第六話 狼は狼をよぶ 参
おいぬはゆっくりと白い鼻面を空へむけ、月を相手に心の内を声にした。
「笹丸を失えば、わたしを編む糸が一斉に切れ、よそ様の子を奪いわが子にするのが目に見えるのじゃ」
ゆるやかに指を曲げ、弱く拳を握る。掴んではいけないなにかを掴むように。
「そうなるくらいならひと思いに、と打ち掛かったら、まさか柄の頭を突かれて太刀を吹っ飛ばされるとは」
「望月の夜、狼の力は底無しとなる。生半可な受けでは、わが身が危ない」
「わたしの顔など立てなくとも良い。力の差は重々承知しておる。冴よ。なぜあの時、殺さなかったのじゃ」
「払いを渋る依頼は受けぬと決めておる」
しばし首を傾げたが、おそらくはこうであろうとおいぬは事情を察した。
「もし報酬が十分なら、わたしは生きておらなんだか」
「さあな。夫婦であったのだからわかるだろう。やつが気前良く払うと思うか」
顔が笑みを象り、口の端が深く切れこむのをおいぬはとめられなかった。
「なんにしても、冴にものを頼むとけっこうなお代がいるのじゃな」
冴の片眉が素早く動いた。おいぬには、「当たり前だろう」と冴が言っているかに思えた。龍神が手を貸すのだ。仕損じはあるまい。払うものは、払わねば。
「おいぬ。ひとつ聞いておきたい」
幾分あらたまった声だった。頷きで先を促した。
「今でも、藤兵衛を好いておるのか」
あははははは。星をゆらすほどの大きな笑い声をあげ、おいぬは笹丸の頭に手を置いた。温かい。大人の交わす話に飽きたのだろう。いつの間にか、丸くなって眠っていた。
「もう、この山からは去る。二人でどこぞで暮らしてゆく」
「私の母も、子と二人で日々を過ごした。夫はおらずとも、母と娘でよく笑い合った」
「冴が笑う顔は、ちと思いうかばんの」
熾きになった火を、冴が足裏で散らした。おいぬが石で蓋をする。
「では、笹丸を連れていくか」
二人は腰を上げた。ともに月からの糸で引き上げられるような、滑らかで、一切の詰まりがない動きだった。
大太刀を背に負い、笹丸を抱えたおいぬと十文字槍を肩に預けた冴。歩む速さがまったく同じ。二人して、頭と肩がわずかにもゆれない。雲のかからぬ月が、狼たちの影を濃くした。
山を下ると、藤兵衛屋敷の前では篝火が焚かれていた。武装した男たちの姿を照らし出す。
木々の隙間からおいぬは、かつての夫をさがし出した。藤兵衛の巨躯は兜こそないものの、胴、篭手、臑当で守られていた。
「どうやら、笹丸を待っているだけではないようじゃな」
冴の横顔がかすかに縦に動いた。切れ長の目には、硬く冷えた光が宿っている。存外に睫が長い。
詰めてならぶ火の束は、不安の表れだろう。男たちの手にする槍や刀は皆、火の光を刃にのせている。しかしどの体からも、猛る血の気配は嗅ぎ取れない。
「龍神と大神を合わせて拝めるとは、やつらも幸運じゃな」
「狼と龍に牙を剥かれるのは、不運だろう」
おいぬは頭を小刻みにゆらしながら、笹丸を木の幹の裏に置く。狼の子は深い寝息をくり返す。
大太刀を抜く。銀の刀身に目を這わせた。隣を見ると、銀の十文字が闇にういていた。
「いくか」
屋敷へと視線を流す切れこみのきつい目に、頷きではなく遠吠えを返した。
オオオ――――オォォォ……
張りのある声が、長く尾を引く。間近で浴びた屋敷前は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。男たちの走りまわる影には目をむけず、おいぬは藤兵衛に焦点を合わせた。太い首を左右に捻り、引きつった髭面が篝火にうかんでは消えをくり返す。槍を抱えこむように握っていた。空をさした穂先がせわしなくゆれる。他の者は見逃されても自分は必ず、とわかっているかのようだ。
「やはり、狼の子だな」
冴が膝を折り、丸くなって眠るわが子の背を撫でていた。
「遠吠えは、子守唄のようなものか」
笹丸の頬に、冴が掌を当てた。頬のやわらかさを楽しむように、指先が何度も行き来する。
あの男も同じことをした。狼の腕の中で眠る赤子に、髭面を寄せて。押された頬のへこみは、滑る指先を追ってすぐに丸みを取り戻していた。「おいぬ、でかしたな」と相好を崩す藤兵衛の目には、なんの曇りもなかった。
これから、人を殺す。今までのように、腕や耳を落とすだけでは済まない。冴は、屋敷の者どもを間違いなく皆殺しにする。
冴のやさしげな手の動きに、定めた心がゆらいだ。奥底に封じた男の笑顔が、蓋を押しのけてせり上がる。鼻から静かに息を抜き、純白の頭を一度縦にふった。
「なあ、冴」
しゃがんだまま顔をむけ、目でなんだと問うてくる。
「藤兵衛は殺さんでくれ」
「それは仕事の依頼なのか」
硬く引き締まった唇が、かすかにゆるんだ気がした。
「お代がいるぞ」
切れ長の目は、美しい三日月を描くものだとおいぬは知った。




