第七話 巡合 拾弐
長い上り坂がゆるく左に曲がっている。行く先を覆い隠していた木々は枝葉の重なりを控え、歩むにつれ視界が新たになる。
「ねえ、あそこ」
みよが指さす先に石段があった。伊助も、暫く前に気づいていた。
「法天寺だ」
冴が短く告げた。のぼり口から見上げても、石段は木々に呑みこまれ、どこまで続いているのかわからない。冴が膝を折り、みよの足を地につけた。
「この石段を二人で上がれ」
しゃがんだ冴と伊助の顔が同じ高さになる。
「あれ、冴は行かないの」
切れ長の目と、視線の糸が重なった。澄んだ瞳に、伊助は吸いこまれそうになる。
「私は怒られるからやめておく」
「どうして怒られるの」
「礼も述べずに寺を出ていったからな。私のことよりも」
冴は言葉を切り、懐から木箱を取り出した。
「これを持って行け。寺の誰でもよい。点空様に渡してくれと頼め」
伊助の掌にすっぽりと収まるほどの木箱には、黒い光沢があった。漆塗りのようだ。金箔で紋が押されている。
「きれい。姉たん、これなに」
「中に金創の膏薬が入っている」
「えっと、中身じゃなくてこの金色の、花と川みたいな絵のこと」
「私の紋だ。笹龍胆に流水。これを渡せば、私からの頼みだと伝わる」
「ねえ、点空様って誰なの」
「私の師匠だ。もう亡くなっているかもしれないがな」
「どうして自分で渡さないの」
「だから、怒られるのは嫌なんだって」
冴が小さく笑った。これまでも何度か冴の笑みを目にしたが、今の笑みはどれとも違う、と伊助は感じた。男をはるかにしのぐ体格を持ち、剣の腕前は達人の域に達している。そのうえ、賊を斬り殺しても眉ひとつ動かさない冷酷さ。だのに、子供のような笑みをうかべたのだ。
ああ、とみよが素っ頓狂な声をあげ、手を叩いた。
「わかった。わかったよ、姉たん」
「なにがだ」
「追い剥ぎの時、どうして姉たんが大丈夫って思ったか。あのね、すごく怖い人だけど、怖いのよりも、もっともっと優しいって気がしたの」
「そうか」
冴が、またみよの頭を撫でる。掌が髪の上を幾度も滑る。その間、冴はずっと目を細め、口元に笑みを湛えていた。
「じゃあ、達者でな」
今までみよを撫でていた掌が、伊助の肩に置かれた。ぐっと指が曲がる。伊助は、顎を大きく縦にふった。
冴が立ちあがる。天へと真っ直ぐに昇る煙のような、詰まりの見えぬ動きだった。冴は来た道を帰らず、坂をのぼる。滑るように山道を進んでいく。
強そうな、いや、心底強い背中を伊助は眼裏に焼きつけようと凝視する。遠ざかる後ろ姿は、体の軸が縦にも横にもゆれない。
みよが大丈夫と言ったので、冴から金子を奪おうとした。あの時は、怖くて仕方のなかった背中が、今ではしがみつきたいほどに頼もしい。蚊に手酷く食われた時、照れずに負ぶわれておけば良かった。せめてもう一度顔を見たい。冴は、振り返ることなく道の果てに消えた。
長い石段の終わりには、それだけで一軒の屋敷かと思うような、大きな山門が待ち受けていた。門をくぐり伊助は途方に暮れる。広い。木々が茂り、道が伸び、池がある。妹の手を握り、堂や蔵、五重塔など、そこかしこに点在する建物に目を移す。
「兄たん、あの人に」
みよが墨染の僧衣を指さした。境内の中央へと伸びる道のわきを、箒で清めている。五十歩ほども離れているが、二人には気づいているようだ。わざと顔をそむけているかに見える。
みよが選んだ人なら。伊助は妹の手を引き、前に出る。
「あの」
伊助の細い呼び掛けに、僧侶はしぶしぶの態で顔を上げた。目鼻立ちの若い男だった。
「ここに住まわせてください」
伊助が言い終わると直ちに、首が横にふられた。
「ならん。お前たちも戦でか」
きりがないのだ、と無表情でつけ足された。ところが、だ。
「これを」
冴から持たされた小箱を手渡すと、若い僧の顔が変わった。
「どこでこれを」
「点空様に渡してください」
「よ、よし。待っていなさい」
打って変わる、とはこのことだ。先ほどはにべもなく断りを入れた僧侶が、境内奥へと急ぐ。みよが伊助へと手を伸ばす。幼い手を握ってからほどなく、小がらな年寄りを中心に、幾人もの男たちが伊助とみよを囲んだ。使いに走った僧侶とくらべ、皆、肩や胸の厚みが違う。
「お主ら、これをどこで」
若僧と同じことを、眉の白く伸びた老僧が問う。身のこなしが如何にも軽そうな、どこか猿に似た印象を受ける年寄りだった。伊助と背丈がそう変わらない。
「冴が、点空様に渡せと」
うおおう。いかつい僧兵たちが一斉に声をあげ、伊助と小箱の間に何度も目を行き来させた。
「おい、聞いたか」
老僧が肩を寄せ合う僧たちを見回す。ちらほらと「冴」と名を呼ぶ声がする。
「冴が儂を点空様と言いよった。いつも爺さんと呼んでおったのにな」
「ああ、本当だ」とまた、ちらほらと声があがる。
「儂が点空だ。何故、冴はここにおらんのだ」
「怒られるって。お礼を言わないで出ていったから」
ぶわはははは。小さな体からどうやって、と思うほどの大声を点空は放った。
「礼はもう受け取っておる。薬を山のように作り置いていってくれた。坐創、金創、腹下し。ほかにもいろいろ」
点空が目を閉じた。木箱の紋を、枯れた指でゆっくりと撫でている。
「調合の方法まで、細かく書いてくれて。済まなんだな。案外に整った字を書くので、驚いたぞ」
伸びた眉に覆われた瞼が、細かくふるえている。
「会いたかったの」
息で掠れた声をこぼし、伊助へと目をむける。
「少しは冴と稽古をしたか」
「はい。剣の振り方を」
「じゃあ、お主は冴の弟子なんだな。こんどは儂が槍を仕込んでやろう」
「俺に天稟はないです」
「よくそういう言葉を知っとるの」
「冴が言ってました。あと、俺は武芸者に向いてない、とも」
伊助は隣で立つ妹に目を遣った。まだ手を繋いでいる。
「負けて死んで、みよが悲しむのも嫌だし」
ふふ、と点空は口の中で笑う。
「たしかに、お主は武芸の道を歩むには、ちと優しすぎるな」
「姉たんも優しかったよ。あたしをずっと抱っこしてくれたの」
「ねえたん、とは冴のことか」
うん、と無邪気に頷くみよに、点空は顔中に笑みを広げた。
「そうかそうか。冴はこんな小さな子に慕われるのか。良かった。本当に良かった」
「点空様、俺、坊主になりたいんです。困ってる人を助けることができる坊主に」
「ではまず、生き延びて大人にならんとな」
冴にも同じことを言われた、と伊助は思い出す。
「あたしも坊主になる」
よくわかっていないだろうに。兄と同じ道を進みたがる妹が、伊助は無性に可愛らしかった。点空がみよの頭を撫でながら言って聞かす。
「あのな、女がずっとここにおるとなると、ちと無理が生じるのだ」
「あたしは坊主になれないの」
「なれるぞ。ただ女だから坊主でなく尼だな」
「あま……、なにが甘いの」
短い垂れ髪を傾けるみよに、居合わせた僧たち皆が声を揃えて笑った。




