第六話 狼は狼をよぶ 壱
冴が歩いても、音がしない。地表に木の根がうき出し、石で荒れた腰幅の山道を滑るような足捌きで進んでいく。
どのようにかわすのか。袖や裾、肩に担いだ十文字槍の鞘までもが、好き勝手に細路へと手を伸ばす枝葉に触れない。並みの男を頭ふたつほど超える背丈が、森の隙間を風のようにすり抜けていく。冴が真横を通っても、道脇の枝にとまるヒタキは鳴き続けた。
ふと足をとめ、冴は山の上り斜面に目を遣った。槍は肩に預けたままだ。肩で切り揃えた垂れ髪に、蝉の声が沁みる。
冴は息遣いのすべてを山に溶かした。筒袖と野袴は、褪せた緑と土色が斑を描いている。ただでさえ山の木々と影にまぎれるがらだ。今、山の斜面から飛び出してくる者が、冴に気づかなくても無理はない。
「えい」
幼い掛け声が消えぬ間に、柿渋色のかたまりが小径に両足を揃えて着地した。三歳か四歳の男児だ。細帯で腰を絞った掛衣と、脚絆が脛を覆った袴のなりは、梵天こそないが山伏のようだった。
すぐに向きを変えた。冴へと一歩踏み出したところで足をとめようとしたが、ついた勢いは消せなかった。
「わ、なんで」
冴は腰と膝を浅く折り、男児を両の掌で迎えた。転ばぬよう、素早く服を掴む。
「放して」
小さな拳を打ちつけてすぐ、冴の腕に歯を立てようとした。
「どうした。なにもせん」
服に絡めた指を解き、幼い頬に掌を添えた。左右の手で挟まれ、口が薄くあいている。鋭く尖った犬歯がよく目立った。
「ふははえはいほ」
済まん、と冴が手を離した。
「捕まえない」
片膝を地につき、両手をふってみせる。
「なに言ったかわかったんだ」
「ああ。すぐに牙を使うとは、さすが狼の子だな」
「なんでわかるの」
「私が龍神の娘だからだ」
狼の子はまばたきをとめ、冴の顔に見入った。夏の山風が、切れ長の目をさらに涼し気に見せる。やがて、こくこくと小さな頭を上下させた。
「母様とは、だいぶ違うね」
「そうか。お前、名前は」
「笹丸」
「狼とは縁のない名前なんだな」
「母様はおいぬだよ」
「良い名だ。私は冴」
「冴も龍神とはエンのない名前だね」
よく意味もわかっていないだろうに、男児は冴の口ぶりを真似、にっと唇を横に伸ばした。その折。
ォオオ――――オオォォ
山頂からの遠吠えが、太い筋となって木々の葉をふるわせた。
「母様だ。藤兵衛たちを追っ払ってる」
「手を貸したほうが良いか」
「大丈夫。母様がよう言うてる」
冴が小首を傾げ、まばたきを幾度か入れた。
「人には負けないって。風神か雷神くらいだって、大神に勝てるのは」
……ォォオオオ――
山の頂をわずかに下った小広い場に、笹丸と同じなりをした女がいる。笹丸とは異なり、女はひと目で異形とわかる体だった。
女から十歩ほど離れて立つ五人の男は、槍や刀、弓と得物を手にしている。女も丸腰ではない。身の丈ほどもある大太刀を、左の手に提げている。鞘はまだ払っていない。女の頭は男どもとくらべ、明らかに一段抜けていた。
胴と籠手で身を固めた男が腰のものを抜き、指さすように切っ先を女へとむけた。
「おいぬ。いい加減に笹丸様を渡せ」
恐れを振り払うような声だった。戦場で上げる気勢とは、似ても似つかぬ芯のなさだ。上げた刀が小刻みにふるえている。
「藤兵衛はどうした」
「おかしらは屋敷だ」
「もう、顔すらも見せんのか」
口の端をきつくゆがめ、おいぬは深く息を吐いた。あいた口から血の色の舌がどろりと垂れる。覗く歯は尖り、ゆるやかな曲がりがあった。
「山犬の化け物が奥方では、おかしらの出世は望めん」
おいぬの頭部は、純白の狼。誰がどう見ても、人ではない。
「妻に迎えずとも良い。わたしを傍らに置いてくれ。笹丸と離れとうないのじゃ」
「いて良いのは、笹丸様だけだ」
「藤兵衛がそう言うのか」
槍を構えた男が、顔色を真っ赤に変えた。
「ごちゃごちゃうるせえ。今の奥方が、笹丸様を産んだってことにするんだ」
男から浴びた言葉は、おいぬにとって聞き飽きたものだった。
「笹丸様は小屋に隠しておるのだな」
弓を立て、おいぬの背後に目を遣った。
「検めさせてもらう。おい弥平」
矢筈に弦を当て、年若い男に顎をふる。
弥平は眉を寄せたが、おいぬは十歩の距離で矢に狙われているのだ。なにができよう。刀を抜き、渋る足を二歩三歩と前に出した。おいぬを避け、遠回りに通り抜けようとしたが、そこで身が凍る。
大太刀の鞘を投げ捨てるように、おいぬの左腕がふられた。滑る鞘の勢いに合わせ、右手を閃かせる。身の丈を超える大太刀を、刹那の拍子で抜刀した。鞘はまだ、宙にういている。
おいぬは構えを取らず、斜め上に白刃をふる。長大な鋼の牙が、甲高い音をたてて空を裂く。中ほどで断たれた矢が一本、地に落ちた。
「くらえ」
槍が遠間から打ちこまれた。こつり。乾いた音とともに、穂の失せた槍、ただの棒が出来上がる。素槍の真直ぐな刃は陽の光をのせ、小石の上で白く光っていた。
まだ野盗の遣い走りだったころから、藤兵衛は冴の名を耳にしていた。
古今無双の用心棒。やつの守る荷を襲ったが最後、四肢や首、はらわたを地に撒き散らして死ぬ。賊は一人として逃げ果せない。情けも容赦もない、鬼としての名だった。
まさか自分が、仕事を頼む側になろうとは。
冴が女であることにも驚いたが、年のころが、どうにも信じ難い。長く無双を語られてきたにしては若過ぎる。鬼ではなく、牙を剥いた狼を連想するのは、赤子とともに追い出した妻、おいぬと同じにおいがするせいか。冴にも、人ではないなにかを感じていた。
だがこうでなくては、と顔の半分を覆った黒髭をしきりにいじり、板敷の床についた尻をゆすった。岩を詰めたような巨躯に、床板がみしりと鳴る。
幾らか言葉を交わした後も、藤兵衛は冴の圧力にまるで慣れなかった。切れ長の目に正面から見据えられ、満足に顔を上げられない。冴の目は、血に浸して研いだ刃を思わせる。戦場で鍛えた胆力が根こそぎ失われていた。体のふるえが止まらない。
「だからどうしても子がいるのだ」
怯えを悟られまいと、藤兵衛は過分な力をこめて声を低くした。
「村に幾らでもいるだろう。ひとりもらえば良い」
「駄目だ。村の小僧では格好がつかぬ。儂の血の入った笹丸でなければならん」
「では、元の妻を呼び寄せ、子だけ借りれば良かろう」
「あれは我の強い女だ。大殿のもとに子を連れていく際、きっとしゃしゃり出よる」
狼の顔をした女など連れていけるか、と叫びそうになるのを偽の言葉にすり替えた。
「冴よ。この仕事、断れると思っておるのか」
藤兵衛は立ち上がり、開け放たれた障子の先に目を遣った。庭に男が十人ほど。野盗あがりの荒くれども。皆、槍を手にしている。




