第1話 ……書いておいてくだされば、よかったのに
パンネケート男爵家には、借金がない。
これは、たいへんに幸運なことだった。
なんとなれば、いまの男爵家には、財産もなかったからだ。
だから、男爵令嬢ハンナリン=パンネケートは、働かなければならない。
帝都の下町の集合住宅の三階。
ハナは、日曜日の新聞の求人欄を、机いっぱいに広げた。
『事務員募集。勤勉にして、計算に堪能なる女性求む。
実務経験は問わず。初任給は月に銀貨60枚より。経験、能力による。
下記まで郵送されたし。折り返し通知する。
ブーツィー通り44番地 キャロザーズ商会』
ハナは鉛筆で、この広告を丸で囲んだ。
月に銀貨60枚。
家賃は、月に銀貨15枚。
これなら、家賃が払える。
しかも、経験不問だ。
ハナは広告を丁寧に切り抜いた。
それから便箋を取り出して、応募の手紙を書いた。
返事が届いたのは、5日後だった。
面接は、その翌日、土曜日の朝。
ハナは、唯一持っている若草色の外出着を着た。
型は古いが、仕立ては良い。男爵家が裕福だったころに誂えたものだ。
だいいち、今は、新しい服を買う余裕はない。
栗色の髪を後ろでまとめて、帽子をかぶる。
手提げには、あの広告の切り抜き。
「それではお父様。お母様。行ってまいります!」
「頑張ってね、ハナ!」
「パンネケート男爵家の名に恥じぬように!」
「事務員の面接ですよ、お父様!」
帝都の雑踏を小一時間歩いて、事務所に着いた。
商会の主人は、立派な口髭を生やした中年男性だった。
ハナが送った手紙をテーブルの上に置いて、面接が始まった。
「計算はできるのだね」
「はい!」
元気よく答える。
「手紙には書いていないが、帳簿は?」
「家計簿をつけています!」
「商業帳簿の経験は?」
「……ありません」
「ふむ」
主人は、手紙を手に取った。
「実務経験なし。では、最初の半年は見習いだな。月給は銀貨30枚になる」
ハナは大きく瞬きをした。
1回。2回。3回。
瞬きが止められない。
4回。
ようやく、言葉が出た。
「……月、30枚、ですか?」
「そうだ」
ハナは、手提げから切り抜きを取り出して見せた。
「あの、求人広告には、月60枚より、と……」
「半年後、一人前になれば60枚だよ」
「……経験は問わず、と……」
「経験不問とは書いたが、実務経験があるなら月60枚だって払う。しかし、君は違うのだろう?」
悪びれる様子もなく、主人は言った。
ハナは、膝の上でぎゅっと手を握った。手の中で、広告の切り抜きがぐしゃりと潰れた。
「……勤務時間は……何時から何時まででしょうか」
「朝7時から、仕事が片付くまでだ。そのときによって終業時間はまちまちだな」
「……お休みは?」
「日曜は休みだ。忙しい時は出勤してもらう」
最後に、採否は追って通知する、と主人が言った。
「貴重なお時間を、ありがとうございました。……今回は、ご辞退申し上げます」
ハナはそう言って、頭を下げた。
面接は終わった。
帰り道。
ハナはとぼとぼと歩いた。
採用される可能性は――たぶん、あった。
商会の主人も、特別に意地悪な人というわけではなさそうだ。
ただ、新聞広告に書いてあったことと、面接で実際に聞いたことが、違っていた。
もし最初から、未経験者なら銀貨30枚、と分かっていたら。
もし、勤務時間が分かっていたら。
応募の手紙を書いただろうか。
5日間、返事を待っただろうか。
往復2時間を歩いて、面接に行っただろうか。
「……書いておいてくだされば、よかったのに」
小さくつぶやいた。
◇
集合住宅の階段を三階まで上がると、部屋の扉の前に、恰幅のいい女性が立っていた。
「ああ、パンネケートさんのお嬢さん。ちょうどよかった」
「こんにちは。大家さん。ご機嫌よう」
「お家賃のことなんですけどね」
ハナの背筋が、ぴんと伸びた。
「先月の分も、まだいただいてないでしょう。今月の分と合わせて2ヵ月分。銀貨30枚になりますよ」
銀貨30枚。
さっき、面接で聞いたばかりの数字だった。
ひと月まるまる働いて、ようやく払える額。
(あのお仕事を、お受けしていたら……)
ハナは、首を振った。
朝7時から、仕事が片付くまで。お休みも、あるのかないのか分からない。
分からないことだらけの約束に、家族の暮らしを預けられない。
「申し訳ありません。来月のこの日まで、待っていただけないでしょうか。必ず、お支払いします」
大家は、ハナの顔をしばらく見ていた。
「……お嬢さんがそう言うならね。来月のこの日までですよ」
「ありがとうございます!」
大家は首を振りながら、階段の下へ消えていった。
ハナは、扉にもたれて、長い息を吐いた。
来月のこの日には、3ヵ月分を支払わなければならない。
部屋に入ると、母が温かいお茶を淹れてくれた。
「おかえりなさい、ハナ。扉の外で、どなたかとお話ししていたの?」
「……大家さんです」
「まあ! お茶をお出しすればよかったわ」
ハナは、黙ってお茶を飲んだ。
やがて。
パンネケート男爵が帰ってきた。
袖口が擦り切れた古いフロックコートを脱ぎながら、娘に向かって明るい顔で言う。
「ハナ。今朝、昔の知人に会ってきたのだがね。とてもよい話があったよ」
「お仕事が見つかったんですか!?」
ハナは、椅子から立ち上がった。
「いや、まだだ」
「……まだ、ですか」
「しかし、私にふさわしい役職の席が空いたら、必ず知らせてくれるそうだ」
「いつですか?」
「それは、まだ、分からん」
「どんなお仕事ですか?」
「それも、まだ分からん」
「……」
いつ始まるのか、分からない。
どんな仕事なのか、分からない。
お給金も、勤務時間も、何ひとつ分からない。
ハナは、手提げの中の、くしゃくしゃになった切り抜きに触れた。
(……お父様の『よい話』には、何も書いていないわ)
「だが、先方はたいへん親身になって話を聞いてくれたよ。いやあ、昔の友人というのはありがたいものだ」
父男爵は、上機嫌で、帽子を置いた。
「……お父様」
「なんだね。ハナ」
「さっき、大家さんがいらっしゃいました」
「おお。お元気だったかね? なんの用事だったのだろう」
「家賃を払ってください、って」
「……そうか」
「先月の分も、待っていただいているのです」
「…………そうか」
「2ヵ月分で、銀貨30枚です」
父男爵は少し考えた。
「では、次に来られたら、私から事情を説明しておこう」
「私から説明しました! 来月のこの日まで待っていただけることになりました」
「おお。そうか。ありがとう、ハナ」
ありがとうではない。
ハナは、深いため息をついた。
「ところで、ハナ。今日の面接はどうだったかね」
ハナは、面接のことを話した。
父は、うん、うん、と頷きながら聞いた。
「そうだったのか。残念だったね。だが、きっとハナに相応しい仕事が他にあるよ」
「……はい。ありがとうございます。お父様」
父は、本気でそう信じている。
自分の『よい話』を信じているのと、同じように。
パンネケート男爵家が財産を失ったのは、父が出資した事業が失敗したためだった。
人に騙されたというわけではない。
父の判断が甘かっただけである。
父はそのことを認めている。自分以外の誰かを恨んだりもしていない。
それは立派なことだった。
そんな父のことを、ハナも好ましく思っている。
立派なことと、生活は別ものだった。
屋敷を売り、土地を売り、証券や動産を整理して、幸いにも借金はすべて帳消しにできた。
そして一家三人、この三階へ引っ越してきたのだ。
父男爵は、昔の知人の所を毎日訪ねて歩いている。
曖昧な口約束だけを貰って、笑顔で帰ってくるのが常だった。
母も、仕事を探している。
こちらも、あまり順調ではなかった。
「ハナ! 聞いてちょうだい!」
母が、台所から顔を出して言う。
「私、ようやく分かったの! 針仕事というのは、速さが大事なのね!」
「……そうですね」
ハナは、机の隅に置かれた布を見た。
先日、母娘で引き受けた、針子の内職の布だった。
男爵令嬢であるハナは、刺繍なら得意だった。
花や鳥を美しく縫うことなら、貴族令嬢のたしなみとして、ずいぶん練習したものだ。
しかし、内職で求められたのは、同じ形の刺繍を、同じ速さで、期日までに何十枚も仕上げることだった。
ハナは、一枚を美しく仕上げるために、時間をかけた。
かけすぎた。
一目でも曲がっていると、ほどいて縫い直さずにはいられなかったのだ。
母は、縫い目を揃えることができなかった。
一枚を仕上げる前に、布を駄目にした。
速い遅い以前の問題だった。
結果、内職の契約は一方的に打ち切られた。
それどころか、無駄にした布や糸の弁償を求められた。
働いたのに、お金が減った。
「私、次は、もっと上手にできると思うの」
「……お母様。しばらく、針仕事はお休みしましょう」
「あら、そう?」
母は、残念そうだった。
この母も、悪い人ではないのだ。
ただ、母が家計のために何かを始めると、なぜか、家計簿に新しい支出が増える。
ハナが最近発見した、新しい法則だった。
やはり、自分が働くしかない。
ハナは、新聞をもう一度開こうとした。
机の上の新聞は、すでに父の手の中にあった。
政治欄と経済欄を、熱心に読んでいる。
「ほう。ほほう。新しい鉄道会社が設立されるそうだ。資金さえあれば、私もぜひ出資したいものだが」
「お父様! 出資はもう結構です!」
ハナは父から新聞を取り返した。
求人のページを開く。
広告を切り抜いた四角い穴が、ぽっかりと開いている。
その穴の周りに、目を走らせる。
『自動織機の操作経験者に限る。月給銀貨100枚から。7時から18時。毎週日曜休み』
これは詳しい。銀貨100枚というのも魅力だった。
「でも、私にはできません……」
『頑健なる男子求む。委細面談』
『まずは応募を。希望応相談』
初任給の数字どころか、仕事内容も書いていない募集もある。
「怖くて、とても応募できません……」
あの商会は、あれでもまだましな方だったのだろうか。
四角い穴の、すぐ下。
一番右下にある、小さな広告に目が止まった。
『帝都求人広告社 営業員募集』
「……求人広告社?」
見出しの下には、こう書いてあった。
『帝都新聞の求人広告欄を販売して原稿を作成する業務。
基本的な読み書き計算ができる者。
男女問わず。経験問わず。職歴問わず。
月の基本給銀貨60枚に加えて、高率売上歩合あり。
見習い期間3ヵ月間は銀貨80枚の基本給のみ。
勤務は朝8時~18時。残業の場合あり。
毎週日曜定休。
応募者は毎週月曜午後2時に、当社事務所へ直接来訪されたし。
帝都求人広告社 採用担当 ヴァン=ザントまで』
求人広告を売る会社。
その会社が、求人広告で社員を募集している。
「……なるほど。自分たちの広告を、自分たちで出しているんですね」
変なところで感心した。
男女不問。経験不問。
給与をはじめ、勤務条件は、今まで見た中でいちばん詳しい。
いつ。どこで。いくら。何をするのか。
ぜんぶ、書いてある。
今度は、手紙を書かなくてもいい。
月曜日に、直接事務所へ行けばよいのだ。
「……行ってみなければ、分かりませんよね!」
読んでくださり、本当にありがとうございます。
雇用機会均等法も、最低賃金法も、労働基準法も生まれていない時代。
求人広告は、存在していました。
没落令嬢もいました。
求人広告営業の、文明的で野蛮な世界へ、ようこそ。
全6話。
お楽しみください。




