第二話 さとりと龍神 七
夜のうちに冷えた空気が風となり、竹若の全身を撫でた。髪を剃り落とした頭に、日の出前の清々しさが沁みる。祠に挨拶を済ませ、法天寺へと足を進めるうちに朝の光が白さを増す。冴が新たに巻いてくれた手拭いは、足先にしっくりと馴染み、体の一部のようだった。手早く締めた草鞋の緒の当たり具合も申し分ない。
太陽が顔を出せば、しゃあしゃあと蝉が騒ぐ。城を出た時に鳴いていた蝉が同じなら、両脇に雑木が連なるのも同じ。今日で法天寺に到着するはずだが、竹若には実感がなかった。
「ずっと同じ道を歩いてる気がする」
「花でも咲いていれば、気がまぎれるのにな」
道の左右は木の幹と下草が続く。先に目を遣っても、道と緑の壁のほかは景色らしい景色がない。隙間から見える空は今日も青い。道が幾分広くなり、横に冴が立った。もうすぐ旅は終わる。ちゃりん、ちゃりんと響く錫杖の音が、いつまでも続けばいいのにと願ってしまう。
「いよいよ、大将のお出ましか」
冴の呟きの直後、しゃあしゃあと声を重ねていた蝉が黙った。唐突に巨人があらわれる。竹若は転げるほどに背を反らした。歩数にして二十ほど離れているにもかかわらず、見上げなければ全身が視界に入らない。ほつれた黒の法衣をまとい、くすんだ琥珀色の絡子を首からさげた大入道だった。樹頭を優に超えたひげ面が、青い空を背負い二人を見おろしている。
大入道は、茂る雑木を腰で押し分けて迫る。足を踏みおろすたびに地がふるえた。
慌てる竹若の耳に、まったく怖気のない声がもぐった。
「弓があれば、容易いが」
なにが容易いのかわからない。衣を引き、逃げるよう促そうとした手が止まった。冴が錫杖の金具を外したのだ。ずらりと長い穂が朝の光を拾った。
冴は逃げるどころか、右手に槍を持ち、跳ねるような大股で二歩三歩と大入道との距離を詰めた。左足をひと際大きく踏みこみ、右の腕を鋭くふった。
光の線が巨大な化け物の臍の下、丹田に吸いこまれた。途端に大入道が消えた。
道の真ん中に、喉元を穂で貫かれた大鼬が転がっていた。頭は西瓜を思わせる丸みと嵩を持ち、胴は冴の打ちこんだ槍よりも長い。酒樽ほどもある腹は膨らみもせず、しぼみもせず。焦げ茶の毛が風にゆれるだけだった。
「鼬は化けるのが達者だからな」
穂先に金具を被せ、行くぞとばかりにしゃらんと鳴らす。まだ、竹若の旅は終わっていない。冴の踏み出す足に合わせ、竹若の足も前に出るのだった。
道を覆っていた木の葉は重なりを控え、見通しが利いた。長い下り坂がゆるく右に曲がっている。歩を進めるたびに、少しずつ行く先が明らかになる。木の幹と下草の壁に変化があった。石段が見える。冴が静かに告げた。
「法天寺だ」
上り口から見上げても、石段は木々に呑みこまれ、どこまで続いているのかわからない。冴が錫杖の先で見えない果てをさす。
「山門をくぐれば結界に入り、物の怪に襲われることもなくなる」
「どうしても僕を殺したかったんだね。あんなにたくさん出て」
「私がいつまでも手を下さぬから、又兵衛は物の怪に頼ったのだろう」
手を、下さぬって。
すぐに答えがうかび、竹若は瞼を大きく開いた。足元から、ぷつぷつと冷えた泡がせり上がる。
「最後の仕上げをするか」
錫杖の金具を外し、構える。穂先と竹若の胸が直線で結ばれた。
「抜け」
重く短い命令に竹若はふるえた。冴の胸に目を当て細めるが、やはりなにもわからない。心を読まずとも、吹きつける殺気は、冴がなにをせんとするかを明白に伝える。冴が時折見せた、目の奥のぬくもりはきれいに拭われている。
「抗いもせずにやられるか。武士の意気地を見せるか」
問い掛けると丁寧に答えてくれた声には、決して仕損じることのない自信がうかがえた。
冴は手の内で柄をゆっくりと押し引きする。穂先が近づくと竹若の息は詰まり、遠のけばかすかに安堵する。足先に布を巻いた長くあたたかな指が、竹若の命を奪おうと槍をあやつっている。
あの指に、もう一度触れたい。
冴が前に出ないのは、自分が打ちかかるのを待っているからだ、と竹若は思い至った。
逃げたのではない。戦って負けたのだ。
死に際に恥じ入らぬよう、男の意地が立つよう、せめてもの情けを掛けてくれている。
冴。討ち取った僕を、どうか抱き起こして。
ふるえる手で鞘を払った。反りのない、細身の白刃に覚悟を籠める。
冴になら、殺されてもいい。
せえええ……い。精いっぱいの気勢を発し、袈裟懸けに振りおろす。雷に打たれたように、腕が痺れた。くるりくるり。冴の後ろで、銀の円を描き剣が舞う。草叢に剣が落ちるよりも早く、腹に一撃が入った。
「殺す分の金は、まだ受け取っておらん」
呟きを聞く前に、竹若の意識は冴の掌底により、暗闇へと消し飛ばされていた。
竹若は水浸しで目を覚ました。桶を手にした若い僧侶の後ろには、幾人もが心配をうかべた顔で立っていた。皆、頭を剃り上げ、墨染めの法衣に身をくるんでいる。猿を思わせる老僧が、竹若の横にしゃがんだ。
「草鞋まで盗るとは、念入りな追い剥ぎに襲われたの」
自分が今、どこにいるのかわからない。竹若は背を立て、左右に視線を配る。幾段もの屋根を重ねた塔。大鐘を吊るす鐘楼。黒い瓦の本堂と白い壁の庫裏。様々な建物が、僧たちの頭越しに見えた。何故だろう。鼻を通る空気に、わずかな濃さを感じる。
「法天寺……」
自らの見通しを、竹若は掠れた囁きに籠めた。老僧が、そうだと顎を引く。
「褌いっちょうで倒れておったぞ」
竹若が身につけているのは、下帯と冴が巻いてくれた足先の布だけ。法衣も、手甲も脚絆も、守り刀もない。
「あの、僕は竹若です。ここで槍の修業をするために国を出ました」
「おお、聞いておる。お主がそうか」
長く白い眉を笑みで開きながら、老僧は竹若の肩を打った。
「命があったのは、こいつの御利益かの。お主の褌にはさまっておった」
掌ほどの札には、笹龍胆に流水の紋があった。猿に似た顔がぐっと寄る。
「これを見なければ、寺には運ばなんだ。お主、この紋に心当たりはあるか」
老僧の目には、興味がわかりやすくういている。
「冴の、あ、いえ。御付きの者の小箱にあった紋だと思います」
口に出してすぐ、冴では僧に通じないと気づき言い直した。ところがだ。
「お主。今、冴と言ったか」
目の前の年寄りだけでなく、まわりの男たち全員が身を乗り出した。そして口々に言う。
「大きな女か」「目が切れ長の」「髪が肩くらいで」「信じ難い強さの」
「はい。あの、冴を知っているのですか」
知っているもなにも、と老僧は毛のない頭を掌でひと撫でした。
「冴はな、ここで槍の修業をしたのだ」
冴が法天寺にいた。
「山の祠には行ったのか」
「法天坊ですか」
おお、と一同から声が湧く。
「冴がこの寺にいたころのことだ。山の頂にある祠まで夜に駆け、明け方に戻って来る。そのまま稽古し、誰にもおくれを取ることがなかった」




