第一話 化け物退治 四
巾着に触れもせず、低い声が庄兵衛の勧めを切り捨てた。
「なにい」
「私が大狒狒を退治しても、お前の息子が倒したとするのだろう。息子の武名が上がることを思えば、この倍でも安い」
「倍だと。女、分をわきまえぬか」
「大狒狒成敗は、その盆暗には出来すぎた手がらだ」
蚯蚓よりも太い管が、伝一のこめかみに這った。
「俺を盆暗だと」
「大狒狒は気位が高い。二度も逆らわれたとなれば怒り狂い、お前の手足を引きちぎるだろう」
ふん、と鼻を鳴らし冴は続けた。
「敵わぬと尻尾を巻いて逃げれば、きっと村を打ち壊す」
「俺は逃げなどせん」
腰をうかせたわが子の肩を押さえ、庄兵衛は軽く顎を上げた。
「儂には妙案がある。またも大狒狒を仕損じた折は、村の娘全員を生け贄に差し出す。これで大狒狒の怒りは鎮まる。ふん。用心棒ごときに、儂の知恵の深さはわかるまい」
冴が眉をゆがめた。細まった瞼の間から、刃の光が漏れた。
「子を失う親の痛みを思わぬのか」
「そんなもの、俺の名を上げるためにはどうでも良い。虫けらどもの気持ちなど、塵も同然」
「うむ。伝一よ、よくぞ言った。それでこそ領主の器だ」
気がつけば、与助は着物の裾を固く握りしめていた。拳が小刻みにふるえる。
人の心を失った化け物め。
奥歯で憤りを噛み潰している最中に、伝一が胸を反らせた。
「たしかに、俺は大狒狒に一度はおくれを取ったかもしれん。だがな、地面にあの無双の怪力で叩きつけられても、骨ひとつ折れておらぬ。これがなにを意味するのかわかるか。俺は特別な男なのだ。常々、俺は龍神の生まれ変わりだと思っておる」
「お前が龍神のなにを知っているというのだ。たわけが。戯言は、自分よりも弱いやつの前でだけ吹くのだな」
「このアマ、先ほどから言わせておけば」
真っ赤に激した伝一が、刀を手に膝を起こした。
が、そこで止まった。伝一の目の前には、剣の先があった。
「私が手加減せねば、今ごろ、お前の頭は床に転がっておる」
切っ先で、伝一の頬に赤いすじを描いていく。片側だけを吊り上げた冴の口元から、白い歯が覗く。血が一滴、顎からしたたり落ちるのを見届け、冴は刀を収めた。
「庄兵衛。もうひと袋、持ってこい」
伝一は腰が抜け、庄兵衛は瘧に罹ったように、細かな頷きをくり返した。
家来が巾着をもうひとつ用意したころにようやく、庄兵衛は正気を取り戻した。恐れ戦慄いたことを塗りこめるため、尊大な口ぶりで新たな巾着を冴の前に投げつける。
「これだけの金を払うのだ。よもや仕損じることはあるまいな」
伝一も負けずに声を荒らげた。
「相手は俺の渾身の槍をはじき返した化け物だ。如何にお前の刀が速くても、通じんぞ」
「私が使うのは弓だ」
「ならば尚更。槍と矢では威力がまるで違う」
冴の瞳が、庄兵衛と伝一の間を幾度か行き来した。二人して、冴の視線を避けるために顔は横へとむけている。黒目を端へ寄せ、口を憎々しげにゆがめて。
「兜を用意しろ。私の矢が兜を貫き通さねば、金はいらん。ただで大狒狒を仕留めてやる」
「なに、本当か。おい、一番頑丈な兜を持ってこい」
庄兵衛が直ちに応じ、庭に台が据えられた。大狒狒退治の折に、伝一の被った兜がのる。
与助は、人からは見えぬよう頭を横にふった。兜は鉄の中でも、とりわけ硬いものが用いられると耳にした。しかも、兜の丸みは鏃を滑らせる。射通すなど、とても無理な話だ。
歩数にして三十ほど離れた場所で、冴は弓を構えた。
あらためて見る冴は手足が長く、土色と緑の衣服越しにも、腰と腹が締まりに締まっているとわかる。与助は恐れも忘れ、神々しいまでに鍛え抜かれた体に見惚れた。
曲がるとも思えなかった弓が、丸くたわんでいく。冴の細面に力みはない。だが、瞳と兜は鋼の線で結ばれている。与助には、冴の肩から赤く立ちのぼる炎が見えた。
バンと太い音が与助の鼓膜を叩いた。矢筈をはさんだ冴の指が開き、弦が空気を断った音だ。兜が地面と平行に飛ぶ。仰々しく飾られた前立が砕け散る。無様に割れ飛ぶ前立に、与助は領主親子を重ね合わせ、胸のすく思いだった。
鉢を抜けた矢は、遠く離れた白塗りの塀に土煙を上げて突き立った。居合わせた者たちは、口を丸くあけて動けない。
「大狒狒は祀り場で仕留める」
冴の声に庄兵衛はわれを取り戻した。小股で冴にすり寄る。
「あたかも伝一が倒したように、大狒狒を始末して欲しい」
頬に、小狡い笑みが張り付いていた。
「金さえもらえば、私はなんでも良い。槍を突く折に、おう、と大声を出せ。その拍子に合わせて矢を放つ。では」
「待て。儂らと一緒に行かんのか」
「日の高いうちに、やることがある」
与助は、冴が荷車から離れて護衛に当たることを思い出した。戦いを有利に進める位置取りなど、弓ならではの準備があるのだろう。大狒狒に矢を放つ前から、戦いは始まっている。
「与助、冴を祀り場に案内せよ」
冴を信用しきれていない庄兵衛は、与助を見張りとした。
町を抜け、山へと冴はむかう。縦にも横にも前後にも、定まった位置からまったく外れない背中に与助は黙って従った。早朝に初めて会い、なにもかもを打ち明けた時の言葉で、冴は祀り場までの道のりを頭に入れているようだった。
途中、鎮守の森にさしかかる。冴が足をとめた。首をよじり、鳥居の先に視線を送っている。髪が割れ、長く白い首に陽が当たる。
「必勝の祈願をする」
鬼神さながらの冴でも、願を掛けることが与助には意外だった。
お前も祈れ、と隣を指さされたため与助も頭を垂れた。大狒狒の成敗よりも、おゆうの無事をひたすらに願う。額の先に意識を集めていると、低い声が耳にもぐりこんだ。
「お前はこの先、なにがあっても祀り場へ行け」
庄兵衛のもとへ行く代わりに、村から去る約束をさせられた。次は、なにがあっても祀り場に行けと言う。勝手ばかり言う女だ。
何故と返そうと目をあけた途端、頭に一撃を食らった。
冴の右手には、抜き身の剣がある。柄の端で殴られたのだとわかった。掠れる視界の隅に、唇を笑みの形に曲げた冴が入った。
身を起こした時、ひとりだった。あたりを見回しても、殴り倒した男の目覚めを待つ女の姿はない。まさか、と思い与助は鳥居まで走った。通りを見渡す。西日が強く差すだけで、背の高い女はおろか人影が皆無だった。
逃げた。冴は逃げて消えた。
与助は頭を掻きむしる。目をつぶり爪を立て続けるうちに、髪のすき間からぽろりと、邪な思いが転げ落ちた。
おれも逃げるか。
しかしすぐ、おゆうの顔がうかぶ。
途方に暮れながらも、冴の言いつけを守ることにしたのは、もうなにも考える力が与助にはなかったからだ。祀り場にたどり着いた時には、陽は半分がた、山の裏に沈んでいた。




