第七話 巡合 壱
みよは大丈夫と言ったが、伊助は信じ切れていなかった。木の幹の裏に身を隠し、これから金を奪う女の後ろ姿を凝視する。戦国の乱世では、日々様々な職が生まれる。齢十二の伊助には、女の稼業が皆目わからなかった。女の身形は見慣れぬものだった。脛をしぼった袴に筒袖の上衣。褪せた緑と土色が斑になったがらなど、初めて目にする。
たしかに、狙いをつけた女は、道端で腹を押さえて蹲るみよへと近づいている。滑らかな足捌き。背中が縦にも横にもゆれない。
女の腰に差された剣が怖い。それよりも、並みの男を頭ふたつほど超える背丈に身が竦む。自分はまるで、鷲に襲い掛かろうとする雀だ。伊助はこれからのことを思い描き、ふるえた。
神様、どうか俺とみよを守ってくれ。父ちゃん、母ちゃん。どうかどうか。
伊助は神にだけでなく、戦に巻きこまれ仏となった両親にも、自分たちの加護を願った。気の早い蝉が真上で鳴いている。耳の底をわんわんと打つ。うるさいのか、そうでないのか。伊助にはわからなかった。
女が片膝を地につく。鳥の羽根が地面に滑り落ちるような動きだった。夕暮れの山風が峠の道をひと撫でする。肩で切り揃えた女の垂れ髪がさらわれる。のぞいたうなじが、白かった。
具合が悪いのか、と女は問うている。低く、重みのある声だ。みよの幼い肩に掌を当てる。
伊助は駆け、短刀を抜いた。女の背に声を叩きつける。
「金を置いていけ」
女の抜き打ちに備え、やや距離を取る。女の右手が柄を握らず懐に入ったのを見届け、伊助は肩を貫く緊張の串が抜けるのを感じた。
駄目だ。油断をするな。自らに強く言い聞かせ、串を刺し直す。
女はしゃがんだ形を守ったまま、黒地に銀糸の光る巾着を道の先に抛った。
みよが跳ね起き、走りながら拾う。伊助は女の真横を駆け抜ける。右に折れた道を曲がってすぐ、山に飛びこむ。角度の強い斜面をのぼる。地表にせり出た木の根、積もった落ち葉が足から速度を奪う。足腰の幼い妹は、どうしても遅れてしまう。みよを引き上げるために伊助は手を繋ぐ。十二歳と四歳が、木々の間で息を切らせている。
女が足音を殺し、密かにあとを追っていることを伊助は知らない。
伊助とみよがたどり着いたのは、社だった。屋根は傾き、壁板には穴が目立つ。雨はかろうじて防げるが、風は素通り。夏の走りの今は、壁の穴も却って味方になっている。季節が進むとどうなるかなど、二人にとっては埒外の心配だった。春に親と住処を失い、今日を生きるので精いっぱいなのだ。
「すごいよ、兄たん。あたし、初めて見る」
巾着から金の粒を摘まみ出し、みよが明るく笑う。
「たくさん入ってるな」
袋を覗きこんだ伊助も相好を崩そうとする。
床板がぎしりと鳴った。背骨に冷や水が通りでもしたのか。伊助は勢いよく首を反らせ、額を上げた。目に入ったのは、天井に頭を擦らんばかりの影。手にはなにも持っていない。さっきの女だ、と伊助は直感する。
「みよ、逃げろ」
叫びながら短刀を構えた。
刹那、カキリと甲高い音が鼓膜に刺さり、強烈な痺れが手に走る。柄に巻いた指が麻痺し、唯一の頼りが手を離れる。拾わねばと焦った視界に入るのは、身の折れた短刀。
伊助は視線を上げた。なにが起きたのか。体が無意識に知りたがっていた。目の前の女は両手をだらりと下げ、相変わらずの無手だ。突風のように殺気が吹きつける。たちまち胆が縮み、体中がふるえた。目が合った。体が見えない線で縛り付けられ、動けない。
「殺すなら殺せ」
覚悟を決めると、体を縛る線が切れた。伊助は両腕を広げ、大の字になった。命と引き換えに時間を稼ぐ。妹が少しでも遠くに行けるよう願って。汗が噴き出すのは、暑さのせいだけではない。強張る伊助の背中に、小さな体がしがみつく。
「どうして逃げないんだ」
「だって、兄たん。あたしも一緒に」
みよの泣き叫ぶ声の隙間に、低い声が滑りこんだ。
「二人とも。外に出ろ」
伊助は女の顔を一度見たきり、頭を上げることができなった。剥き出しの刃と同じ光を、女の目は宿していた。村を焼き、人々を無造作に殺した野武士たちも怖かったが、たったひとりのこの女のほうが体の芯を大きくゆさぶる。人の心の底を冷やす風を、女は全身から放出していた。風に身を縮めるのはみよも同じ。伊助の背に頬を張り付け、しがみついている。
「怖がるな、と言っても無理か」
ひとつ女が呟くと、風がやんだ。
「そこに座れ」
予期せぬ声掛けだった。斬られる、と思い歯を食いしばっていた伊助の口から、深い息が漏れた。社の前の、踏み固められた土へと女は先に腰を下ろし、懐から竹皮の包みを引き出す。開くと、団子のような黒い玉が三つ。
「腹が減っているだろう。兵糧丸だ。取りあえずの飢えはしのげる」
向かいに座ったものの、伊助は地を見るばかり。動けない。もらっていいの、と手を伸ばしたのはみよだった。
「前歯で少しずつ齧れ」
みよは女の言ったとおり、両手の指先で小ぶりな玉を摘まみ、鼠のように細かく口を動かした。鼠の顔に明かりがさす。
「甘いよ。ほら、兄たん。あげる」
半分に割ろうとするか細い指を、女がとめた。竹の皮を二人の前にそっと置く。
「これも食べろ」
「姉たんの分はどうするの」
「ねえたん、か」
ふふ、と唇を通る女の息に、笑いの色が混じる。
「冴。私の名は冴だ」
「あたしはみよ。兄たんは伊助。冴はお団子食べないの」
「やる。みよと伊助で食べてしまえ。遠慮はいらん」
和やかに話すみよに後押しされ、伊助はようやく顔を上げることができた。上瞼に瞳を当て、恐る恐る冴を見る。細面を引き締めていた眉はなだらかになり、頬や口元からも怖さが失せていた。目じりが切れよく跳ねている。静かなまばたきのたびに、素直に伸びた睫が上下する。
「よく今日まで、命があったな」
いつ尻を近寄せたのか。冴の指先が胸元にまで伸びて来る。掌が差し出された。腕が長い。指も掌も厚い皮で覆われ、色が変わっていた。伊助は奪った巾着を武張った掌にのせた。
「襲う人を選んでた」
「私には勝てると思ったのか」
「いや、俺はやめようって言った。どう考えても危ないって。でも、みよが……」
冴は黙ってまばたきをくり返す。自分の話を待っているのだと気づき、伊助は続けた。
「みよが大丈夫って言った人は、おとなしく金を置いていってくれるんだ」
それは伊助のかざす刃物が怖いからではなく、困窮にもがく子への施しだと気づくには、伊助もみよもまだ年の重ねが不足していた。
「どうして私は大丈夫だと感じたんだ」
冴がみよへと向きを変えた。
んんん。みよは短くうなり、唇を尖らせた。艶を失った髪に指を入れ、爪を立てる。頭から湧いた白い粉が風に散る。
「難しい問いだったか。無理に言わなくても良いぞ。伊助、この社に住み続けるつもりか」
「先のことなんてわからない」
常に心の中心に居座る不安を正面から突かれ、伊助は強く声を返した。
「あたし、兄たんと一緒にいたい」
髪にもぐっていた指先が伊助の手を掴んでいる。あらん限りの力を籠めているのだろう。小粒な爪は真白に変わり、めりこんだ汚れがくっきりとうかび上がっていた。




