第八話 老い武者 参
殺気に、彦蔵は強く揺さぶられた。すぐ傍に刺客がいる。刀を振り上げている。身をよじりながら目を開けた。
誰もいなかった。錯覚なのだが、殺気は消えずに彦蔵を刺激する。額にういた脂汗を手の甲で拭い、小屋の内を目でなぞる。薄明るさが、夜はめくれていると知らせる。
冴がいない。弓もない。
扉代わりの板戸をのけてすぐ。細かな針を含んだ風を浴び、思わず残された右目を閉じた。針はまたもや錯覚だ。彦蔵は恐る恐る瞼を上げた。
冴が弓を手にしていた。矢をつがえない素引きだった。弦を存分に引き絞っても、弓を支える左腕にはわずかなゆれもない。膝、腰、背中、首がすっきりと伸び、気息の充実は傍目にも明らか。常であれば、日の出前から鳴く秋の虫が沈黙を守っている。
昨日は雨が滲み、がらの失せていた衣服が色を取り戻していた。筒袖も野袴も、褪せた緑と土色が斑を描く。五十歳をとうに過ぎた彦蔵が、一度も目にしたことのないがらだった。
冴が右手の指が開いた。バンと太く短い音が彦蔵の耳を打つ。
見えぬ矢を射終えると、冴は弓をさげた。殺気が薄れる。彦蔵に気づいていたのだろう。視線を送り、会釈した。礼を返しながら、彦蔵は子供じみた感情を持った。
昨日、背負子と交換の形で弓を預けられた。手にした握りの部分は、十分に指のまわらぬ太さだった。力自慢の気負いが口をついて出た。
「儂もやってみて良いか」
弓を掴んだ腕が伸びてくる。折り曲げられた冴の指は、見るからに硬そうだ。彦蔵は玉に爪を掛けた龍の手を連想した。
黒の漆で仕上げられた弓は、触れただけではじけそうな張りがあった。昨日、手にした弓は弦が外されていた。命を絶つ道具として形を整えると、こうも変わるのか。彦蔵は朝の空に弓をかざし、眺めた。握り革に手垢の汚れがない。弓の作りにくらべて新しい。
「自分で革を巻いたのか」
「弓そのものにくらべれば、革など楽なものだ」
軽く弦を摘まみ、彦蔵は幾度となく浅い頷きをくり返した。当の本人のほかに、誰がこれを実際に引くと考えて作るだろうか。
「体つきに似合わず、器用だな」
年寄りの軽口に、切れの強い目元がかすかにゆるんだ。
彦蔵が弓を構えた。握り革は滑らかで手触りが良い。弦を引くと、大岩を括り付けたかの如く重かった。指先の肉を裂くように食いこみ、痛い。辛うじて右肘をたたんだが、留めが利かない。すぐに弦を離してしまう。
「いったい、どんな矢が放たれるのか。見てみたいものだ」
両掌に弓をのせ、捧げるように返した。
「子供が来る」
弓を受け取り、冴が細路へと睫をむける。彦蔵も冴に倣う。雨に洗われた木の葉が鮮やかさを増したほかは、いつもの景色だ。来るとしたら八郎だろうが、彦蔵にとって望まぬ客だった。
「すごい。彦蔵より大きい」
訪れる者が稀な山村だ。十歳の子供ともなれば、冴に興味を持つのも無理はなかった。
「弓を持ってるけど、侍なのか」
「流れ者だ」
「どうやって食ってる」
痩せて浅黒い八郎は、目がやけに大きく見える。その目は、他人への詮索の色を隠さない。
「よろず屋だ。金をもらいなんでもこなす。よくある勤めは用心棒だな」
用心棒と聞き、彦蔵は顔をしかめた。八郎は子供ながらに、話の流れを掴んだのだろう。目の色が期待に変わった。細い指を太い手首に巻きつけ、ふる。
「彦蔵。もういい加減にうんと言ってくれよ」
年寄りと子供の間では、すでに何度もくり返されたやり取りだった。
「断られたって村の人には言えない。お母がいびられてしまう」
狡いやつらだ。子供の中でも、とりわけ断りにくい者を使いにするとは。彦蔵は、八郎の顔の先に村人たちの姿を描いた。
「たしか、荷は今日出るんだったな。お前は残るんだろう」
話の矛先を変えてはぐらかそうとしたが、墓穴を掘った。
「いや、俺は行く」
「馬鹿、やめろ」
「このままで引っこんでられないよ」
「子供になにができる。お前も殺されるぞ」
「大丈夫だ。俺は行く」
八郎は口をへの字に曲げ、地べたに座りこんだ。
「強情なやつだ」
荒い溜め息混じりで言い捨て、腕を組んだ。彦蔵の暫しの沈黙を了解の合図と取るのは、八郎の図々しさだった。
「やってくれるんだな」
「槍を持って付き添うだけだ。賊が出たらすぐにお前を担いで逃げる」
「俺はお父の仇を討つ。邪魔しないでくれ」
再開された押し問答に、彦蔵は苦く笑った。ふと、傍らに立つ背の高い女へと目を遣る。
「冴がやってくれんか。慣れておるだろ。年貢米を守る仕事だ」
「お代がいるぞ」
「ない。儂に金などない」
彦蔵は冴が受けるとは微塵も思っておらず、戯れで言葉を投げただけだった。
「では」
浅いが丁寧な辞儀だった。山の細路へと、冴がつま先をむける。荒れた道を踏み、遠ざかる。背中が縦にも横にもゆれない。緑と土色が斑を成す服は、高い背を山の中であいまいにする。冴が景色に溶けるまで、彦蔵は木々の合間に目を凝らした。
杖代わりの槍をつき、足を引き摺りながら彦蔵が庄屋の館に到着すると、荷造りはあらかた終わっていた。俵に詰めた米が、荷馬車の台に幾段も積み上げられている。村人たちが冬の貯えを犠牲にした米だった。
「なんの用だ。この落ち武者風情が」
庄屋の利兵衛が地に唾を吐く。
「荷に付き添おうと思うて」
彦蔵の言葉にはなにも返さず、利兵衛は群れる村人へと顔をむけた。
「こんなやつを連れてでは、荷が遅くなるだけだ」
「途中でまた、野盗に襲われるといけませんので」
村の男のひそめた声に、利兵衛は目を剥いた。
「先般、年貢を奪われたのはお前らのせいだ。儂が当主となってすぐ賊に出くわすなど、日ごろの行いが悪いからに決まっておる」
自分で仕組んだことは棚に上げ、利兵衛は怒鳴り続けた。
「またもやしくじったなら、今度は女房や子を売れ」
唾を激しく飛ばしながら男衆の尻を蹴る。馬の横づらには拳を打ちこみ急きたてる。




