第5話 言ったじゃないですかぁ!
木曜日の朝。
ハナは、印刷所から届いた校正刷りを手にしていた。
「これを、パン屋さんにお届けするんですね!」
「はい」
イソラは頷いた。
「募集条件に間違いがないか、お客様に確認していただいてください。特に数字のところ。給金と勤務時間です」
「はい!」
「修正が必要な場合は、午後2時までにここへ戻ってください」
「2時まで、ですか?」
「それを過ぎると、日曜版の掲載に間に合わない可能性があります」
イソラは、懐中時計をハナに向けた。
午前10時。まだ4時間ある。
「大丈夫です!」
ハナは、元気よく扉の向こうへ飛び出していった。
パン屋に店主はいなかった。
若い職人が言った。
「親方なら、市場に出かけたよ」
「……いつ、いつお戻りですか?」
「いつもなら、昼の1時過ぎには戻ってくるよ」
「ヒャア!」
ハナは、校正刷りをしまってある自分の鞄を見下ろした。
この店で帰りを待っていたら、間に合わないかもしれない。
「どちらの市場ですか?」
「南市場だけど」
「ありがとうございます!」
編み上げのブーツを鳴らして、ハナは走った。
南市場にはたくさんの人がいた。
野菜売り。魚売り。乾物売り。果物売り。買い物客。
パン屋の店主の姿は見えない。
屋台の列を、端から端まで歩く。
見つからない。
反対側の列を歩く。
見つからない。
どこかの鐘楼で、正午の鐘が鳴った。
(あと2時間……!)
12時を少し過ぎて、やっと見つけた。
大きな湯気を上げる真鍮製のボイラーの下に、店主はいた。
屋台のコーヒー売りからカップを受け取っているところだ。
「親方!」
「おや。広告屋のお嬢さん」
「今日、校正刷りを持ってくるって、言ったじゃないですかぁ!」
「そうだったな。すまんすまん」
コーヒー屋台のカウンターに紙を広げた。
店主は、じっくりと読む。
「……うん。これでいい」
「ありがとうございます!」
「ただ、日給は、銅貨8枚じゃなくて10枚にしてくれ」
「……はい?」
「昨日、若いのと話したんだ。朝3時から来てもらうんだ。もう少し出した方がいい、って」
「……そうなんですか」
「うん。10枚にしよう」
ハナは、校正刷りの数字を見た。
日給 銅貨8枚。
8。
これを10に直す。
たったの1文字。いや。2文字。
けれど、印刷所では活字を組み直さなければならない。
「……分かりました!」
ハナは、数字に訂正を入れた。
「8」を丸く囲み、矢印を原稿の外に伸ばす。矢印の先に、大きく「10」と書く。
店主に確認してもらい、紙の右上に署名をもらった。
時計塔の針は、12時半を指していた。
ハナは、走った。
市場を出て、広場を駆け抜けて。
途中で、帽子が飛びそうになった。
橋を渡る。
時計塔が、1時を打った。
鞄の留め金が外れた。
転びそうになった。
それでも走った。
営業所がある、印刷街へ。
営業所に着いたとき、壁の時計は午後1時40分を指していた。
「先輩!」
イソラが顔を上げた。
「お帰りなさい」
「訂正が入りました! お給金が変わります!」
「拝見します」
訂正箇所と、店主の署名を確認する。
そして、時計を。
「……間に合いましたね」
息を切らして、胸を押さえているハナを見た。
「……ありがとうございます」
ハナは、すこし驚いた。
イソラ先輩に、ありがとう、と言われた。
それだけなのに。
なぜだろう。
胸が、温かい。
イソラは、要訂正の校正刷りを持って、印刷所へ向かった。
ハナは、椅子に座った。
脚が痛い。喉も渇いている。
けれど、なんだか、嬉しかった。
自分が走ったから、あの広告は、日給10枚になった。
今日のことは、一生覚えているような気がした。
◇
日曜日。
ハナは、朝早くから新聞を買いに、街に出た。
その場で、求人欄を開く。
小さな広告が、ぎっしりと並んでいる。
その中に。
あった。
『早朝のパン作り手伝い募集』
朝3時から7時。
日曜休み。
経験不問。未経験者歓迎。
そして――日給 銅貨10枚。
ハナは、読んだ。
何度も、何度も読んだ。
間違いはなかった。
「……載ってる」
小さく、呟いた。
「……本当に、載っています!」
新聞を握り締めて、家へ走った。
「お父様! お母様!」
両親が、大きな声に驚いて顔を上げた。
「どうしたの、ハナ」
「私の広告です!」
「おお!」
父が、新聞を受け取った。
「どれだね?」
「ここです!」
「……パン作り手伝い……?」
「はい!」
「君は、パン屋を始めたのかね?」
「違います!」
母も、父も、ハナも笑った。
◇
月曜日。
朝、営業所へ行くと、なにやら様子がおかしい。
社主の机の前に、青い顔をした営業員が3人、順番に並んで立っている。
「デュアン! この原稿用紙には、君がチェックした跡がないのはどうしたことだ!」
「……私は、ちゃんと校正したのですが」
「見たかもしれないが、見えていないじゃないか!」
デュアンは下を向いて黙った。
「これで何回目だ!」
社主の剣幕を見て、ハナは、事務員に声をかけた。
「おはようございます。……何が起こっているんですか?」
「ああ。ハナさん、おはよう。あれは……毎週月曜朝の恒例行事よ」
「……恒例?」
「日曜版に掲載された広告に、誤字や間違いがあったら、お客様から苦情が来るのよ。営業さんは、社主に原稿ミスの報告をしに行くの」
「……あれ、みんな、原稿ミスをした人たちですか?」
「今週は3人だから、少ない方よ」
「……ヒャア」
「ハンナリン君! こっちへ来たまえ!」
社主が叫ぶ声がして、ハナの肩がビクンと跳ねた。
(どうして私を呼ぶの……? もしかして、昨日の広告に、何かのミスが……?)
震える足で、社主の机の前に立つ。
いったい何を言われるのだろう。
生きた心地がしなかった。
叱責を受けていた営業員たちの視線を感じる。
「ハンナリン君!」
「……ひゃい」
「ひゃい、ってなんだ!」
「すみません!」
「初掲載だな!」
「……はい」
「どうだ! 嬉しいか!」
「……はい」
「あまり嬉しそうじゃないな! どうした!」
「……あの……」
「うん?」
「……原稿ミスとか、そういうお話では、ない?」
「原稿ミスをしたのか!」
「してませぇん!」
「おどかすな!」
「社主こそ!」
社主は、ハナの広告が載っている紙面を、机にばん、と置いた。
「誤字ゼロ! 脱字ゼロ! デュアン! 入社1週間の新人の原稿だぞ! 見習いたまえ!」
デュアンが、ぐっと詰まった。
ハナは、どこを見ていいか分からなかった。
(……刺繍と、同じ)
内職では、時間をかけすぎて叱られた。
同じことをして、今日は、褒められている。
「よし! では、次を売ってこい!」
「……はい!」
叱責から解放された営業員たちが、それぞれの机に戻っていく。
デュアンは、どさりと椅子に座って、頭を抱えた。
その机の上に、イソラが、すっと赤ペンを1本置いた。
「校正用です。二本あるので」
デュアンは、赤ペンとイソラを見比べた。
「……借りとく」
「返さなくて結構です。……月末までに、使い方を覚えてくださいね」
「クウウ……!」
ハナは自分の机に戻り、案内状100枚を手に取った。
そこへ、イソラが声をかけた。
「ハナさん」
「はい」
「あとで、パン屋さんへ行きましょう」
「……え?」
「まだ月曜ですが、応募が来ているかどうか、確認します」
ハナは瞬きをした。
そうだった。
新聞に広告を載せることが、仕事の終わりではない。




