第八話 老い武者 壱
雲が黒く色を変えた時から、彦蔵にはわかっていた。
しかし、これほどとは。
ふうう。落とした息には、空の色に負けぬ重みがあった。
滑る草鞋から視線を外し、雲の底を見上げる。どううと鳴る激しい雨は夕立を思わせる。とうに夏はすぎ、すでに稲刈りを終えているのに。
また稲光が走った。水の矢は木々の間を抜け、顎や頬の骨がせり出した彦蔵の顔を次々に射る。ひとつが右瞼に当たった。すぐに顔を伏せた。左の目は黒の眼帯で覆われているため、雨の難を免れる。
ただでさえ足元の悪い山の細道だ。右足の利かぬ彦蔵にとって、強い雨は尚更。杖代わりの仕込み槍も、ぬかるみに負けている。一歩毎に、牛に似た巨体がはっきりと左右にゆれた。
背負子に積んだ薪も大きくゆれる。縄できつく縛ったとはいえ、腿ほどもある太さでは如何にも据わりが悪い。頭を超えるほどに高く積んだことを彦蔵が後悔してすぐ、地表に張り出した木の根に利かぬ右足をとらわれた。
腕を地に伸ばす。痛みに備え歯を食いしばる。が、止まった。泥にまみれるはずの掌が、宙にういている。
「代わろう。膝をつけ」
背後から声が掛かった。彦蔵は膝を折る。ずしりと背を責めるはずの重みがない。
「肩紐から腕を抜け」
雨の間を縫った声に彦蔵は混乱した。
低いが、濁りがない。深い山の中、しかも大雨である。女が出歩くとは思えない。肩から重みが失せているのも解せなかった。山のように積んだ薪は、大人二人分ほどの目方がある。
背負子から解放され、彦蔵は振り返った。おお、とうめきを漏らす。天を衝くような長身が、片手で荷を吊り下げていた。銭を入れた巾着を摘まむように。
雲と雨、木立ちに光を奪われ顔は見えない。肩で断ち切った垂れ髪は水を吸い、縄暖簾のように頭を囲む。丸く形の良い小ぶりな頭だ。その頭をはるかに超える、なだらかに曲がった棒を携えていた。弓だと彦蔵は見抜いた。
雨がざんざと木の葉を鳴らす。弓を持った影は、降りつける滴を気にするふうもなく立ち続ける。雨の深く沁みた筒袖の上衣、脚絆で脛をしぼった野袴は沈んだ色合いに化け、もとのがらはわからない。腕や太股に張り付いた布地には、男にはないしなやかな線が見て取れた。
「そなた、おなごか」
「ああ。名は冴だ」
冴は背負子を地におろした。担ぎ直そうとにじり寄る彦蔵にひと言。
「これを持ってくれ」
彦蔵には、冴の手が突然、胸元に出現したかに思えた。冴がどう動いたのか、まったくわからない。もし、刀を手にしていたなら、容易く刺されていた。が、刀は腰にあり、代わりに長大な弓が握られている。
「なんという厚み。まるで棍棒だ」
「背負子は私が担ぐ」
彦蔵の問いには答えず、冴は細面を薪の小山にむける。
「重いぞ。おなごには無理だ」
言ってすぐ、背負子を巾着のように摘まみ上げていた姿を思い出した。
「御老体よ。その足では難儀だろう」
光が弱く、彦蔵に冴の顔は見えない。が、冴には見えているようだ。白髪の勝った細い髷や顔の皺をつぶさに見る気配がある。
「はは。御老体ときたか」
笑うと、岩のような顔に愛嬌が混じった。
「彦蔵。儂の名は彦蔵だ。年はとっても力は衰えておらん」
「隻眼にこの雨では遠近が取れぬ。遠慮するな」
冴は小袖に腕を通すような手軽さで、荷を背にまわした。
「どこに行くのだ。案内してくれ」
牛のような大男と、その大男の髷を見おろす背丈の女が、獣道さながらの細路を踏む。
背負子を預けたため体のゆれは収まったが、彦蔵の胸の内はゆれた。背後を取られていることに加え、大荷物を背負い、山道を歩いているにもかかわらず、冴からはひと筋の息遣いも感じられない。なにを考えているかに至っては、皆目見当がつかない。冴が追手とは思えぬが、早く別れたかった。
小屋に着いた。ともすれば、木と木の間にまぎれ、在り処がわからなくなるほど山に馴染んだ小屋だ。古い社に彦蔵が手を加え、炭焼き小屋としてから、かれこれ五年が経つ。
出入り口は戸板を立て掛けただけ。張り出した木の枝に守られ、傾いだ屋根は雨に痛めつけられずに済んでいた。
冴が荷を下ろし、では、と立ち去りかけた刹那。天と地を雷が結ぶ。白くはじけた光に、冴の顔がうかび上がる。彦蔵の右目が大きく開かれた。
どういうことだ。
小刻みに頭をふり、迷いを払おうとする。だが、稲光にうかんだ切れ長の目が瞼の裏から離れない。
「冴よ、雨宿りしてくれ」
早く遠ざけたかったはずの女を呼び留めていた。
どうしても訊きたいことが生じたのだ。
戸板をずらすと、湿った土のにおいが彦蔵の顔を包んだ。床板はなく、踏み固めた土の上に藁を敷いただけなのだから、当然のにおいだった。右の足を引き摺り、中央の囲炉裏へとむかう。四角い木枠に掌をつき、彦蔵は火を起こした。味噌を溶いた汁を温め、干し飯を入れる。
「秋の雨は体が冷える。こっちに来てあたれや。粗末だが飯もある」
冴は小屋の隅で弓についた滴を払っている。
「若い女とひとつ屋根の下になったからと、変なことはせん。まあ、冴に手を出す男はおらんと思うが」
冴が首をよじり、彦蔵を見詰める。上がりのきつい眉が険しさを増している。
「おい、怒るな。醜女だと言うておるのではない。怖いのだよ、冴は」
「ならば、避ければよかろう」
冴の声に機嫌を損ねたふうはない。彦蔵はそっと息を吐いた。
何故、慣れぬ軽口を叩いたのか。鍋の中に答えを探す。汁は早くも、湯気をたてていた。
「怖いが、気になって仕方がないのだ。そうだな、刀だ。触れると切れるだけでは済まず、指ごと落ちてしまいそうな刀。そういう刀は、怖いが見ていたい代物だ」
そうか、と冴は短く返し、懐から薄い包みを取り出した。油紙でくるんだ弦だった。片側を弓に掛ける。残る側の端を唇ではさんだ。弓の先を小屋の壁に押し当て、曲げる。長い手足が流れるように動き、淡々と作業をこなしていく。やがて冴は桜色の唇を開く。
あの弓に、軽々と弦を張るとは。彦蔵は、冴の剛力にあらためて舌を巻いた。




