第六話 狼は狼をよぶ 弐
「笹丸を連れてくれば、命が助かるどころか礼金まで与えるのだ。なにを迷う」
冴の瞳が上瞼に寄る。目じりの切れこみが、さらに鋭さを増す。藤兵衛は、槍で突き上げられたかと錯覚した。冴の唇の端が、かすかに上がっていることには気づかない。
「子を、連れてくれば良いのだな」
依頼が通ったと藤兵衛が安堵しかけた時。
「おかしら、やつらが」
上擦った声が掛かった。血まみれの一団が、ふらつきながら庭に力のない足跡をつけていた。山小屋に出張った男たちの帰還だった。
「弥平が手首を落とされました」
肘から先と腕の付け根を、弥平は縄できつく縛られていた。顔面は蒼白だ。数に欠けはなく五人。弥平の顔は青かったが、他の者は赤黒い。耳を失った者。鼻のもげた者。隻眼となった者。口の形が崩れた者は、歯のあらかたが折られていた。
「養生しろ」
藤兵衛による形だけの労いに頭をさげ、五人は敷地奥の長屋へと足を引き摺った。
冴の目が、打ち負かされた男たちの背中を追う。
「おいぬとやりあうと、死にはせぬが魂が抜かれたようになりよる。もうやつらは使い物にならん」
藤兵衛は腰を下ろし、懐に手を入れた。栗の実ほどの巾着を摘まみ出す。床に置いた。
「中は金の粒だ。半日もかからぬ仕事には、十分な礼金だろう」
冴が巾着を掌にのせると、藤兵衛は帳消しにしたい過去を付け加えた。
「おいぬを殺せ。あやつはきっと、子に執着しよる」
「殺しを頼むのなら、もう一袋だ」
藤兵衛のこめかみに蚯蚓のような血管がうき出た。冴をにらんですぐ、刃の目に眼裏を抉られ、顔を伏せた。しばらくは鼻から熱い息を吹いていたが、怒りと屈辱を払い消す考えがうかび、冴には見えぬよう黒髭まみれの顔を笑みをのせた。
「屋敷の中には金がないのだ。お前が子を取り戻している間に、蔵の床下から取り出しておく」
「半金で仕事をせよと」
「後で払うと言っておろう。この藤兵衛を信用できぬか」
天を衝く長身が十文字槍を携え、長屋門を出る。背中が消えるのを見届け、藤兵衛は配下を手招きした。
「今、屋敷に何人いる」
「三十ほど」
「戦の支度をさせよ」
「どこぞへの加勢が決まったのですか」
「いや。狼狩りだ」
「おいぬを……」
「それか、今の女だ」
冴、と呟く声が、歯を打ち鳴らす音にまぎれた。
「怖がるな。おいぬと冴がやりあえば、双方必ずや深手を負いよる」
ふん、と藤兵衛が鼻息を飛ばした。
「生き残ったほうを儂らで殺す」
山が陽を隠し、空に月が丸くうく。音を重ねた蝉は静まり、りりりと草の奥からの声が焚火を囲む親子を包んだ。夏とはいえ、山の頂近く。夜風には涼の線が交じる。離れて当たる火のぬくもりは、おいぬの気持ちをやわらかにした。
兎を頬張るわが子に目を細める。皮を剥ぎ、はらわたを出し、肉を火で炙る。いつの日かは人として生きるために、狼とは異なる食べ方を笹丸には勧めている。自分だけ生で食べるのは憚られ、雉にはまだ手を伸ばさず火に当てていた。笹丸が、それも食べたいと言うやも知れぬし。
「今日ね、母様より大きな女の人に会った」
一日の中であったことを笑いながらわが子は話してくれる。
「珍しいの。人に会うとは」
「うん。気配が全然なくてびっくりした」
気配がない。嫌な予感が背骨に沿って走った。狼に居場所を悟られぬとは、尋常ならざる者。笹丸は今ここで肉を食んでいるのだ。敵ではなかろうが。
「あ、冴だ」
笹丸の目のむきをなぞり、おいぬは息を飲んだ。
見て取れる距離に踏みこまれて気づかぬとは。それも、抜き身の十文字槍を手にした者にだ。
大太刀を引き寄せた。虫の音がやむ。冴からは目を離さない。近づくにつれ、なぜ気づかなかったのかがわかった。心の内で、おいぬはため息をついた。
風神雷神どころでは、ないな。
あと数歩で槍の間合いに入る。おいぬは肚を決め、立ち上がった。
「龍神とは見上げたものじゃな。異形を目にしても、心にゆれがない」
「笹丸を、連れていく」
「今宵は満月。大神の力、存分に見せてくれよう」
冴が口を薄くあけ、なにか言おうとした。ほんのわずかな気の切れ目を、おいぬは掴んだ。今しかない。
狼、抜刀。
この子の傍におれぬなら、もう、いい。
地を蹴り、おいぬ稲妻と化す。風を巻きながら、大太刀を振りかぶる。刃をおろせば、冴は真二つになる間合いだ。鞘はまだ、宙にういている。冴の腰が沈んだ。
手の内で、火薬でも破裂したのか。手首から先が痺れ、おいぬは指を曲げることも伸ばすこともできなかった。振りおろしたはずの大太刀が、どこにもない。おそらくは、遠く後ろへとはじき飛ばされたのだろう。まさかあのように、打ちこみを受けるとは。
冴は両手で槍の柄を持ち、次をくり出す構えを保っている。むけられた石突は、胸の急所と線で結ばれていた。
また虫が鳴き始める。戦いは終わったと虫もわかるようだ。満月が、無手の狼の影を地に映し、槍を腰だめにした冴の垂れ髪を白く照らした。
「とても争う気にならん。さあ、殺してくれ」
冴が頭をゆるくふる。
「話を聞いてくれれば良いものを」
冴の指がほどけ、槍が地に転がった。腕を伸ばすと、焚火を指さした。
「雉か。もらって良いか」
もらうとは言ったものの、冴は雉をきれいに裂き割り、おいぬにひとつ手渡した。
「済まんな。おいぬの飯をとってしまって」
ひと口で、冴は身の半分ほどを齧り取った。二三度顎を動かしただけで終わりとなるおいぬとは違い、頬をいっぱいにして肉を噛んでいる。笹丸の頬も兎で丸い。
「なに食べたら、そんなに大きくなるの」
「魚かな。頭の骨も食べる」
「母様が獲ってくるのは、獣か鳥なんだよね」
「山の神と水の神の違いかな」
わかったような、わからないような。首を捻る仕草が愛らしい。
わが子が自分ではない者と話す姿を見るのは、おいぬにとって新鮮だった。
「僕を捕まえにきたの」
「捕まえない」
冴が両手をふってみせる。
「藤兵衛の前に、連れていくだけだ」
「どういうことじゃ」
おいぬが割って入った。
「笹丸を渡せとは頼まれておらん。この子を見せたら」
冴は言葉を切り、軽く顎を上げる。どうやら、月を見ているらしい。冴の唇が再び動くまでの間が、おいぬにはひどく長く感じられた。冴が短く、宙に声を放った。
「後は知らん」
ならんだ牙をすり抜け、長い息が落ちた。体中の強張りがほどけて混じったような、重みのある息だった。りりり、りりりと耳を撫でる虫の音が、夜の静寂を厚くする。




