第2話 なんか、今日、増えていませんか?
月曜日の午後2時。
ハナは、帝都求人広告社を訪ねた。
通りに漂うインクの匂い。
輪転機の唸る音。
新聞売りの少年の呼び声。
印刷街の裏通りにある、三階建ての建物だった。
二階へ上がる。
開け放たれた扉の向こうから、怒鳴り声が飛んできた。
「『まだ5日ある』じゃあない! 日曜版の下版まで、あと5日しかないんだぞ! 今週こそ完全満載で下版するんだ!」
ハナは入り口で足が止まった。
中では、背広やジャケットを着た男たちが、忙しそうに動き回っていた。
机の上には、積まれた新聞と広げられた原稿用紙。
四方の壁には、巨大な表が貼られている。
赤、青、黄色、緑。
色とりどりの太い線が引かれている。
長い棒。短い棒。
書き込まれた数字。
『今月の獲得社数』
『売上金額』
『目標達成率』
ひと文字が、人間の顔ほどの大きさで書かれていた。
文字色は、どぎついほどの赤、青、金色。
ハナは目を細めた。
(……目が痛い)
そして、その表の一番上に、一人の名前があった。
売上1位。イソラ=ヤンシュ。
その名前をじっと見つめていたハナに向かって。
「何者かね、君は!」
「ヒャア!」
大きな声が飛んできた方を振り向くと、背の高い男が立っていた。
広い肩幅。濃い茶色の髪に太い眉。
仕立ての良い赤いベストに、派手な柄のネクタイ。
まだ若い。三十歳を少し過ぎたくらいに見える。
「応募者か!」
「は、はい! ハンナリン=パンネケートと申します!」
「そうか! まあ座りたまえ!」
男はハナに、決闘状を差し出すような勢いで名刺を渡した。
『帝都求人広告社 社主 フィアガル=ヴァン=ザント』
「ハンナリン=パンネケートさん!」
「はい」
「読み書き計算はできるのだね!」
「はい!」
「広告を作ったことは?」
「ありません!」
「営業の経験は?」
「ありません!」
「外に出て働いたことは?」
「ありません!」
「ふむ!」
社主は、ゆっくりと自分の顎を撫でた。
「……得意なことは?」
「……人とお話しすることは、好きです!」
「ほう!」
社主の目が光った。
「それから、刺繍をするのも、好きです!」
「……ほう」
社主が目を瞬いた。
「それから……それから……」
「もういい!」
社主は右手でハナを制した。
ハナは固まってしまった。
「採用だ!」
「……えっ?」
「明日から出社できるか?」
「ええっ!?」
「ただし!」
社主は、指を立てた。
「うちの仕事は甘くないぞ!」
「そうなんですね……!」
ハナは、膝の上でぎゅっと手を握った。
「人を雇いたい店や工場を探して、求人広告を売る。売れれば歩合給が入る。売れなければ入らん!」
「は、はい!」
「基本給は、月に銀貨60枚だ!」
「最初からですか?」
「最初は見習い期間だ! 月に銀貨80枚。ただし売れても歩合はつかない! 見習い期間が終わったら、基本給は銀貨60枚に減るが、歩合でそれ以上に稼げる仕組みだ!」
「……本当ですか?」
「何だね! 本当ですか、というのは!」
ハナは慌てて、頭を下げた。
「す、すみません! でも、広告に書いてあるお給金と、実際のお給金が違うこともあるので……」
社主は目を丸くした。
それから。
胸を反らして、大きな声で笑いだした。
「ハッハッハ! 求人広告社に来て、求人広告を疑うとはな!」
「すみません……!」
「いや、いい! 実にいい!」
社主は自分の膝を叩いた。
そして、真顔になった。
「ハンナリン=パンネケートさん。明日から出社できますか」
「は、はい!」
「よし!」
社主は右手を差し出した。
ハナは、戸惑いながら、握手した。
「では、君に、見習い期間中の教育担当をつけてやろう!」
そう言って、社主は、事務所の隅を指さした。
そこには、一人の女性が座っていた。
濃紺の上着に、白い立て襟のブラウス。
灰褐色の髪を、低い位置で綺麗にまとめている。
眼鏡の奥に、灰青色の瞳。
机の上には、整然と並べられた書類と手帳。
騒がしい営業所の中で、その女性だけが、静かに原稿用紙に向かっていた。
社主が大声で呼びかける。
「イソラ!」
女性が顔を上げた。
「はい」
ハナを示しながら、社主がにこやかに言う。
「明日から、彼女の教育担当を頼む!」
「……お断りします」
即答だった。
ハナは固まった。
「……えっ?」
「私は、新人教育には向いていません」
「向いているよ!」
「向いていません」
「向いているって! 君ならできるよ!」
「……私は、嫌です」
ハナは、ますます小さくなった。
当の本人が、私が、目の前にいるのに。
そんなにはっきりと、嫌だと言われるなんて。
今までの人生でも、ちょっと思い出せないくらいの衝撃だった。
社主は腕を組んだ。
「イソラ。君がここへ入社したとき、君を3ヵ月かけて指導してくれた先輩社員のことを覚えているか!」
イソラの肩が、わずかに動いた。
「……はい。もちろん」
「今度は君の番だ!」
「……」
「あの先輩に聞かれても、恥ずかしくない返事をしてくれたまえ!」
イソラは、しばらく黙っていた。
それから。
小さく、息を吐いて。
眼鏡の位置を、くい、と直した。
「新人教育担当、お引き受けします」
「よし!」
「ただし」
「何だ!」
「3ヵ月だけです。それから、その期間中、私の売上目標はどうなりますか?」
社主はイソラのすぐそばまで大股で歩み寄り、他の営業員には届かない小声で言った。
「教育期間中は調整する。必要なら、君の既存顧客の一部を、私が回ってもいい。歩合は君につける」
イソラの眼鏡の奥で、目が大きく見開かれた。
「……そこまでして、私に?」
「君に教えてもらいたいからだ!」
イソラは、しばらくの間、社主を見つめていた。
「……承知しました」
ハナは、恐る恐る近づいた。
「あ、あの……」
「イソラ=ヤンシュです」
「ハンナリン=パンネケートです! ハナとお呼びください!」
「……ハナさん」
「はい!」
「よろしくお願いします」
イソラは一礼した。
ハナは慌てて、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
そのとき、若い男性社員が、イソラの後ろを通りかかった。
「見てろよ、イソラ。月末には逆転してやるからな」
「お手柔らかに。デュアン」
そう答えると、イソラは椅子に座り、原稿の校正作業を再開した。
ハナは壁の表を見た。
売上1位 イソラ=ヤンシュ
売上2位 デュアン=セッツァー
(……この人、売上が一番なんですね……)
改めて、イソラを見る。
(……すごい人なの?)
そのとき、営業所の扉が勢いよく開いた。
「来たよ来たよ、来ましたよ! 今週も『おかわり』いただきました!」
大柄な男が元気よく入ってきた。
「おお、スタン!」
「社主! 西区の家具商会、今週も掲載です! 掲載枠が倍の大きさになりました!」
「やったな!」
「先方の社長、2週連続応募なしで、ご立腹だったんです。一緒に昼飯を食ったら、最後は機嫌よく、『おかわり』の注文をくれましたよ!」
スタンは豪快に笑った。
そのやりとりを見ていたハナは、目を輝かせた。
(楽しそうにお仕事している……営業って、ああいう感じなのかしら?)
明るく、話し好きで、相手の懐に入っていける。
それなら、自分にも向いているかもしれない。
社主は、ハナのそういうところを見込んで、採用してくれたのだろうか。
そう考えているハナのすぐ隣で、イソラは静かに原稿の誤字を修正していた。
「さて、ハンナリン君!」
社主が振り向いた。
「新人研修の最初の課題を伝えよう!」
「は、はい!」
「明日、近くの商店街で、100軒飛び込みしてこい!」
ハナは口を開けた。
「ひゃ……ひゃっけん!?」
「そうだ!」
「1日で?」
「そうだ! それから、採用担当者の名刺を、最低5枚もらって帰ってこい!」
「……ひゃい?」
「ひゃい、って何だ。新入社員は全員、この研修内容をこなして、一人前の営業員になったんだ!」
イソラが、静かに口をはさんだ。
「社主。100軒は、商談の件数ではなく、訪問の軒数だと説明しないと」
「当然だ!」
「……分かりました」
やるしかない。
ハナは、ぎゅっとこぶしを握った。
イソラは、机の下から、大きな紙束を取り出した。
「では、ハナさん。こちらを」
「はい?」
「飛び込み訪問用の営業案内状です。100枚あります」
「……はい」
「あなたの名刺はこれから作るので」
イソラは、ペンを差し出した。
「この案内状の『担当者』欄に、あなたのお名前を手書きしてください」
「……全部ですか?」
「全部にです」
ハナは紙の束を見下ろした。
椅子に座る。
1枚目に書く。
『地域担当/ハンナリン=パンネケート』
2枚目に書く。
『地域担当/ハンナリン=パンネケート』
3枚目。
『地域担当/ハンナリン=パンネケート』
10枚目。
20枚目。
30枚目。
「……イソラ先輩」
「はい」
「私の名前って、こんなに長かったでしょうか」
「昨日と同じ長さだと思いますよ」
「そうですか? なんか、今日、増えていませんか?」
50枚を超えると、自分の名前が、なんだか知らない文字に見えてきた。
70枚目で、ハナは机に突っ伏した。
「ヒャア……」
イソラは、眼鏡を拭きながらハナを見た。
「明日は、かかとの低い丈夫な靴を履いてきてください」
「はい?」
「たくさん、歩くので」
「……ああ~……はい……」
「水筒も持ってきたほうがいいですね」
「はい?」
「喉が渇くので」
ハナは顔を上げた。
イソラは、自分の原稿の作業に戻っていた。
ハナは、残りの案内状を見下ろした。
明日は、100軒。
名刺を、5枚。
営業という仕事は、どうやら思っていたより、ずっと大変らしい。




