第七話 巡合 九
朝餉を済ませ、冴は今、自室の中央で蹲っている。開け放った明かり障子の向こうには、境内が広がる。朝の清々しい空気が、文机ひとつない板の間をひたす。
冴は右手に握った至極短い棒へと力を送っている。背にした襖がするりとあいた。
「お主、夜にどこへ行っとるのだ」
寺を無断で出ることは禁じられてはいない。点空が問い質すのは、不穏な予感を抱いていたためだった。
「法天坊」
冴の背中から、素っ気ない返事があった。点空は、音がでぬよう安堵の息を吐く。冴は背を丸め、一心に右手を小さく円の形に動かし続ける。
「なんと。お山の頂上まで行っとるのか。なにをしとるんだ」
「祠の前で槍をふる。殺気を封じず、気勢もあげる」
「もしかして、儂が本堂の陰で見とるのは勘づいとったか」
「寺の内側でやると、皆の眠りの妨げになるかもしれん」
気づいていたとも、知らなかったとも言わない。ただ、冴の声には、老僧の行いに驚きや不快を感じている様子はなかった。
「殺気含みでも、舞いになるのか」
「最近ようやく、力の詰まりが消えた。本堂前と、おそらく動きは変わらない」
「この寺で槍を教えた大天狗も、夜毎に強い殺気を浴びて参っとるだろうな」
「そのせいか、祠から一度も出てきてくれん。稽古相手になって欲しいのに」
冴が戯言とは珍しい。点空は笑った。
たんぽ槍を手に二人一組で自由に打ち合う乱稽古において、法天寺で冴に敵う者は今やひとりもいない。冴を突けば苦もなくかわされ、同時に打ちこまれる。攻めなければ、それはそれで打ちこまれる。なにをやっても手玉に取られるのだ。手練れが集まり、槍の名門として法天寺は天下に名を馳せている。その中でも、冴は別格の腕前だった。
「いやあ、ひとりで野盗狩りでもしておるのかと心配しておったわい」
点空が声を軽くしても冴は背中をむけたままだ。両足の裏ではさんだ鉢に、すりこ木を押し当てている。
「で、お主はさっきからなにをしておるんだ」
「膏薬の元を練っている」
「効くのか」
冴は手をとめ、尻を支点にくるりとまわる。親指と人さし指で摘まむように口のまわりを撫でた。
「こんな感じだな」
荒れ寺での一戦を、点空は忘れられない。刃を噛み割り、戦う意志を失わなかった冴に、心底敵わぬと思ったものだ。冴はの両端を深く切っていた。それが跡形もなく治っている。
「そうか、そんなに効くのか。ちょっと儂にもくれ。最近、指先のささくれがひどくての」
冴が首を横にふる。
「なんだ、気前が悪いのお」
点空は口を横に伸ばし、声を出さずに笑った。もとより、薬は製法を家伝として外にはもらさず、出来上がりの品も人には与えぬものだと知っているのだ。
寺に来たばかりのころ、冴はろくに口もきかなかった。それが今では、言葉数は少なくとも戯言混じりで話ができる。冴の心の開き具合に、点空は笑ったのだった。
「血まみれの掌でよく稽古が続くな、と思っておったがこんな秘密があったのか。冴は薬草のことをたくさん知っておるの。儂らにはない知恵だ」
「母様から教わった」
そうか、と短く返し、点空は室内に目を配った。冴は感情を面に出さない。だが、母を語る時だけは、目や頬に翳が差すのだった。話題を変えねば、と気をまわす年寄りの視界に強弓がまず入る。部屋の隅に立て掛けられている。ほかになにか、と点空は視線を移す。冴の部屋は極端に物が少ない。暮らしの垢がなく、いつでも出ていけそうな片づき具合だ。弓の下に小箱が積まれている。
冴が、あっと口を薄くあけた時にはもう、点空は小箱を掌にのせていた。
「これは冴の紋か」
蓋に墨で描かれた文様へと、白い眉を近づけた。
「父様が使っていたらしい」
「冴の父様ともなれば、さぞかし強かったのだろうな」
「知らん。生まれた時には、もういなかった」
う、と点空の喉が詰まったのは寸時のことで、素早く話題を転じた。
「笹龍胆に流水。龍の胆に流れる水か。龍に水。まるで龍神だな」
冴が黙ってまばたきをくり返すのは、話の続きを待っているしるしだと老僧は知っている。
「お主が山寺で暴れておった時、鬼だと言う者がおった。ひょっとすると、冴は鬼ではなく龍神なのかもな」
黒い瞳がぎょろりと動き点空を見据える。殺気が消されていたとしても、常人ならば耐えがたい緊張に襲われる冴の眼光を、点空は正面から受けとめ微笑みで返す。
「儂は冴が龍神だとしても驚かんよ。石火の速さに途轍もない剛力。寝ずの稽古でもくたばらぬ精力。人とは思えぬ命の力だ」
でもまあ、と点空はひとつ区切り、咳払いを入れた。
「冴が人であろうとなかろうと、いっこうに構わん。人にあらずとも、人の心のない人でなしではないのだからの」
「褒めても薬は使わせない」
ぶわはははは。口を大きくあけて笑い、木箱を冴に返した。立て掛けられた弓を持ち、弦を摘まんでは離しをくり返す。
「まるで棍棒だな。弦は自分で編んだのか」
うん、と素直に垂れ髪が縦にゆれる。
「存外に器用だな」
「そうかな。なんでも自分たちで作ってきたから、たいがいの物は作れる」
点空の勧めで矢を実際に射る運びとなった。見物の僧兵たちが境内に集まる。冴の夜稽古を知らぬ僧たちは、法天寺随一の遣い手が弓を引くことに興味津々だった。
冴は地を踏みしめ、的へと顔をむける。左手には弓。右手には矢をあてがった弦。長い腕を静かに頭上へと差し上げると、囁きを交わしていた男たちの口が結ばれた。
的は木の幹に小柄で張り付けた四つ折りの白手拭い。人の顔ほどの大きさだ。距離が異常だった。百歩離れて当てれば名人とされるのが弓である。初めて矢を放つ冴が選んだのは、その百歩。的は白い点にしか見えない。
左右の手がゆっくりと下がり、棍棒のような弓がきれいに丸くたわんでいく。肩からも背中からも熱気が噴き出す。点空は、冴の身から天へと真っ直ぐに立ち昇る一本の炎を見た。
矢筈から指が離れる。どんと低く重みのある響きは、弦が空気を切る音だ。矢は的の中央に深々と刺さっていた。
「いやはや。槍以上にお主に向いているものがあるとは。天稟とは、冴のためにある言葉だな」
男たちの驚きを点空が代表して述べたところ、冴は二度三度と瞳を左右に動かした。
「皆に、折り入っての願いがある」
生真面目な顔で短く告げ、頭をさげた。肩で切り揃えた垂れ髪がゆれる。
「私を、野盗狩りの仲間に入れて欲しい」
法天寺の僧兵が、折々に野盗退治へと繰り出すのは、寺領の治安を守るためであった。
誰もが、この寺で最も強い者は冴であると認めている。しかし、冴を野盗狩りの一員とすることに、僧兵たちは戸惑いの色を隠せなかった。純粋に強さを求め、人一倍稽古に励む冴には、荒んだ戦いは不似合いだと感じていたのだ。法天寺と冴の出会いが古寺での殺戮だと思えば、おかしな心境だった。




