第五話 雪女房 弐
冴を過去から今へと引き戻したのは、気配だった。瞬時に膝を立て、腰の刀をいつでも抜ける形になる。息を鎮め、殺気を封じる。
湖の水際を若い男がよろけながら歩いていた。蓑を何重にも被った姿は、藁の塊のようだ。
冴を身構えさせたのは、この男ではない。社の先、村に通じる小径からあらわれた十人ほどの敵意に備えたのだった。村人と思しき男たちは蓑と笠で身を固め、棍棒を携えている。弱々しく足を運ぶ藁の塊に駆け寄り、殴りつけた。
「しぶといの」「社から出るな」「早う雪女郎に食われろ」
村人たちは怒声をあげ、男が倒れても容赦なく足蹴にする。
「こんなもの着とるから死なんのだ」
ひとりが蓑を剥ごうと手を伸ばす。
「よさんか」
見かねた冴が木の陰から数歩踏み出してすぐ。村人たちの動きが止まった。
「出た。雪女郎だ」
悲鳴を残し、一目散に逃げていった。
冴は伏して動かぬ男に歩み寄る。弓を手にしているのは、先ほどの男たちが戻ってきた時の用心だった。藁にくるまれた男を抱き起こす。額が割れ、痩せた顔の半分が血に染まっていた。
「助けてもろうて済まんの。次平と申す」
「どこまで行く。負ぶってやろう」
「いやいい。自分で歩く」
次平は四つん這いになるが、そこで動きをとめた。
「膝もあがらんではないか」
冴は次平の腋に手を差しこみ、軽々と立たせた。有無を言わさず背に負う。
「うお、熱いな。夏の川原の石みたいだ」
冴の背中に頬が触れ、次平は驚きの声をあげた。
「この白装束のせいで、私を雪女と間違えておった」
「本物の雪女は、お前様の半分ほどの大きさだ」
「軽口を利く力はあるのだな。さて、どこに行けばよいのだ」
「社へ。女房が待っとる」
近くで見る社は、強い風に吹き飛ばされないのが不思議なほどに年季が入っていた。
「おゆき、帰ったぞ」
次平の声につかえながら戸があく。引手に指を添えた小がらな女、おゆきを目にし、冴は先ほどの次平の言葉が軽口でないとわかった。
おゆきはおゆきで、冴に目を丸くしている。戸口の上桟を超える背丈にでも、血にまみれた次平にでもなく、冴が自分と同じく異類であることに驚いている。
「このかたに助けてもろうた。済まぬ、まだ名前も聞いておらなんだな」
「冴だ」
「冴様、ありがとうございます」
おゆきが頭をさげた。
「様はいらん。冴とだけ呼んでくれ。私も次平、おゆきと呼び捨てにする」
二人は冴を招き入れ、次平は床板の剥げた隅で火を起こした。鍋に雪を山と盛り、湯を沸かす。蓑は身につけたままだ。おゆきは火から遠い場所に座っている。
「俺らが、どうしてこんな所で暮らしているか不思議だろう」
冴はなにも言わない。まばたきを入れ、声の続きを待つ。次平は鍋を相手に口を開いた。
「言うても信じんだろうが、おゆきは雪女だ。俺は生け贄として、この社に放りこまれた」
次平は腰にさげた魚籠から小魚を取り出し火にかざす。
「凍え死ぬ寸前に、俺に筵や蓑を掛けてくれた女がいてな。それがおゆきだった。雪女と夫婦になるとは、馬鹿な男と思っとるだろう」
「世には龍と契る男もいる。狐を嫁に迎えた話もある」
「そうか。さあ、これを。少なくて済まんが」
次平は湯気の立つ椀と焼いたわかさぎを冴に差し出した。
「いや、いらん。次平が食べよ」
「冴は俺ら二人の所に初めて来てくれた客だ。ささ、遠慮せず」
浅くさげた頭を暫くとめ、冴は受け取った。ふちの欠けた椀には、なずなやしの根がういていた。冷えの張る中では、熱い汁がなによりの馳走だった。
「これをとりに行ったら、やつらにやられてしもうた。いっそあの時、死んだら良かったのに」
しおれる次平に、おゆきが眉根を寄せた。
「またそんなことを。次平よ、わたしと夫婦になどならず、人の世に帰れ。生きていれば、きっと良いこともある」
「俺を心底気遣ってくれたのは、おゆきが初めてだ。ただな、もう生きていても辛いだけだ。近ごろ、ぼうっとうすることが増えてな。苦しまずに死ねそうなのだ。俺はここで、おゆきに見守られて死にたい」
次平は伏せた顔をあげ、頭をふった。
「ああと。済まんな、冴。折角来てもらったのに、辛気臭い話をして」
気にするなと冴は目で合図を送り、食事を終えた。二人に礼を述べ、隅で蹲る。追手や村人の来襲に備え、刀を抱えて目を閉じた。
おゆきと次平はならんで眠りに就く。白の単衣のみで横たわる女と、蓑や筵に埋まる男。夫婦であっても、手を握ることすらできない。
風が吹く。社の板壁を小刻みにふるわせる。時折強く吹き、屋根が軋む。母と二人ですごした小屋とよく似ている。冴は膝に当てた額の奥で、過ぎし日の己を引き出した。風に鳴り、雨が漏る破れ家。それでも十分だった。母は頼もしく、優しく、村人に慕われていた。
「わたしは龍神の子なのか。りう様は龍神の化身やって村の子が言ってた」
母譲りの細面を傾け、さえは問う。よく似た親子だった。娘の切れ長の目を覗く母親の目元も涼し気だ。
「りう様なんて呼ばずに、おりうで良いのにね。あのね、村の人に何度も大雨、大風、大雪を知らせるうちに正体が知れたみたい。日照りがきつい時は、こっそり雨を降らせたり」
問いに真っ直ぐな答えが返されたわけではない。だがさえは、母が龍神だと聞き取っていた。
「どうして助けるの」
「人は助け合って生きていくもの。その輪の中に私も入りたい。なにより、見知った者が困っておれば、力を貸したくなるだろう。親切にしたくなるだろう」
「親切はしたいけど、わたしには無理かも。雨を降らせることはできん」
「そうか。さえには雨は無理か。でも、湧水をさがすのは得意でしょ」
「うん、水がわたしを呼ぶ」
「それが龍神の血を引いている証」
「父様も龍神なのか」
「いや、人だ。私に名をつけ、好いてくれた。『りう』はな、龍神の龍から『り』と『う』をもらってつけた名だ」
「わたしの名は龍神とかかわらんのか」
「どうしたの。今日はよう問うね。さえの名は父様からだ。左兵衛といってな。『さ』と『え』をもらって『さえ』にした」
「何故、うちには父様がおらんのだ」
「戦でいそがしうてな。強い武士なの」
「いつ帰ってくる」




