松平容敬の毒味役として、毎朝、膳に向かうその背は大きい。、
だが、長年の務めが隠しきれぬほどの疲弊を滲ませていた。
母・登喜乃、三十八歳は、夫の修練を支え、子らに毒への耐性を静かに植え付ける役目を担っていた。
姉・志乃、十三歳は、弟・新左衛門を温かく見守り、時に母の毒入り料理をこっそり減らして守った。
兄・左馬之丞、十八歳は、荒関二刀衛門より二天箸流を修め、毒味役として堂々たる姿を見せていた。
新左衛門は、兄の凛とした姿に憧れ、父の寡黙な忠義に敬意を抱いた。
だが、左馬之丞の心には常に影があった。
新左衛門には、毒味役の宿命を背負わず、普通の人生を歩んでほしい――そう願っていた。
毒味役の家柄とは、死を僅かに遅らせる術を身に付けた者にすぎない。
その引き延ばされた時間を目一杯使って、薬物を用いて、なんとか命を拾っているだけなのだ。
梅汁で毒を吐き、毒消丸で解毒し、甘草と黄連で荒れた臓腑を癒す。
どの藩の毒味役も、この手順を繰り返すのみだ。
毒を見分ける術は、植物毒ならまだ命を拾えるが、亜ヒ酸は別だ。
かつては銀の箸が黒く変色して毒を告げたが、近年の純度の高い亜ヒ酸は銀にも反応しない。
人による毒味の限界が、すぐそこに迫っていた。
左馬之丞は思案した。
鼠を育て、毒味に用いるべきではないか――人の命を危険に晒さず、微量の毒にも反応する鼠ならば。
ある日、物思いに沈む左馬之丞に、藩医・染谷草庵が声をかけた。
「思案中を邪魔してすまぬが、頼まれていた薬を持ってきたぞ。」
「どうせ鼠のことでも考えていたのでしょう?」と、草庵の娘・千草が茶目っ気たっぷりに割って入る。
草庵は薬を渡すと、「安兵衛殿と話がある。しばし、千草の相手を頼む」と告げ、立ち去った。
左馬之丞は苦笑し、「議論になりそうだな」と呟く。
千草は一つ咳払いし、きっぱりと言った。
「左馬様、鼠の案は通りません。藩主様の膳を鼠に毒味させるなど、ならぬことはならぬのです!」
左馬之丞は微笑み、竹駕籠を持ち上げ、中の白い鼠を見せた。
「ただの鼠ではない。純白種だ。半年かけて白い鼠だけを交配し、ついに全てが白くなった。
最早、凡庸な鼠ではなく、ありがたい存在だ。藩主の毒味にふさわしいと思わぬか?」
千草は目を奪われ、言葉を失った。
だが、心の奥では、鼠を用いることへの不安が拭えなかった。
「お見事です。ですが、一つだけ。鼠は得体が知れません。咬まれて命を落とした者を、わたしは何人も知っています。
約束してください。もし咬まれたら、患部の肉を切り、血を絞り、火箸で焼いてください。」
真剣な眼差しに、左馬之丞は「約束しよう」と答え、千草は不安げな顔で立ち去った。
ある朝、左馬之丞は父に進言した。
「父上、人の舌で毒を見分けるのはあまりに危険です。鼠を用いてはどうでしょう。
微量の毒にも反応し、人の命を危険に晒さずに済みます。」
安兵衛は一瞬眉を寄せたが、息子の言葉に耳を傾けた。
「左馬之丞、確かに一理ある。毒味の作法も時代と共に変わる。お前の提案を試してみる価値はある。」
こうして、潔目処家は鼠による毒味を始めた。
小さな籠に収められた純白の鼠が、膳の前に供される。
毒を食した鼠が倒れる姿で、毒の有無を判断するのだ。当初、この方法は上手く機能した。
安兵衛の負担は軽減し、左馬之丞は自らの提案が家を守ると信じた。
だが、その平穏は、嵐の前の静けさにすぎなかった――。
第四章:二天箸流
初夏の朝、涼やかな空気が庭を満たしていた。
陽光はまだ柔らかく、若葉の隙間に遮られ、芝までは届かない。
そこに、父・安兵衛と兄・左馬之丞が静かな気迫を漂わせて向き合っていた。
二人とも白い稽古着に身を包み、両の手に持った、銀を施した少し長めの鉄箸が朝露に濡れてかすかに光る。
互いに正対しあって、安兵衛が動くと、その動きに少し遅れて左馬之丞が、その動きをなぞるように静かに形を描く。
それはまるで古来より伝わる舞のように調和し、静寂の中で彼らの発する息吹だけが響き合う。
その光景を、縁側にちょこんと座った八歳の新左衛門が目を輝かせて見つめていた。
幼い顔には憧れと尊敬が混じり合い、父の堂々とした構え、兄の鮮やかな動きを一瞬たりとも見逃すまいと、身を乗り出している。
まるで、いつか自分もあの場に立ち、箸を手に舞う日を夢見ているかのようだった。
やがて、稽古を終えた左馬之丞が新左衛門の熱心な眼差しに気づき、父のもとに歩み寄った。
「父上、新左衛門のあの眼差しをご覧ください。そろそろ荒関先生のもとで学びを始める時期ではないでしょうか」と、
静かに、しかし確信を込めて進言した。
安兵衛は新左衛門を一瞥し、その瞳に宿る強い意志を認めた。
「うむ、まだ年若いとはいえ、荒関先生も八十歳とご高齢だ。機を逃さず学ぶべき時かもしれぬ」と頷き、思案を巡らせた。
やがて、父子三人、竹林の塚の上に庵を結ぶ荒関二刀衛門のもとへと向かうことを決めた。
朝霧が漂う竹林の小道を進むと、風に揺れる竹の葉がさざめき、新左衛門の新たな道行きを祝福するかのようだった。
庵に近づくにつれ、安兵衛の足取りは力強く、左馬之丞は弟を励ますように穏やかに微笑んだ。
新左衛門は胸に秘めた憧れを一層強く抱きしめ、期待と緊張が入り混じる心持ちで歩を進めた。
やがて、苔むした石垣に囲まれた塚の頂に、風雨に耐え抜いた簡素な庵がひっそりと佇んでいた。
鳥の囀りが静けさを彩り、竹林と遅咲きの山桜が簡素な美しさを添える。
開け放たれた障子の奥では、磨き上げられた床板が朝の光を柔らかく反射し、鉄瓶の湯気が穏やかに一行を迎えた。
庵の主、荒関二刀衛門は、宮本武蔵の二天一流から分派した二天箸流の宗家として、潔目処家にその技を伝える重責を担っていた。
白髪に覆われたその姿は、歳月を重ねた威厳を漂わせ、なおも鋭い眼光が新左衛門を見据えた。
「どうやら間に合ったようじゃな…。来年では遅かったかもしれん。」
荒関の声は低く、しかしどこか温かみを帯びている。
「荒関先生、ご無沙汰しております。」安兵衛が恭しく頭を下げた。
「知っておろう、儂は人嫌いじゃ。要件はそこの子だろう。さっさと置いて帰ればよい。育つか育たぬかは、その子次第じゃ。」
荒関はそっけなく言い放ち、背を向けたまま新左衛門を庵の中へと促した。
「末の倅、新左衛門と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
安兵衛は深々と頭を下げ、息子の未来を託す決意を込めた。
「挨拶はよい。さあ、その子を置いて帰れ。」
荒関は短く答え、新左衛門に鋭い一瞥を投げかけた。
新左衛門は父と兄を見送り、庵の閾をまたいだ。
心臓が高鳴り、憧れの道への第一歩を踏み出す覚悟が、その小さな胸に宿っていた。
竹林のさざめきが遠く響く中、庵の静寂が新左衛門の背をそっと押した。
その一歩が、彼の運命を静かに動かし始めていた。
第五章:荒関二刀衛門
新左衛門が荒関二刀衛門の庵の閾をまたいだ瞬間、静寂が彼の全身を包み込んだ。
それは、竹林のさざめきや鳥の囀りが遠くに退き、まるで世界が一瞬息を止めたかのような深い静けさだった。
朝霧の湿った空気が頬を撫で、かすかに土と苔の匂いが鼻腔をくすぐる。
開け放たれた障子の奥、磨き上げられた床板が朝陽を柔らかく反射し、
鉄瓶から立ち上る湯気の揺らめきが、まるで生き物のように空間を漂う。
その光景は、新左衛門の幼い心に、厳かさと未知への期待を同時に刻み込んだ。
庵の中は、簡素ながらも調和に満ちていた。
壁に掛けられた古びた巻物、床に置かれた素朴な茶釜、窓辺に寄り添う一輪の山桜の枝。
それらが織りなす静謐な美しさは、新左衛門に、剣や箸の技を超えた何か――
生きることそのものの深い意味を、言葉なく訴えかけてくるようだった。
荒関二刀衛門の背中は、背を向けたままでも圧倒的な存在感を放ち、
その白髪に覆われた肩は、長年の修練と時の重みを静かに物語っていた。
新左衛門の胸は、緊張と憧れで高鳴った。
小さな手に汗がにじみ、父と兄の足音が遠ざかる中、初めて感じる孤独が心の底に冷たく広がった。
だが、その冷たさはすぐに熱へと変わる。
二刀衛門の鋭い一瞥が、彼の瞳に宿る意志を試すように突き刺さった瞬間、新左衛門は自分の中に芽生える決意を感じた。
それは、父の堂々とした構えや兄の鮮やかな動きを追い越したいという、純粋で燃えるような願いだった。
庵の静寂は、新左衛門の鼓動と共鳴し、彼の第一歩をそっと後押しする。
障子の隙間から差し込む光が、彼の小さな影を長く伸ばし、まるで未来の自分を予見するかのように床に映した。
その一瞬、新左衛門は、自分がこの庵で何かを掴み、変わっていくのだという確信を、胸の奥で確かに感じ取った。
竹林の風が再びさざめき始め、物語の新たなページが、静かに、しかし力強く開かれようとしていた。
荒関二刀衛門は新左衛門に何も聞くことなく、ただ、「この庵の、儂ら以外の息吹を感じ取れるか?」と問うた。
新左衛門は、その言葉の意味を理解しようと心を研ぎ澄ませた。
二刀衛門は「暫くかかりそうじゃな。それがお前の修行じゃ」と口にし、板の間を踏み、囲炉裏間に腰を落とした。
新左衛門は無闇に動かず、土間で座禅を組み始めた。
それを見た二刀衛門は「ほぉ、新しい試みだな」と呟いた。
庵は静寂に包まれ、時折、囲炉裏で爆ぜる薪の音のみが過ぎ去る時間を告げていた。
どれほどの時間が経ったのか、新左衛門は二刀衛門に肩を叩かれ、我に返った。
「また明日おいで」と二刀衛門は微笑みながら言った。
「ありがとうございました!」新左衛門はそう口にして庵を後にした。
自宅では、父の安兵衛と兄の左馬之丞が、今か今かと新左衛門の帰宅を待ちわびていた。
新左衛門が何かを手に帰宅すれば、それは修行の始まりの成功を意味する。
それを知っている父と兄だったが、その道が容易でないことも理解していた。
半年はかかるだろうと覚悟し、木剣を握る修業とは異なることに戸惑い、
気落ちして帰ってくるのではないかという不安が、父と兄の心を複雑に染めていた。
そこに新左衛門がいつも通りに帰ってきた。
二人は修行のことは一切聞かず、新左衛門もまた何も語らなかった。
翌日、新左衛門は再び荒関二刀衛門の庵へと向かった。
二刀衛門への挨拶もそこそこに、土間で座禅を組んだ。
二刀衛門はその様子を囲炉裏間から静かに見つめていた。
さほど時間も経たぬうちに、新左衛門が口を開いた。
「息吹を見つけました」と。
その額には、小さなハエトリグモが這っていた。
二刀衛門は目を細め、「己から探さずに、来るのを待つとは――お前がここまででは誰よりも早かった。この儂よりもな」と笑いながら言った。
「よいか。ここからは、その蜘蛛の動きをずっと見ろ。
瞬きせずに、そいつが獲物を捕らえるまでの一連の動きを見るのじゃ。決して、目を離すでないぞ」と告げ、口を閉じた。
新左衛門は蜘蛛を追い、その動きを凝視し続けた。
この日から、彼は竹細工の虫かごを手に持たされた。
家でも蜘蛛の動きを見続けるためだ。
二日目にして我が子が虫かごを持ち帰るとは、安兵衛も左馬之丞も予想だにしていなかった。
二人は大いに喜び、胸を躍らせた。
新左衛門は蜘蛛を見続けた。
庵でも、仲間と過ごすときも、食事をしているときも、目を開けている間は常に蜘蛛の動きを追い続けた。
三ヶ月が過ぎた頃、二刀衛門が新左衛門に声をかけた。
「蜘蛛を見ていて何か気付いたことはあるか?」その口調は厳しかった。
新左衛門は一呼吸置き、こう答えた。
「蜘蛛は必ず相手に正対しております。そして、間を詰めて、一拍子の間から、天に向けた二本の腕を下ろして獲物を捕らえます。」
二刀衛門は静かに頷いた。
「相手に正対するのは基礎の基礎じゃ。斬られたくないと考えて半身に構える者、正中を無視して身勝手に構える者、
そやつらに刀を抜く資格はない。正対するのが相手との近道。二天に両の腕をかざし、己が体を相手にさらす。
それこそが武の道じゃ。そこから一拍子で終える。それが全てじゃ。」
新左衛門は拍子抜けしたように二刀衛門を見つめた。
「私は先生に何も教わっておりませぬ」と口にした瞬間、二刀衛門は新左衛門の眉間に向かって湯飲みを投げつけた。
新左衛門はとっさにそれをかわした。
「そういうことじゃ。お主の師匠は儂ではない。命ある限り、その蜘蛛を目で追い続けよ。
形はお主の父と兄が知っている。あやつらに教われば良い事じゃ。」
新左衛門は言葉を発しようとしたが、二刀衛門の圧に言葉が喉に詰まった。
二刀衛門は新左衛門を庵の出口まで誘うと、
「お前が、儂の最後の弟子じゃ。箸がお前を導くであろう。良き旅立ちを――二度とこの庵に戻るでないぞ。
父と兄にもそう伝えておけ」と告げ、庵の扉を閉じた。
新左衛門は幼いながらにその言葉の重みを何となく感じ取った。
胸に込み上げる思いを抑え、精一杯の心を込めて「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
竹林の風が再びさざめき、新左衛門の小さな背中をそっと押すように吹き抜けた。
彼の影は、朝陽に長く伸び、未来へと続く道を静かに照らし出していた。
第六章:箸の置き場所
初夏の朝、潔目処家の庭先に、静かな気配が漂っていた。
陽光は若葉を透かし、芝生にまだ柔らかな影を落としている。
そこに、父・安兵衛、兄・左馬之丞、そして新左衛門が、揃って鉄箸を手に立ち、調和のとれた動きを繰り広げていた。
まず安兵衛が、堂々たる構えで箸を掲げ、静かな気迫を放ちながら形を刻む。
その動きに続き、左馬之丞が流れるように同じ形をなぞる。
そして、ほんのわずかに遅れて、新左衛門がその動きを追いかけた。
長年、父と兄の稽古を食い入るように見つめてきた新左衛門の動きは、幼さを感じさせぬほど滑らかだった。
だが、驚くべきは彼の箸の置き場所――その精妙さであった。
潔目処家に代々伝わる口伝には、「箸はあるべき場所に置き、あるべき様に使う」とある。
言葉にすれば簡素だが、その「あるべき場所」を寸分違わず体現するのは至難の業だ。
安兵衛の動きは厳格で、左馬之丞のそれは鮮やかだったが、
新左衛門の箸は、まるで目に見えぬ定規で測られたかのように、完璧な位置に据えられていた。
左馬之丞は、弟の動きに目を細め、穏やかながらも探るような口調で問うた。
「新左衛門、その箸の置き場所、なぜその位置に定めた? その理を心得ておるのか?」
新左衛門は一瞬、目を輝かせ、胸を張って答えた。
「両の腕を天に掲げれば、動きに『起こり』が生じます。
振り下ろすのではなく、力を抜いたとき、腕が雪崩れるように自然と降りる。それが『起こり』のない動きです。
蜘蛛様もまた、そうやって構えておいでになります」
「蜘蛛様?」左馬之丞は思わず笑いをこらえ、口元を緩めた。
「うむ、確かにその通りだ。だが、その置き場所をよくぞ体得したな。この私でさえ、父上に何度も直されたものだぞ」
新左衛門は、いたずらっぽくにっと笑い、こう続けた。
「それには覚え方があるのです。義高の三角眉毛。あの眉の角度が、ちょうど腕の位置にぴったりなのです」
その言葉に、安兵衛と左馬之丞は顔を見合わせ、藤川義高の特徴的な三角眉毛を思い浮かべ、声を上げて笑った。
「まさにその通りだ!」と安兵衛が頷き、左馬之丞も目を細めて笑いながら言った。
「よし、ならば口伝に加えよう。『義高の眉毛の如く腕を置け』と!」
庭先に響く笑い声は、潔目処家の絆を温かく彩った。
幼い新左衛門の機知に、父と兄は心からの喜びを感じていた。
この頃、潔目処家は新たな役割を担っていた。
父・安兵衛に加え、兄・左馬之丞も補佐役として登城するようになり、
藩主・松平容敬の膳に供される毒味の任に就いていた。
白鼠を用いた毒味の作法は、左馬之丞の提案によって始まり、すでに藩に定着しつつあった。
会津藩主・松平容敬は、善意と誠実さに満ちた君主である。
だが、世は天保年間、政難や飢饉が重なり、藩政の立て直しは困難を極めていた。
誠実な統治は一部の者に恨みを買い、稀に膳に毒が混ぜられることもあった。
だが、白鼠を用いるようになって以来、毒物の混入は見られず、潔目処家の務めは平穏に進んでいた。
白鼠は微量の毒にも敏感に反応し、人の命を危険に晒すことなく、膳を守っていた。
翌朝、庭先での鍛錬が続く中、異変が起きた。
左馬之丞が、動きの途中でふと手を止め、額に汗を浮かべながら呟いた。
「…どうも、筋肉痛がひどいな」
彼の声には、普段の凛とした響きがわずかに欠けていた。
新左衛門は兄を心配そうに見つめたが、左馬之丞は笑って手を振った。
「ここ数日、張り切りすぎただけだ。気にするな」
安兵衛もまた、息子の言葉に軽く頷き、稽古を続けた。
この時は誰もが、ただの疲れだと信じていた。
左馬之丞自身、弟の前で気丈に振る舞い、笑顔を崩さなかった。
だが、その夜、左馬之丞の胸の奥に、名状しがたい違和感がひそかに芽生えていた。
身体の奥底で、かすかな疼きが脈打つ。
それは、毒味役の家に生まれ育った彼の鋭い感覚が、かすかに捉えた不穏な兆しだったのかもしれない。
月明かりの下、竹林のさざめきは、やがて訪れる運命の足音を、誰よりも早く感じ取っていた。
読んで頂き有難う御座います。




