第七話 巡合 八
「冴、重いだろ。代わるよ」
左腕一本で冴は幼い体を抱き、歩む。みよは高い肩に顔を埋め、目をあけない。冴の肩口には、汗染みが広がっていた。
「寺では力仕事をよく任された。二尺ほどの釣鐘ならひとりで運んだ。みよぐらいは、重さのうちに入らない。気にするな」
たしかに。歩き出したころは斜めに頬を差した陽が、今では頭のてっぺんに熱を注いでいる。それなりの時が過ぎてはいたが、冴の体の軸は、右にも左にも、前にも後ろにも傾いでいない。
「法天寺では、武芸の稽古のほかにもすることがあるの」
「幾らでもある。今の時期なら、草むしりを毎日しても間に合わない」
みよを起こさないためだろう。控えめな低い声が伊助に降り掛かる。
「朝は水汲み。薪を割り、飯を炊き、片づける。宿房の掃除はもちろん、僧房、本堂、道場、東西南北の大門、鐘楼。もう、どれだけあるかわからないほどの場所を箒で掃き、襤褸布で拭く。すべてが坊主になるための修業だ」
話しながら歩いている間も、一本の線で天から吊られたかのように、冴の背筋は伸びている。硬い棒ではなく、しなる準備のできた若木にも似た伸び方だ。
「読経や写経に精を出す者もいる」
「槍はいつ稽古するの」
「経典に触れる時間を削り、殺生の腕前を上げるのが僧兵だ」
冴の腕前は、短刀を折られたことで十分にわかっているつもりだ。あの時、突風のような殺気を浴び、死を覚悟した。今、みよを抱える冴からは、物騒な気配は感じられない。死の覚悟どころか、冴と話すと足の運びが軽くなる。
「冴は武芸でなにが得意なの。やっぱり刀が一番かな」
如何に敵が達者でも、あの神速に勝てるとは思えない。が、冴の答えは伊助の予想を外す。
「弓、槍、剣の順だな。組打ちや印地は余技としてこなす」
「いんじってなに」
「石を投げることだ」
「そんなにたくさん、どうやって身につけたの」
「どれも要諦は同じだ。余計な詰まりを作らない」
理解が及ばず、伊助は痩せた首を傾げた。
「私も詰まりを取り除くのには苦労した。力を抜き、力を流す。んー、なにを言っているかわからないな、これでは」
行く先に据えられていた冴の顔が伊助へとむく。目に少し笑みがあるのは気のせいだろうか。
「難しいことはともかく、実際に戦う時は、胆。気合いだとか気組みだとか、いろいろと言われる気持ちだ。怯えて手足が縮こまるようでは、話にならん」
「どうすれば胆が据わるの」
「成し遂げたいなにかを持つ。戦で功を立て、名を上げる。一国一城の主を目指す。名誉や欲、なんでも良い。心をしっかりと持つ者は強い」
伊助が兵法者を目指す理由はただひとつ。
「父ちゃんや母ちゃんの仇を討つためでもいいかな」
武功や領地の獲得にくらべると、あまりにもささやかな目的だ。冴の目に含まれた笑みに、嘲りがまじりはしないかと浅く唇をかんだ。ところが。
「なにが力の元でも良い。鍛え、強くなり、生き延びるんだ」
冴の声には温度があった。聞く者の心に、同じ色の火が灯るような。熱い意気に、伊助の体はふるえた。
*
法天寺にまた夏が来た。冴が古寺で暴れ、点空と一戦交えたのは一年前の出来事となった。
円月に真上から照らされ、冴は今、ひとり槍を振るう。本身の十文字槍が、夜に銀の線を引く。白の小石が敷かれた本堂前での稽古を冴は好んだ。墨染の僧衣と、地に伸びた影が動きを同じくする。冴は気勢を発せず、僧房は寝息で満たされている。小石の上を足裏が滑る音に、夏の虫が合わせて鳴く。
視線の先に母を思い描き、冴は槍を繰り出す。ひらり。白衣が風を受けた木の葉のように、槍先をかわした。白衣に緋袴。母はいつも巫女のなりだった。法天寺に身を寄せるまで、冴も白衣に緋袴。屠った野盗どもの返り血を浴び、色は変わってしまったが、母と同じ装いは捨て難かったのだ。寺に血染めの衣装は似つかわしくないとなり、何度も洗った。結局はもとの色に戻らず、焼いて灰にした。母によく手入れをしてもらった髪を切り、次に服を手放す。少しずつ、思い出を削った。
それでも、眼裏に残る母の面影は鮮明だ。心の平らかさそのままの、なだらかな眉。切れ長の目は涼やかで、唇はいつもほど良くほころんでいた。
今も冴の攻めを、微笑みを消さずにいなす。ひらり、ひらりと巫女装束が遠ざかる。ふと半身となった巫女は体の回転にのせ、娘の首を薙ぎに来る。冴はしなやかに胸を反らせ、刃を素通りさせた。通り抜けた穂先に連なるように、冴が前に出る。母の幻影を相手に稽古する。冴の頬にも、小さな笑みがういていた。
長い手足は留まることなく動き続ける。どこにもつかえのない滑らかな動きは、まるで舞いだった。優美で、激しさとは無縁の舞い。しかし、腕に覚えのある者が目にすれば、知らずに背筋が伸び、拳となった手指の内に汗を握るだろう。武芸に関わりのない虫は鳴き続ける。
影が止まり、舞いの終わりを告げた。東の空はまだ暗い。山の稜線からまたたく星の帯、天の川が立ちあがっている。
十文字槍を弓に持ち替えた。蔵から見つけ出した破魔弓だ。こんなものを人が引けるのか、と目を疑う厚みが弓にはあった。拵えは本物で、ひょっとすると法天寺で大天狗が槍を教えた時代に、天狗に匹敵する何者かが射た弓かもしれない。
実際のところは、魔障を祓い除ける儀式に用いた物であろう。寺の誰もが存在を忘れた古い大弓だった。冴自らの手で傷んだ握り革を巻き直し、頑丈な弦を編んで張った。
冴は指先を弦にあてがい、静かに両の腕を天へと伸ばす。息をひそめ、ゆっくりと腕を下げて素引きする。腕の力ではなく、背中で引く。体の芯で湧いた力を、手足にはただ通すだけ。点空の言う「詰まり」が消えた結果、強弓を軽々と扱えるようになった。
冴が動きをとめた。曲がるとも思えなかった弓が丸みを帯び、弦が張り詰めている。満月が冴の影を地に濃く描く。左右の足は肩幅よりも広がり、背筋がすっきりと伸びている。りりり、りりり。虫が草間から音を漏らす。幾度鳴いても、弓手にも馬手にも振れがない。
突如、虫の声が消えた。空気がびしりと引き締まる。これまで封じていた殺気を、冴が放ったのだ。弦をはさんだ指を開くと、ぶんと重く太い音が夜をふるわせた。
冴は弓の素引きをくり返す。やがて空は白み、星が失せる。朝の風が吹く頃合いに、冴は弓を十文字槍に持ち替え、寺を抜け出した。




