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第3話 求人広告のご案内です!

 帝都求人広告社の事務所の隅に、古い革鞄が埃をかぶっていた。

 革は擦り切れ、取っ手は白くなり、留め金は緩んでいる。

 誰が使っていたものなのか、誰も覚えていない。


「これ、使っていいんですか?」


 ハナが尋ねると、事務員が頷いた。


「いいわよ、ハナさん。誰も使っていないから」

「ありがとうございます!」


 手帳。鉛筆。新聞の見本紙。掲載申込書。そして水筒。

 革鞄の中に詰め込んだ。


 水筒の中身は水だ。

 ハナは決意する。


「初任給が出たら、水筒用のお茶葉を買います」


 そして、昨日、自分の名前を書いた100枚の案内状。

 これら全部を入れると、鞄がパンパンになった。


「入らない……」


 ハナは、鞄を上から押した。

 留め金が、みしり、と鳴る。


「……入ってくださぁい!」


 気合とともに、ぎゅう、と押す。

 カチン!


「やった!」


 隣では、イソラが自分の鞄を整理していた。

 濃い褐色の、しっかりとした革の書類鞄。

 使い込まれているが、よく手入れされている。

 顧客帳、商談手帳、見本紙、懐中時計、紅茶を入れた水筒。

 すべてが、あるべき場所に、整然と収まっていた。


「イソラ先輩、すごいです。鞄の中が、きれいです!」

「商売道具ですから」


 イソラは、当然のように答える。

 そして、おもむろに地図を広げた。


「今日行くところは、東通りの商店街です。商店が多く集まっているので、徒歩でもたくさん廻れます。訪問した店には、この地図に印をつけてください」

「はい!」

「担当者と話ができた先。募集の予定がある先。再訪問する必要がある先。簡単でいいので、印の横に書き込みしてください」

「はい!」

「それから」


 イソラは少し考えてから言った。


「最初から、広告を売ろうとしなくてもいいんです」

「えっ?」

「需要があるかどうかだけでも聞けたら、十分です。その先は無理をせず、私と一緒に再訪問しましょう」

「はい!」


 ハナは、元気よく頷いた。


 2時間後。


「結構です!」

「間に合ってる!」

「いま、忙しいんだよ!」

「人を雇う余裕なんかないね!」

「お断りするように言われています」


 ハナは、東通り商店街の端で、立ちつくしていた。


 2時間で、30軒を訪問した。

 募集の予定がある店は、ゼロ。

 担当者からもらえた名刺は――1枚もない。


「……お仕事って、大変なんですねえ」


 ハナは水筒を取り出して、ひと口、ふた口、飲んだ。

 そのとき、通りの向こうから、イソラが歩いてくるのが見えた。


「ハナさん。どうですか」

「30軒廻りました!」

「どうでした?」

「需要があるお店は……ありません!」

「そうですか」


 イソラは驚かない。


「イソラ先輩は?」

「3軒、訪問してきました」

「3軒……少ないですよね?」

「ええ」

「どうでした?」

「2軒は、継続掲載のご注文をいただきました。もう1軒は、来週号で検討していただけます」

「3軒中3軒! すごい!」

「どれも既存のお客様ですから」

「……それに比べて、私……」


 ハナは、下を向いた。


「焦る必要はありません。飛び込みと既存客回りは、ぜんぜん違います」

「……いいえ」


 ハナは顔を上げて、にっこりと笑う。


「先輩はすごいです。私も頑張ります!」


 イソラは目をぱちぱちさせた。


「残り70軒、行ってきます!」


 ハナは駆けだした。

 その背中を見送りながら、イソラは、小さく息を吐いた。


 昼を過ぎたころ。

 ハナは、50軒目の店に入った。

 小さなパン屋だった。店内には、茶色の大きなパンが棚にごろりと転がっている。


「こんにちは! 帝都求人広告社のハンナリン=パンネケートと申します!」


 オーブンの前に立つ店主らしい男が顔を向けた。


「広告?」

「はい! 求人広告のご案内です!」

「うちは、そんなもの出さないよ」

「そうですか! お忙しいところを失礼しました!」


 ハナは頭を下げた。

 そして、鞄の中から、案内状を1枚抜き出す。


「もしもお知り合いの方が、人手に困っているようでしたら、当社をぜひご推薦くださいませ!」

「だから、いらないって」


 店主が、粉だらけの手をひらひらと振った。

 そのとき、店の奥から若い男が出てきた。


「親方。明日の朝も、俺、一人ですか?」

「ああ。頼むぞ」

「勘弁してくださいっすよ。毎日毎日、3時から一人で仕込み、もう限界っすよ」

「わかってるよ!」

「休みくださいよ」

「俺だって休んでない!」


 ハナは、閉じかけた扉を開いて、再び店の中へ入った。


「あの……人手が足りないのですか?」

「足りないよ。ずっと足りてない」

「でも、求人広告は出さない、って、さっき」

「もう出したからだよ!」


 店主は眉を上げて大声を出した。


「先月。別の新聞の求人広告に、2回も出した。金ばかり取られて、ぜんぜん応募は来なかったよ!」

「……そう、だったんですか」

「だから、もう二度と広告は出さない!」


 ハナは少し考えた。


「……あの。どんな広告だったんですか?」

「何だって?」

「いえ。私の先輩なら、なんとかお役に立てるんじゃないかと思って」


 店主は、天井を見上げて、思い出すような顔をした。


「パン職人急募! 元気でやる気のある男子! 経験者優遇!」

「……それから?」

「それだけだよ」

「それだけですか?」


 店主は腕を組んで、ハナをじろりと見た。


「……あんた、新人だろ」

「はい! ……どうして分かるのですか?」

「分かるよ。いかにも新人、って顔をしている」


 ハナは思わず、自分の顔を触った。

 若い職人が追い打ちをかけた。


「新人顔だ」

「ヒャア……」


 店主も、若い職人も笑った。


「新人さん。先輩、ってどんなやつだ」

「私もよくわからないんですけど……」

「わからないのかよ」

「すみません! 私、今日が入社初日で」


 店主は、額に手を当てた。


「新人さん。やっぱ、帰んな」

「待ってください!」


 ハナは慌てた。


「先輩は会社で一番の営業です! 売上1位です!」

「……へえ」


 店主と若い職人は、顔を見合わせ、そして頷きあった。


「よし。話くらいは聞いてやる。明日の今くらいの時間に、1位の先輩と一緒に来な」

「ありがとうございます!」


 ハナは深々と頭を下げた。


 パン屋を出ると、胸がどきどきした。

 初めて話を聞いてもらえた。

 需要を聞けた。

 約束ができた。

 それから――。


「あっ!」


 ハナは弾かれたように、もう一度、パン屋の扉を開けた。

 店主が振り返る。


「どうした?」

「……あの……すみません! お名刺を、頂戴できませんか?」


 店主は口を開けたまま、ハナを見た。


「名刺」

「はい」

「そんなもの、持ってるように見える?」

「……そうなのですか」

「俺、パン屋の親方だから」

「そういうものなのですね」

「これでよけりゃ」


 そう言って、店主は、カウンターに置いてあった宣伝カードをハナに差し出した。


『ジャドソン・ベーカリー 最高級小麦の全粒粉パン 日曜の肉料理承り』


 1日に5枚のノルマのうち、1枚を獲得できた。

 でも、これも名刺に数えていいのだろうか。


「……ありがとうございます!」

「せっかくだ。新人さんの名刺、もらっておこうか」

「……私……まだ、名刺、持ってないんです」


 店主は、半分呆れたような笑いを浮かべた。


「新人さん。あんた、きっと大物になるよ」


     ◇


 案内状100枚をすべて配りきったのは、夕方近くだった。

 もらえた名刺は、3枚どまり。それも、あのパン屋の宣伝カードを含めてだ。

 それでもハナは、小走りで会社へ戻った。


「先輩! イソラ先輩!」


 机に向かっていたイソラが、顔を上げた。


「どうしました?」

「パン屋さんです! 人を募集するかもしれないパン屋さんがありました!」

「それで?」

「明日、もう一度来てくれって! 先輩も一緒に!」

「……よかったですね。もちろん、行きます」

「ありがとうございます!」


 ハナは、勢いよく椅子に座った。


「どんな募集ですか?」

「パン職人です!」

「見習いからでもいいのでしょうか?」

「……経験者優遇、としか聞いてません!」

「ふん。ふむ」


 そこへ、社主の大声が飛んできた。


「ハンナリン君! 名刺は何枚貰えた!」

「さ、3枚です!」

「むう!」

「……うち1枚は、パン屋さんの宣伝カードです」


 社主は、太い眉をぐっと寄せて、カードをしげしげと眺めた。

 営業所が、静かになった。


「……日曜の肉料理承り、か」

「はい」

「……数えてよし!」

「ありがとうございます!」


 スタンが吹き出した。

 デュアンが鼻を鳴らした。

 イソラは眼鏡をくい、と直した。


「とにかく、明日、お客様に教えていただきましょう」

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― 新着の感想 ―
ハナちゃんの商店街巡りスタート!♪ やっぱり初めからなかなか上手くはいかないよね〜(ToT) でも、パン屋さんが人手は足りてないのに断ったのは、一度頼んだけど全然ダメだったから?? お、お、これ…
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