第四話 風雲児 壱
源蔵の言葉が信じられず、左兵衛は土下座を解き、幅広の背を起こした。額から、めりこんだ石粒が落ちた。
「おれの腕を、切るのですか」
斜めにさす秋の陽が、左兵衛の長い影を作った。汚れきった着物も、影になれば黒いだけだ。
「権一が、十五を迎えたのは知っておるな」
縁側に立つ源蔵は、突き出た腹をひとつ叩き、隣にならぶ小がらな男へと顎をしゃくった。
「倅が一人前になったのだ。今年の大剣の舞いはひと味違う。わかったな」
さすがに、わかりましたとは答えられず、左兵衛は薄くあけた唇をふるわせるだけだった。
権一が素足で庭に飛びおりた。左兵衛を蹴り倒し、足裏で顔を踏みにじる。
「お前の血で、俺の門出に花を添えろ。図体ばかりがでかい木偶の棒が」
片側の頬だけを笑みの形にゆがめ、権一は足の裏をしつこく左兵衛の横面にこすりつけた。満足気に掌で髷をさすりながら。
髪をうなる犬の尾のように、天へとむけて束ねた茶筅髷が権一の自慢だった。この髷を結うことで、権一は武士になったつもりでいるのを、左兵衛は知っていた。
「なんのためにみなしごを十年以上飼ってきたと思う」
左兵衛は、まだ踏みつけにされている。権一の足を嫌がれば、棒で顔や背を打たれる。牛や馬に言うことをきかせるかのように。足で踏まれるほうが、ずっとましだった。
顎が外れるのを防ぐため、歯を食いしばる。目に土が入らないよう、瞼を閉じる。錆びた鎌を舐めた時と同じ味の唾が湧く。口の中が切れたのだろう。何度か飲み下したところで、頬にかかる力が消えた。左兵衛はまた土下座する。脇腹に権一のつま先が刺さった。
「おい、右兵衛」
源蔵が声を張った。
猫背の年寄りが、首を起こした左兵衛の前を小走りで通った。
「さっさとこんか」
肉を打つ音の後に、年寄りが平伏した。地に手をつく。左の腕が欠けている。
「後はこいつに聞け」
源蔵は言い捨てると片頬を上げ、息子とともに奥の間へと消えた。
土気色の顔が、左兵衛の肩のすぐ隣にあった。鼻の穴から細く赤い筋を引いている。
「上手く切られろ。母屋の土間で眠れるぞ」
肘から先のない腕を、鼻血も拭かずに色の悪い顔の前でゆらした。
「腕一本でお屋敷住まいだ。こんな出世はねえ」
ししし、と息だけで笑う口に、前歯はない。
大剣の舞いの後、自分がどうなるのかが見えてしまう。片腕になり、人々の前で怒鳴られ、打ち据えられる。逆らえば、お前たちもこうだと領民に見せつけるために。
左兵衛は、目の前の年寄りから顔をそむけた。喉の奥で熱が渦巻く。これが怒りだと、左兵衛は気づかない。
日が暮れ、左兵衛は納屋の隅で身を横たえた。傾いた柱を視界の隅に留め、腕をさする。どうすれば許してもらえるのか。
左右の手指を曲げ、そして広げる。両手があるのはあと五日。掌の皺を視線でなぞった。眠気はいつまでも訪れず、また指を折り、ゆっくりと伸ばす。何度も何度もくり返すうちに、山の端に接する闇は薄い紫へと色を変えた。
左兵衛は寝藁から背中を引きはがし、からの桶ふたつと天秤棒を手にする。裏山の岨道を踏み、東の空が白んだころ、細く長い滝に到着した。
二十歩ほどでひとまわりできる淵には、清冽な水が湛えられている。源蔵はここから汲んだ水で喉を潤し、食事を煮炊きすると決めていた。
滝つぼのふちに桶を置き、目を閉じた。額を伏せ、手を合わせる。いつもであれば、これから行う殺生への許しを請うのだが、今朝ばかりは、腕を切られないよう念じた。落ちる水に冷やされるのか。滝つぼのまわりは温度が低く、澄んだ空気が漂っている。
目をあけて頷き、作業に移った。手早く枯れ葉と柴を集め、石で組んだかまどに火を起こす。細枝を腰紐にさし、滝つぼから流れ出る沢に足を入れた。水は脛を切るほどに冷たい。
流れを蹴り何度か沢を行き来すると、岩の隙間に手をさしこむ。ふっと左兵衛の頬がほころぶ。抜き出した手には岩魚が握られていた。えらから口に細枝を通し、腰にさげる。わずかな間で五尾とらえた。
流れの中でわたを出し、枝に刺して火にかざす。冷えた手足をあぶっていると、岩魚は香ばしい匂いをたてた。焼き上がったばかりの獲物を、尾びれから丸かじりにする。
旨い。ひんやりとした空気に包まれ、頬の内を熱い魚の身でいっぱいにする。肉も骨も奥歯ですりつぶし、飲みくだしていく。小鳥たちの目覚めの挨拶が、耳に心地よかった。
最後の一尾は小ぶりだったので、頭ごと腹に収めた。ふう、と温い息を吐き、滝つぼの水を両手で掬い口にする。左兵衛の舌は冷たい中に、かすかな甘みを感じとる。もうひと口、と左右で器の形を成した掌を淵へと伸ばす。心の声が、口からこぼれた。
「もうこうやって、水を汲めなくなるのか」
ふう。体の芯を抜くような溜め息だった。左兵衛は頭を垂れ、左右の掌を見る。膝を折り、動かない。滝の音、鳥の声、葉の囁きが耳を滑り消えていく。幾股にもわかれた角が、淵の水面にそっと突き出されたことには、当然に気づいていない。
「どうした。いつもは食い終われば、すぐに水を汲んで帰るのに」
突然話し掛けられ、左兵衛は尻もちをついた。滝つぼになにかいる。頭を飾る一対の角と、顔の形や大きさから、初めは鹿かと思った。水面に顎をのせ、左兵衛に鼻先をむけている。
鹿にしては色が妙だ。淵に湛えられた水を、そのまま映したかのような青色なのだ。漆黒の瞳に吸いよせられ、左兵衛はまばたきもできなかった。
「そう見詰めるな。照れくさいではないか」
思わぬ言葉で、左兵衛の強張りは解けた。頭に血がめぐり、異形の正体に思い当たった。
「龍神様、なのか」
長い鼻面がかすかに上下し、水面に波紋が広がる。




