第七話 巡合 四
泉からあふれた水はささやかな流れを作り、山の斜面を下っている。
「飲んでいい」
みよは答えを聞く前に手で掬い、唇をつけた。
「冷たーい」
「みよ、この水で頭を洗うからな。覚悟しろよ」
言うなり、冴が片手で華奢な胴をかき抱いた。頭を流れに直接つける。
「姉たん、冷たいよー」
みよの声は笑っている。冴の爪が頭の皮膚を掻くと、気持ち良さそうに目を閉じた。
「伸び放題だな。ばっさり切るか」
「姉たんみたいになるの」
そうだな、と冴は短く返し手を動かす。
「姉たんも髪が長い時あったの」
「あった。自分で切ったがな」
「どうして切っちゃったの」
「母を忘れたかったから。腰ほどもある髪を、よく梳いてくれた。短くすれば、思い出すこともないと考えてな」
髪の間に指を入れ、冴はもつれを解いていく。途中で幾度も引っ掛かる。そのたびにみよは目を強くつぶった。
「いてっ。思い出したくないって、母ちゃんが嫌いなの」
「いや」
「好きなの」
目を伏せ、ああ、と冴が低い声を漏らした。梳き終わり、髪をしぼる。目元を横切る水を、小さな手が拭った。
「姉たんの母ちゃん、今はどこにいるの」
「死んだ」
「ごめん」
「気にするな。じゃあ切るぞ。刀を抜くが、怖くないからな」
みよを立たせ、冴は後ろにまわる。左手で髪を束ね、撫でるように引き切る。たった一度刃を当てただけで、些細な力にでも逃げる髪がきれいに断たれた。
「さて、仕上げをするか」
懐から手拭いを取り出した。なにを詰めているのか、小ぶりな西瓜ほどの嵩がある。
「本当は煎じるのだが、汁を薄めたものでも効くだろう」
丸く膨らんだ手拭いを水に浸し、みよの頭の上でしぼる。
「前にかがめ。口に入ると苦いぞ」
冴の言葉に興味を持ったのだろう。よせば良いのに、垂れる草汁を指でわざわざ掬い、舐めている。
「うげえ、苦いよお」
「だから言っただろう。ほら、口をすすげ」
冴が跳ねた目じりを細めている。
「伊助は自分で洗え。済んだら伊助もこれをやるぞ」
手拭いを軽くふる。
「それ、なんなの」
「虫除けの草だ。虱が湧くと痒くてたまらんからな」
「そんな草があるんだ」
「千振という名だ」
「せんぶり……」
「龍胆の仲間だな」
「よく知ってるね」
「山や野で生きていくには、いろいろと知恵がいる」
「冴はずっと山で暮らしてるの」
「いや、街でよろず屋をしている。金をもらいなんでもこなす。よくある仕事は用心棒だ」
「えっと、用心棒って」
「商売用の荷を、野盗に奪われぬよう守るのだ。さ、頭を出せ。やるぞ」
伊助にも千振の汁を掛けた後、冴は火を起こした。焚火の番を伊助に任せて腰を上げる。
「魚を獲って来る。少し待っていろ」
茂みに大きな背中が消え、兄妹は濡れた髪を火で乾かす。夏が始まろうとしている。だが、今でも体が小刻みにふるえるほどに泉の水は冷たかった。
「ごめんな、みよ」
「え、なにが」
「俺、みよの髪にまで気がまわらなくて」
「ちょっと痒いなーって思ってたのに、あたし、洗うの忘れてたね」
みよはにっと笑うと、短くなった髪が気になるのだろう。小さな手で何度も頭に触れる。まだ懲りないのか、千振の搾り汁で濡れた掌を舐め、顔をしかめている。
「なかなか似合ってるな」
「姉たんみたいになってるの」
「髪の形は似てるけど、顔がまったく違うから、冴みたいには見えないなあ」
黒い部分の勝ったみよの目には愛嬌がある。冴の目は愛嬌とは縁遠い。息の詰まるような圧力に満ちている。しかし、伊助は冴の目がもう怖くなかった。
「なあ、みよ。どうして追い剥ぎの時、冴を大丈夫って言ったんだ」
「うーん。ええと、なんでかなあ」
腕を組んで悩む仕草が妙に大人じみているのがおかしかった。伊助は笑いながら、火が乏しくならないよう柴をくべる。朝の山は蝉や鳥の声であふれるが、伊助は静寂を感じた。
二人の髪が朝風にゆれるようになったころ、冴が戻った。あたりに視線を配っていたにもかかわらず、伊助は目の前に長身があらわれるまで、まるで気がつかなかった。
「姉たん、おかえり」
みよは冴の突然の出現に驚くふうもなく、笑顔で手をふる。冴は垂らしていた腕を上げた。岩魚を通した隈笹が握られている。ざっと見て十尾ほど。
「すごいね。どうやって獲ったの」
枝に刺した岩魚を火にかざしながら、みよが問う。
「岩の下に追いこんで手掴みだな。足元を抜けようとするのは、蹴り上げて陸に飛ばしたり」
「え、泳いでるのを獲るの」
伊助の声が一段高くなった。
「ああ。槍や刀で突く時もある。さあ、食べよう」
伊助は魚の背にかぶりついた。みよも夢中になって身を頬張っている。冴は頭から丸ごとかじった。骨を噛み砕く音が、頬の内側から聞こえる。ふた口で一尾が消えた。
「うわ、すっご」
みよの口がぱかりと開き、咀嚼を忘れている。
「ほら、さっさと食べないと私が平らげるぞ」
とは言ったが、冴はもう一尾手に取っただけで、あとは兄妹が食べるに任せていた。
腹が膨れ、みよが寝ころぶ。んん、と伸びをする。満足気に腹を撫でさする妹にむけ、伊助はやわらかな息をひとつ吐いた。
火の始末を終え、冴が立ち上がる。
「さあ、次はその襤褸をどうにかしよう」
伊助とみよの服は、裾、袖、衿。どこといわず、すべてがほころび、垢で黒光りしていた。もとの色もがらもわからぬ有り様だ。
街に下りてすぐ、冴は商家を訪ねた。伊助より取り返した巾着から数粒の銀を摘まみ、子供二人の衣服を手に入れる。
「身支度も整った。これから四、五日ほど歩く。気張ってくれ」
「どこに行くの」
みよは淡い紅の生地が気に入った様子だ。声がはずんでいる。
「法天寺。知っているか」
「知らない」
「私が三年ほど世話になった寺だ」
「姉たんは法天寺に行くまでなにしてたの」
「野盗を殺していた」
ひ、とみよが喉を鳴らす。
「幾つの時」
伊助は声がふるえた。
「十歳」
冴の告げた年齢の幼さに、伊助もみよも息を呑んで沈黙した。二人には目をむけず、冴が宙に独り言を漂わせた。
「やつらが憎くて、仕方がなかった。それは今でも、変わらないが」
*
「広い」
誰に聞かせるでもない独り言。これが、法天寺の門をくぐった冴の第一声だった。十文字槍を立てて持つ僧兵に冴は囲まれている。その誰よりも顔の位置が高い。
「寺の敷地だけでこの広さだ。領地はもっとあるぞ。冴が暴れておった寺も、石段前の山道も、このまわりの山も全部うちの寺領だ」
老僧の点空が、ところどころへと目を運ぶ大きな女を見上げて笑う。冴の隣を歩く点空の手に槍はない。冴も無手。
「寺領での揉め事は、儂ら荒くれ坊主が片づける。追い剥ぎ、山賊、野盗。こういった輩を成敗し、どこぞの軍勢が入りこんだら追い払う。それが大名でもな」
冴はまばたきをくり返すばかりだが、年寄りの話に耳を傾けていた。
「一戦交える折は、刀や弓も使う。だが法天寺といえば十文字槍。儂が考え出したんだぞ」
点空は得意気だ。陽光を映し光る十字の刃に、冴が視線をとめる。目には殺気が含まれている。四方に針を飛ばすような冴の気配に、僧兵たちは神経を張り、点空とのやり取りに耳をそばだてた。しかし、と点空が冴に笑い掛ける。
「素直について来るとは、意外だったの。どういう風の吹き回しだ」
冴は顔を逸らし、口を真一文字に結んだ。
「おい、女。点空様が尋ねておられるのだ。答えんか」
後ろから太い声が飛ぶ。冴に槍を奪われた男だった。黒々とした眉が厳しく寄せられている。
「良い良い。口を利く気分じゃないのだろう」
「しかし、それでは規律が守れません。それにこやつは女ですぞ。寺に入れるのはどうかと」
「冴に女性の色香を感じるか」
足をとめた僧侶が全員、首を横にふる。
「なら良いではないか」
ひとりひとりの目を覗き、老僧はこの場の了解を取りつけた。
「冴は槍を学びたいんだろう」
年寄りの手が伸び、高い肩を叩く。「うん」と冴の首が縦に動いた。槍の達人ならではの絶妙な間が、冴の本心をあっさりと引き出した。




