第二話 さとりと龍神 壱
又兵衛は何度も畳の上で尻をゆすった。年とともに肉を重ねた背筋に冷や汗を流し、屋敷に招いた女へとまわりくどく話を刻む。
「餓鬼亡者が家臣の住まいだけでは飽き足らず、殿の御屋敷にまで出るようになった」
今尚、乱世の戦場で精を出す又兵衛だが、正面で切れ長の目を光らせる女の圧力に、肝心なことを切り出せない。
いっぽうで、女は力が抜けている。野袴に通した右膝を立て、左腕は傍らに置いた刀へと、いつでも指先が掛けられるよう、ゆるく曲がっていた。細い袖に包まれた肘から先がすらりと長い。袴も袖も、褪せた緑と掠れた土色が斑を描く、見慣れぬがらだった。
「名の通った僧や法力があると噂の山伏にも頼んだが、まるで効かん」
又兵衛の口の端が、頬のたるんだ肉を裂くように広がった。
「餓鬼が我らを襲うのは、山に住みついた強大な妖物のせいだと言い、坊主も山伏もそそくさと帰っていきおった」
役立たずが、と又兵衛は鼻面に皺を寄せ、黄みがかった歯を剥き出しにした。犬歯が、牙の如く尖っていた。
「その強大な妖物を私に退治せよ、と」
「違う違う。自らで城を守れぬとあらば、武門の恥。冴殿には、若に付き添ってもらいたい」
又兵衛はようやく表面上の用件を明かした。
「幾つだ」
「十歳になったばかり。法天寺を知っておるか」
冴は黙って首を縦にふる。肩で切り揃えた髪がゆれる。
「化け物との一戦で災いが及ばぬよう、跡取りである竹若様には、遠方の寺へと身を移していただく。その供をしてもらいたい。礼金はこれだ」
又兵衛が畳に置かれた紫の布を払った。盆の上で、金の粒が小山を築いていた。冴が腕を伸ばし、金粒を鷲掴みにする。指の間からこぼれた欠片が、盆で乾いた音をたてた。
「明日、私は櫓門で待っている。陽が昇る前に発つ。若には、雲水のなりをさせよ」
「雲水だと」
「如何にも若殿でござい、という恰好では、道中いらぬ賊を引きつけてしまう」
言い終えてすぐ、冴は立った。頭が天井に当たるかと錯覚するほどの背丈だ。
「待て」
又兵衛が素早く冴にすり寄る。
「礼をはずめば、お主はどのような厄介ごとでも請け負うと聞いた」
付き添いは表向きの依頼。又兵衛は冴と視線を合わせた。唇の隅をかすかに上げ、声をひそめる。
「道中、竹若様を殺せ」
生臭い息を伴い吐かれた言葉に、冴は横へとかすかに瞳を動かすだけだった。
竹若は夜明け前の玄関にて、父、泰信の手元を見詰めていた。薄明かりの中でも、草鞋の緒が自らの細い足の上を幾度も行き来するのが見て取れた。
「どうだ、竹若。覚えたか」
「はい、なんとか。随分、ややこしい履き方をするのですね」
これから見知らぬ者と二人きりで旅に出る。竹若の頬は白く強張り、朗らかさを失っていた。
慣れぬ早起きのせいではない。初めて身に着けた墨染めの僧衣のせいでもなく、髪を剃り落としたせいでもなかった。
竹若が朗らかさを欠くようになったのは、今に始まったことではないのだ。生まれながらに備わったおかしな力を気に留めて以来、笑顔が減ったと竹若は自覚していた。
「慣れてしまえば、目をつむってでもできる」
草鞋掛け足袋に覆われた足が、泰信の分厚い掌で撫でられた。
「法天寺には、天狗が稽古をつけてくれるとの言い伝えがある。槍の鍛錬に励むのだぞ」
ははは、と父は白い歯を見せるが、笑い返せない。瞼をせばめ、父の胸へと目を遣った。
赤く燃えるような色味が、合わせた衿を透かせて見える。
……強くなって帰ってこい……。
父の声が竹若の頭の奥で響く。
さとり。
細めた目を胸元に当てれば、竹若には人の本心が見え、聞こえるのだった。夜に床へと就いた折、乳母の話す中にあった妖怪さとりを、自らに重ね合わせた。
言葉を覚えたばかりのころ、竹若は誰もが他人の心の内を見透かせると思っていた。
しかし、「お前は今、僕をうるさいと思っただろう」などと言うたびに顔をしかめられ、どうやら違うと気づいた。人には知られぬほうが良い、とも。人の裏表は激しい、とも。何度か人の気持ちを言い当てたことは、幼い子供の戯れと片づけてもらえたのは幸いだった。
裏表のもっとも際立つ男が、竹若の前で膝をつく。
「竹若様。腕利き従者を雇いました。どうかご心配なく」
前々より、又兵衛が良からぬ企てを飼っていると竹若は見抜いていた。とくに餓鬼が出るようになってからの又兵衛の心には、練りを加えた炭のように粘りと闇を感じる。まるで人ではない邪悪なものが住みついたような暗さだ。
「ささ、そろそろ日の出です。冴なる者が、竹若様をお守りいたします」
又兵衛の唇は、形だけほどよく曲がっている。本当はなにを思う。竹若は目を細め、内側を覗いた。
……従者に殺されるとも知らずに……。
慌てて目の前の顔に焦点を合わせた。笑みが深くなり、又兵衛の口の中がにちゃりと鳴った。
「諸国行脚の小坊主といったところか」
父が、剃り跡も青い竹若の頭に編み笠をのせた。父に続き、城内の坂を履き慣れない草鞋でくだっていく。草履よりも足の裏に張り付き、地面の細かな尖りや窪みを直接に伝える草鞋は、旅の始まりを竹若に実感させた。
気に掛かるのは、又兵衛の心の声だった。しかしもう、出立は決まったこと。取りやめるよう、申し出る勇気はなく、流れに身を任せるのだった。
さとりである自分にとって、あふれる殺気を感じ取るのは容易い。従者が邪な気を発すれば、すかさず逃げればよい、と自らに言い聞かせた。
山城と道を区切る櫓門が近づく。門をくぐれば、両脇に雑木がずしりと重く層をなした一本道だ。白んだ空を背に、黒く高く門はそびえる。開け放たれた大扉が、朝の光を四角く切り取っていた。
白く抜けた扉の右隅に、影があった。輪郭だけで、相当な背の高さだと知れた。棒を握っている。地に棒の尻をつけ、影の背丈を越えた先端を真っ直ぐに天へとむけていた。
距離を潰すにつれ、従者の子細が目に映る。墨染めの法衣に白の手甲と脚絆、頭陀袋が腰のあたりにさがっている。編み笠の下には、引き締まった顎と唇。ひげがなく、髪の先が肩に掛かっていることで女だとわかった。自分は剃り落としたのに、と地肌が露わとなった後ろ頭を撫でた時、声が掛かった。
「冴だ」
まだ熱を持たない朝の空気に、低い声がよく通る。冴は、笠をとらずに会釈だけで、城主一同への挨拶を済ませた。この場にいる誰よりも、頭の位置が高い。
「なにも武器を持たずに供をするつもりか」
礼を欠いた挨拶に又兵衛は荒れた。冴は手にした錫杖をしゃらんと鳴らす。
「まさかそれが武器だというのではあるまいな」
「仕込み槍になっている」
「お前は弓の名人と聞いた。槍は使えるのか」
不満気な問い掛けが終わるやいなや、遊環同士の打ち合う涼やかな音が、夜明け前の空気に吸いこまれた。




