第二話 さとりと龍神 参
おそるおそる踏み出していた竹若の足がこなれたころ、山道に終わりが見えた。
「陽が沈む前に、宿に上がれそうだ。よく歩いたな」
編み笠をゆるく打たれた。気やすい声と仕草に、竹若の口元に笑みが自然とにじんだ。
木と下草ばかりだった道の両脇に、板壁が連なる。旅人の腕を、衿をゆるめた女たちが胸に抱えこみ、宿へと誘っていた。自分にもまとわりつくのかと思うと、竹若の足は鈍った。
冴は真っ直ぐにいく。すぐ近くにいるにもかかわらず、冴の動く気配がつかめない。体はまったくゆれず、滑るように足を捌く。ちゃり、ちゃり、と規則正しく鳴る錫杖の輪だけが、冴の動きを伝えていた。冴が進むと、通りをふさぐ留女たちが道をあける。
「どうして、僕たちに女の人は来ないの」
「坊主相手では商売にならんからな」
わかるような、わからないような。竹若は、坊主云々よりも、理由は冴だと予想した。
冴が客引きのない平旅籠の戸をくぐった。一汁一菜の食事を腹に落とし、あてがわれた六人部屋にいく。先客が三人、筵を敷いて体を休めていた。
無精ひげで顔を埋めた男が、竹若を値踏みするように瞳を上げ下げした。最後に、にやりと笑う。身を硬くして立っていると、部屋の隅に陣取った冴に手招きされた。
「見せろ」
竹若が腰をおろすなり、足を掴まれた。冴がゆっくりと布を剥ぐ。
伏せた顔に竹若は見入った。草鞋擦れの手当てをし、歩調を揃え、無口だろうになにかと声を掛け、膏薬や寸の短い仕込み杖を用意する。十歳の男児が旅を成し遂げられるよう、随所随所に心が砕かれている。命を狙われている実感がなかった。しかし、油断をしてはならない。
「明日の朝は早いぞ。横になっておくんだ」
冴は膏薬の上塗りを終えると、壁に背を預けて目を閉じた。ひげにまみれた男が、まだ自分を見ている気がし、冴に触れるほどの近さで背を倒した。
たった今、油断を禁じたはずなのに、冴を頼りにしている矛盾に竹若は気づいていない。旅のつかれが、幼い男児を眠りの底へと引き摺りこんだ。
「小僧を寄越せえ」
竹若の瞼をあけたのは、嗄れた大声だった。なにがと思う間もなく、冴に肩を寄せていた。
昨日の無精ひげの男が、中年の客を背後からかため、首筋に短刀を当てている。日の出前の弱い明かりを拾った刃が、薄暗い中で白くうかぶ。
賊となった男に、冴が目をむけている。片膝を立てた姿勢は竹若が眠りについた時と同じだが、背は壁から離れ、十分過ぎる殺気が放たれていた。
竹若がまだ目覚める前のこと。無精ひげの男は短刀を手に、足音を殺した。が、冴の上瞼越しの視線で刺されて飛び退き、ほかの客を盾に取ったのだ。賊は目を血走らせ、口の端には泡を溜めている。
「こいつが死んでもいいのかあ」
刃をむけられた商人らしき客が、「ひ、ひ」とか細く喉を鳴らした。
「勝手にしろ」
冴の声が床に這う。
え、見捨てるの。
竹若が冴に視線を移した時にはもう、賊の肩に小柄が刺さっていた。悲鳴よりも早く、冴が迫り長い脚で蹴る。胸への一撃で賊は吹き飛び、柱に背中を食いこませた。まるで馬の蹴りだ。
「出るぞ」
肩口を掴まれ、床から引っこ抜かれた。部屋の騒動が遠ざかる。荷物と一緒くたに抱えられ、宿を出る。冴は裸足だ。走る冴の肩で、竹若はゆれた。
宿場を抜けたあたりで、足は止まった。息がまったく乱れていない。かつがれるだけだった竹若のほうが、はあはあと喉を鳴らしていた。笠を盆のように使い、手甲や脚絆を渡された。
「朝飯を食べそこねたな」
立ち回りなどなかったかのような、のんびりとした口調だった。
「なんだったの、あれ」
「狐憑きの類だな」
「僕を殺そうとしたの」
冴は深く一度、顎を引いた。幼い頭に疑問が湧く。
どうして、僕を守ったんだろう。放っておけば、僕は男に殺されていた。又兵衛からの仕事が、さっさと片づいたのに。
「さっきの人、死んじゃったの」
いや、と冴の頭がかすかにゆれた。
「狐に憑かれる前は、ただの護摩の灰だ。殺すのも惨いだろう」
「ごまのはいってなに」
「盗っ人だな」
「どうしてわかるの」
「昨日部屋に入った時、竹若の懐具合を目で測っていたからな」
「お金なんて持ってないのに」
「竹若は立ち居振る舞いが並外れて良い。名家の坊だと見抜き、笑っていた。さて」
草鞋が差し出された。二人して道端にしゃがむ。冴は竹若の足先を竹筒の水で流し、草鞋擦れに膏薬を塗った。手拭いを新たに裂き、足指に巻きつける。荒々しく男を蹴り飛ばしたことが信じられないほど、こまやかな手つきだった。
陽の底が山の線を越えたころ、茶屋で遅い朝飯をとった。腹が膨れたからか。縁台に腰掛けたまま、竹若は頭が前後にゆれる。瞼が途轍もなく重い。やがてはがくりと首を垂れた。横倒しになる寸前、肩に掌のぬくもりを感じた。
「冴、ごめん。僕が寝ちゃったせいで、ちっとも前に進めなかったね」
「急ぐ旅ではない。休める時に休め」
「だけどこれじゃあ、明るいうちに宿場には着かないよ」
踏み固められた細道は、山の奥を目指すばかりで開ける兆しがない。
「これからは野宿だ。憑き物が出るたびに蹴倒していては、ほかの客に気の毒だ」
「野宿って、道端で寝るの」
「山の中には、社や炭焼きの小屋があるものだ。なければ、竹若の言うように道の端で居眠りだがな」
どうか少しでもましなところが見つかりますように。竹若は目をあちこちへと散らした。
めぼしい場所もないままに、陽の光は力を失っていく。
「あと幾らか歩けば、古い社がある」
冴が山に呑まれて見えない道の果てを指さした。
社のささくれた板壁に背をむけ、冴は蚊遣りを焚いた。夕日を浴びた煙は、淡い朱に染まる。
「足を見せろ」
頭陀袋から笹龍胆の描かれた小箱を出し、蓋を外す。黒く粘る膏薬を指先にのせた。
「痛むか」
傷を軽く押されたが、刺すような痛みは消えていた。静かな面持ちで、冴は竹若の返す言葉を待っている。目を合わすうちに、竹若は頬から耳にかけて、かあっと熱くなった。冴の瞳に、気持ちを根こそぎ吸いこまれてしまいそうだった。
「大丈夫」
くらくらと意識はゆれる。なんとか答えた。
「明日も歩けそうか」
明日、と耳にした途端、竹若は現実に引き戻された。
自分に明日はあるのだろうか。これから夜を迎える。木の頂は、すでに黒く色を変えている。時を待たず、闇は隣に来る。壁も屋根も、人目もない。
しかし、道中の会話や数々の気遣いを思いうかべると、冴が凶行に走るとはどうしても思えない。今も竹若の足に、布を巻きつけている最中だ。
「草鞋は履かずに休め」
ここにも、気遣いがある。緒で傷を刺激するな、と教えてくれている。細めた目を冴の胸元に合わせる。深い泉のように静かだ。
ぐうう。竹若の腹が鳴る。考えがまとまらず、実のある動きができずとも、体は生きるための動きをとめない。
切れ長の目をほんの少しゆるめ、冴が頭陀袋から竹皮の包みを取り出した。




