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第五話 雪女房 参

「さあ、もしかしたらもう死んどるかも。私を忘れてしもうたかも。なにか私のもとには来れんわけがあるのだろう。それならそれで良い。離ればなれになった今でも、私は左兵衛と夫婦だと思っておる」 

 夫は傍におらず、子と二人暮らし。品の悪い噂を広めようとする者もいた。さらに人ではない身。それでも、母は村に溶けこみ生きていた。

 その娘がまさか殺しを稼業にするとは。

 振り返りに区切りをつけ、冴は背を立てた。静かに寄ったおゆきへと首を捻る。

「どうした」

 俯く白い顔に、冴が水をむけた。

 風は相変わらず社をゆすり、ひょうと鳴く。おゆきは動かない。冴もまた。長く伸びた風の緒が、二人を結ぶ。ふと、おゆきの重い口が開いた。

「次平には身寄りがない。幼いころからずっとやっこだった。こき使われ、作がらが悪くなれば村から叩き出され。行く先々で余計な者、厄介者として扱われてな。ところがこの雪山の里に流れ着いたら、よう来た、よう来たと歓迎されて酒を出された。村の連中のいつもの手だ。酔って眠った次平を下帯ひとつにして、縛りあげてから社に放りこんだ。雪女への生け贄として」

 くっとあげたおゆきの目には、涙の膜が張っていた。

「わたしはただの雪の精。なにもできない。雪を降らせることはおろか、お山の神が宿る大岩のまわりから離れることもできん。だのに稲刈りよりも早く雪が舞った年は、生け贄を差し出し、大雪を降らさぬよう村の者たちは願いよる」

「村人からも、おゆきと呼ばれているのか」

 冴の問い掛けは思わぬものだったのだろう。おゆきはぽかんと口を丸くあけた。

「いや、違う。次平がつけてくれた名だ。雪女だからおゆき。単純だが気に入っておる」

「私の母も似た(すべ)で名づけられた。りう、という。私の父がつけた名だ。母もやはり、気に入っていた」

 おゆきは額を伏せ、りう、と幾度か呟き沈黙を作った。やがて勢いよく顔があがる。

「龍神か」

 冴の頷きにおゆきが身を乗り出す。

「まさか龍神とは。のう、冴。人ではない者同士が会ったのもなにかの縁。申し訳ないが、わたしの願いを叶えてくれんか」

「なんだ」

「次平を殺してくれ」

 一拍置き、おゆきは続けた。

「そして、わたしも」

 冴は唇を噛み、動かない。

「次平もわたしも、いつもひとりだった」

 否とも応とも示さぬ冴に、おゆきは短く言った。それが呼び水となったのか、堰を切ったように話し始めた。

「次平は、わたしとまともに口を利いてくれた初めての男だ。次平には生きて欲しい。でも、もう次平の心には生きる力がない。死んで楽になることばかり考えておる。ならば次平にとっては、酷なようでも殺すのが親切。だが、わたしの手では殺せんのだ。あまりに愛おしくて」

 一度は引いた涙が、おゆきの目を潤ませる。

「できることなら次平と一緒に死にたい。それなのに、わたしは死ねない。刃で切っても刺しても、素通りするだけだ。一瞬で粉々にでもならない限り、わたしは死なない」

 涙が下の瞼を越え、頬を転げる。顎から滴るのを待たずに氷の欠片へと変わる。

「人を好きになる気持ちを知ってしまった。この温かな気持ちを持ったまま、わたしは死にたい。次平を思いながら死にたい。のう、冴よ、わたしら夫婦を殺してくれ。龍神のお前なら、わたしを殺せる。さあ、早う、早う」

 おゆきは嗚咽し、冴の手を取る。龍神の血が流れていなければ、冴は薄氷に包まれ命を落としただろう。

 冴は無言で手を引き、おゆきの肩を軽く叩くと背をむけた。

 断られてもっとも。おゆきは自分の我儘だとわかっていた。万にひとつに賭けたが、やはり。

 おゆきは項垂れ、次平の隣へと戻った。風が和らいだようだ。社の板壁に音がない。おゆきが鼻をすする。聞く者の胸を締める響きに、夜は静けさを積んだ。

 陽が昇る前に冴は起きた。次平とおゆきに目を遣る。二人は顔を向かい合わせて眠っていた。泣いたおゆきも、辛いと嘆いた次平も、互いが傍にいれば幸せなのだろう。安らかな寝顔を、冴は時を費やし眺めた。

 音をたてぬよう戸をあける。外は一面の雪。白み始めた空は、低く張っていた雲が消え、澄んだ沢を思わせる。冴は膝で雪を漕ぎ、社をあとにした。


「行ってしもうたな」

 冴のつけた足跡を目で追い、次平が小声で言う。

「わたしらが夫婦であることを、知ってくれた人がいて良かった」

 昨夜は涙に暮れたおゆきが、幾分気の晴れた声で言う。

「そうだな。ああ、今日はええ天気だ」

 蓑にくるまれた背を伸ばし、雪の原を歩き出す。おゆきも付き従う。

「こんな日が続けばいいのにな」

「ええ。日陰者のわたしたちにも、お天道様は分け隔てなく光を恵んでくださる」 

「いや、天気のことでなく、俺とおゆきがいつまでも一緒にいられれば、ということだ。今この時がずっと続けば、と思うてしもうた」

 答えの代わりに、雪玉が次平の肩でぽそりと砕けた。振り向くと、おゆきが笑顔で新たな玉を作っている。

「なんだ。子供みたいに」

「えい」

 ゆるく宙に弧を描く雪玉は、陽に照らされ光の玉のようだ。次平の胸で光がはじけた。

「やったな」

 次平が投げ返す。おゆきも応じる。

 あはははは。うふふふ。

 次平が声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。おゆきにとっては初めてのことだ。

 冴が弓を引き絞る。小芥子(こけし)の頭の如く、丸く削られた木が鏃の代わりに据えられていた。的を射砕くための神頭矢(じんどうや)。右手にはもう一本、矢を指に掛けている。連射の構えだった。三日月のように先の大きく開いた雁股鏃が、朝の陽をはじき返している。

 冴は湖のふちに立ち、雪玉を投げ合う二人に目を凝らす。風はない。遮るものもない。高い空と雪を被った木々を背に、無邪気な雪合戦が続いている。

 酷なようでも、殺すのが親切。

 おゆきの涙を交えた声が、冴の耳から離れない。

「昨夜は馳走になった。おゆき、次平。どうかあの世で、添い遂げてくれ」

 放たれた二本の矢が湖を越える。

 あはははは。うふふふ。

 笑い声が響く中で、おゆきは砕け散った。雪を舞わせたように、あたりが白くけぶる。次平からは高く高く血の柱が立つ。陽の光を浴び、まぶしいほどに粉雪と血飛沫が輝く。

 首から落ちた次平の頭を、雪がやわらかに受けとめる。笑みでいっぱいの顔に、千々に砕けたおゆきの体が降りかかる。

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