第一話 化け物退治 五
年にひとり、村の娘を大狒狒に捧げるためにこの場所は作られた。幾本も木を伐り、小屋ほどの広さで地面を均したのは、もう十年も前のことだ。
「冴はどうした」
ひとりきりの与助に庄兵衛が詰め寄った。隣では、槍を握りしめた伝一が目を血走らせている。家宝の鎧で身を固めているのは前回と同じだが、兜は冴の矢で使い物にならなくなったため、地味な前立のものに変わっていた。
行方知れずだと正直に返せば、問答無用で殺される。そう察した与助は、この場を誤魔化すことを選んだ。
「森の中に身を隠して、大狒狒が出るのを待っています」
冴が祀り場の傍にいるのかどうかなど、与助は知らない。近い将来、嘘の皮は剥がされる。わかってはいるが、与助は少しでも長く生きたかった。
太く高い木に囲まれた祀り場に、およそ二十の人がいる。少しでも多くの者に、伝一の手がらを示したい庄兵衛の腹積もりのあらわれだった。
大狒狒をおびき出すために酒樽をあけた。家来が大団扇であおぐ。陽の光が薄れるにつれ、木の葉や草の青い香りよりも、酒のにおいが強くなった。
一度目に大狒狒が出たのは、陽が落ち、薄墨をひと筆ひと筆重ねるように、暗がりが増す時分だった。今が丁度、その逢魔が時だ。雲のない空では、満月が早くも白く光を放っている。
風もないのに黒い葉がゆれる。与助は森の切れ間の奥に目を凝らした。木の幹と幹の間に、赤く光る点がある。
「来た」
与助の短いひと言に、祀り場にいる全員が唾を飲んだ。葉の擦れる音、落ちた枯れ枝を踏み折る響きが誰の耳にも届いた。酒のにおいをかき消すほどの血なまぐさが、太い筋となってあたりに漂う。立ちならぶ森の木々の隙間を割り、真っ黒な巨体が露わとなった。
一行には目もくれず、大狒狒は酒樽へと歩み寄る。指先をひたし、口に入れた。毒が入っていないかたしかめているとわかり、与助は大狒狒の用心深さに舌を巻いた。
ひと抱えもある樽を片手で掴み、大狒々は喉へと酒を流しこむ。丼から汁を飲むのに似ていた。またたく間に樽をあけ、満足気に大きな息を吐いた。すべての空気が、腐った臓物のにおいと入れかわる。耐えきれずに、嘔吐する者もいた。
大狒狒の目が、槍を手に足を竦ませた伝一に据えられた。
「性懲りもなく、また虫けらが来よった。死にたいのか、若造め」
「おおおお……」
伝一は大声をあげて槍をしごくが、腰は引けていた。
「おい、冴はまだか。どこにいるのだ」
庄兵衛が与助の胸ぐらを掴み激しくゆする。
冴は逃げた。と、もう少しで与助は明かすところだった。金だけを取り、姿を消した、と。
今にも踵を返しそうな伝一と、時を掛けて一行を見回す大狒狒に何度も視線を走らせた与助の目が、動くものをとらえた。大狒狒の踏んだ小道の先、伝一から三十歩ほど離れた箇所で、弓を引きしぼる影がある。緑と土色の衣は森に溶けこみ、暗い中で白くうかびそうな顔は目だけを残し、黒の頭巾で覆われていた。
「冴があそこに」
指さして教えるも、森に不慣れな庄兵衛の目ではわからない。
「どこだ」
庄兵衛は瞼をせばめ、頭を小さく動かす。お、と呟き首を突き出す。一点を凝視した。
「伝一。やつはおるぞ。行けえ、大狒狒を突けえ」
庄兵衛の励ましに伝一の背筋が伸びた。垂れていた穂先が持ち上がる。
大狒狒が両腕を天にかざし、黄色い牙を剥く。跳ねるように飛びかかった。
「おう」
太く力のこもった気合いが伝一から放たれた刹那、大狒狒の腹が破裂した。
血とはらわたを浴びた伝一は、槍を繰り出した形のまま動かない。大狒狒がゆっくりと、天を仰ぐかのように倒れていく。
供の者の歓声が黒い森に響いた。庄兵衛が手を打ち鳴らし、伝一へと駆け寄る。でかした、でかした、とわが子の肩を抱くやいなや悲鳴をあげた。
「伝一が、伝一が死んでおる」
大狒狒の腹を抜けた矢が、伝一の胸に深々と食いこんでいた。
与助は、狂ったように叫ぶ庄兵衛から冴へと目を移した。すぐさま背筋が硬くなる。冴も与助を見ていたのだ。
蝿を払うような仕草で、冴が手をふる。この場を去れと言っている。矢筈に弦を当て、弓を上げる。狙いは与助だ。
冴が大狒狒を倒したらすぐ、村を去るのが約束だった。切れ長の目が、殺気の針を飛ばしている。
伝一の死に騒然とする祀り場で、背をむける与助に気を留める者はなかった。山を駆け下り、一目散に隣村を目指す。少しでも足をゆるめたなら、おゆうに会いに行ってしまうとわかっていた。
約束を破ったと知れば、冴が許さないのは明らかだ。どこに逃げても、矢が追ってくる。自分だけでなく、おゆうの命までも奪うに違いない。
おれさえ、消えれば。
胸の内で唱えたのは、もう何度目だろうか。すべてをふり切るように、与助は地面を蹴った。胸が苦しいのは、走り通しだからだけではない。
やがて、峠にさしかかった。長い上り坂を越えれば、庄兵衛の領地を出る。それは、冴との約束を果たすことであり、おゆうとの別れでもあった。
足を引き摺り、這うような進み具合で坂をのぼる。ゆるい曲がり道の先で、幾日か前に団子を食べた茶屋の屋根が、月に白く照らされていた。縁台がひとつ通りに置かれ、そこに腰掛ける影にも満月の光は降り注ぐ。
あれは。
与助が一歩前に踏み出すと、影は立ち上がり手をふった。頭の上で大きく。
与助の足からつかれが吹き飛ぶ。大股で坂を片づける。影がみるみる近くなる。
「おゆう」
肩で息をつきながら、細い手をとる。
「どうして」
「ここで待つようにと」
「誰がそんなことを」
「冴様が」
冴が……。薄くあいた与助の口は、息の出し入れしかしない。おゆうが言葉を継いだ。
「冴様はたいそうお強いのですね。見張り番をあっという間に殴り倒して、牢をあけてくれました」
固まったままで音を出さない夫に、妻はかすかに目元をゆるめた。
「屋敷を出ると、峠の茶屋であなたを待つようにと言い置いて、どこかに行ってしまいました」
「いつから待っていたんだ」
「まだ、幾分日の高いころからです」
鎮守の森で気を失っている間の出来事だ、と与助はようやく思い当たった。
「夜道で待つのは心細かっただろう」
「ええ、本当に。店主が幟を立てるから大丈夫だ、と冴様はおっしゃいました。でも、なんのことやら」
おゆうが笑いながら指さした幟には、「だんご」ではなく「冴」と大書きされていた。
「それにこれを。どこか遠くの町で商売でも始めろと」
おゆうが縁台に置いた風呂敷を解いた。あらわれたのは紫に染められた巾着。それも、ふたつ。どちらも、梨の実ほどの大きさだった。




