第八話 老い武者 弐
冴が弓のところどころを太股に当て、両手で押している。曲がりの調子を整え終えると、矢に手を伸ばした。矢柄を両掌ではさみ、錐のように揉む。矢羽根から水滴がはじけ飛ぶ。
「道具の扱いが丁寧だな」
「濡れたまま放っておくと、いざという時に外すおそれがある。このあたりは馴染みが薄く、道具を預ける先がなかった」
弓や矢から水を切るわけは彦蔵にもわかる。若い時分は合戦に明け暮れていたのだ。だが、預ける先とはなんだ。無言で鍋を掻きまわした。味噌の匂いに唾が湧く。
「ところで彦蔵よ」
冴の声には幾分の軽さがあった。
「どうして背負子を道端に置いていかなかったのだ。薪を持ち去る者などおらんだろう」
ふっと冴の口元に笑みがういた。眉の角度がなだらかに変わる。終始、上がり眉で殺気を放っていた冴の顔に、かつて見た恩人の面ざしを彦蔵は重ねた。
同じだ。混乱の波に揉まれながらも、彦蔵の口は問いに答えを返していた。
「はは、気づかなんだ。儂の悪い癖だ。自分の大力ならできぬことはないと思いこみ、無理をする。若いころの戦も、この癖のせいで散々だ」
「足と目か」
首のふりで肯定し、彦蔵は椀に汁をよそった。
「つまらん飯だが食うてくれ」
冴は頭を浅くさげ、彦蔵のむかいで尻を地につけた。右膝を立てている。刀は寝かせた左の膝の横に置く。冴の身に、尖る気配はない。椀に口をつけ、音を殺して汁をすすっている。
「何故、儂に手を貸してくれたのだ」
「見るに見かねて」
「親切だな」
怖い顔をしているが、と余計なことを足しそうになり、彦蔵は慌てて口を結んだ。
見れば見るほど、似ていた。逃げて隠れる暮らしの中では、月日の流れが朧になる。それでも、黒かった髷はもう、半分がた白いのだ。あの女と冴が同じ人物であるはずがない。
迷いを断つため、彦蔵は訊いた。
「冴。儂に会うのは初めてか」
上瞼越しに彦蔵の顔を一瞥し、冴は顎を縦に動かす。
「いやな。冴にそっくりな女を見たことがあっての」
言うなり、彦蔵はのけぞる破目となった。自身の夢想を半ば笑う気持ちで出した言葉に、冴が大きく身を乗り出したためだ。
「いつだ」
声が強い。
「あ、いや、儂が最後の戦に出た時だ。二十年ほど経っておろう」
「詳しく話してくれ」
あれを、ここで出せるのか。
彦蔵は胸に拳を当てた。死ぬ前に放ちたいとは思っていたが、諦めていた。目の前に座るのは、命の恩人に瓜二つの女だ。願ってもない相手ではないか。
「里の者以外と口を利くのは、この小屋に逃げこんでから初めてだ。年寄りの口数をどうか勘弁して欲しい」
切れ長の目は、しきりにまばたきをくり返す。真っ直ぐに彦蔵を射抜き、早く話を、と急かしているように見えた。
「戦で太股をやられた時のことだ。流れ出る血が多くてな。手で押さえても止まらんかった」
冴の視線を正面から受け止めていたのでは、言葉に詰まる。彦蔵は囲炉裏の火を相手に語った。
「戦が終わり、骸と半死半生の男たちが残された地で、信じられんものを見た」
無言だが、冴からは「なんだ」と問う風を感じる。
「白衣に緋袴、薙刀を持った巫女が膝を折り、仰向けに倒れた兵の死骸に顔を寄せておった」
冴が大きく息を吸うのがわかった。薪がぱちりとはじける。
「頭を横にふり、立った。次は木の幹に背を預けた男だ。はみ出したはらわたが、儂の目にも入った。巫女は滑るように歩き、通り過ぎざまに男の首を落としよった。薙刀をふったのだ」
彦蔵は今でも、光の円を描いた刃の走りを覚えている。
「この世のものとは思えなんだ。血に濡れた薙刀を両手で提げる姿は夜叉に見えた。陽が山の裏に隠れたばかりで、女の顔がよく見えた。切れ長の目が、夕暮れの中で光っておる。その目が儂に据えられた。次は儂だ。怖くての。ふるえたわ」
彦蔵は汁を飲み干し、椀を置く。火箸で赤く燃える炭をならした。
「血を失って死ぬのも、女に殺されるのも同じだと諦めたら、なんと血止めをしてくれるではないか。怖かった目には儂を助けようとする懸命さがあってな。知らぬ人の親切に涙が出た」
話している今この時も、彦蔵の目頭は熱い。
「後に思ったことだが、助からん者は苦しみが長引かぬよう、殺しておったんだな。嫌な役目だろうに。あの時は夜叉に見えたが、じつは慈悲深い天女だったのだ」
話は終わり、彦蔵は冴に目を戻した。冴は顔を伏せ、動かない。湯気の失せた椀が尻の横に置かれていた。
「人違いで冴には無縁のことだが、似た者として代わりに礼を受け取ってくれ。あの折は助かった。かたじけない」
彦蔵は深く頭をさげ、冴は眉をゆるめて礼を返す。一拍後、冴が冷えた汁を椀の内でくるりとまわし、口へと流しこんだ。
封じた風景と思いを語り、胸の内に空きができた。彦蔵は元来の無口の捨て、巫女の占めていた場所を会話で埋めようとした。これがこの先、大きな安堵を招くとは当然に知らない。
「ところで、冴は戦に出たことはあるのか」
「ない。ただ、高台からよく見物した」
「自分を高く売れそうな軍勢を探してか」
「探したのは、笹龍胆に流水の幟だ」
「なんだその、笹龍胆に流水とは」
「父の使っていた紋だ」
「あったのか」
いや、と首が横にふられた。
「すでに散り、亡き者となったのだろう。命を的に功名を目指す。私にはわからんことだ」
「あの強弓は使えるのだろう」
この問いには首が縦に動く。
「惜しいの。合戦で目覚ましい働きができただろうに」
「人の世で名を上げることに興味はない」
「そうか。じつに惜しい。いや、そのほうが良い。自らの丈を顧みなんだ儂なんぞ、この様だ」
黒の眼帯を指先で押さえ、右の太股を叩いて鳴らす。
「初めから、ひっそりと暮らしておけば良かったのだ。元はといえば、山間の貧しい村の三男坊だからの」
「やり直したいか」
「できるものなら。だが、この先どんな身の振り方があると言うのだ。儂に残された道は、追手から隠れて生きるだけだ」
「恨みを買っているのか」
「儂の入った軍がな、結んだ盟を破り、天下を狙う激烈なおかたに謀反を起こしたのだ。儂はただの槍足軽。相手は音に聞こえた荒大名だ。儂ごとき木っ端武者でも、草の根を分けて探し出す気がしてならんのだ」
「彦蔵よ。良いことを教えてやろう。その荒くれ大名はすでに死んでおる。腹心の家来の謀反にあってな」
「まことか」
「私が嘘をついてなんになる」
切れ長の目は、曲がりのない光を湛えている。
彦蔵は腹の底から息を吐いた。体がしぼみ、両肩に据わり続けた荷が落ちる。この場で倒れこみそうになる身を、支えるのも面倒なほどの安堵だった。
「済まん」
手刀で空気を小刻みに切り、横になる。瞼を閉じ、かつて見た巫女の顔を思い出す。今しがたまで話をしていた冴と、目や鼻、顔の輪郭を重ねるうちに、瞼はとろけるように温くなり、彦蔵は意識を手放した。




