第二話 さとりと龍神 六
出立の際、又兵衛は心の内で「従者に殺される」と言った。従者とは冴だ。冴に機会は幾らでもあった。行き交う人のない山道。闇に包まれた夜。今し方、土蜘蛛の糸に絡め取られた時は絶体絶命だった。だが、救い出している。
なにより、冴の力をもってすれば、十歳の子供など容易に仕留めることができる。
竹若は、冴の為すことと又兵衛の言葉の食い違いを、どうしても解き明かせなかった。
「鎌鼬で思い出したが」
冴が竹若に生真面目な顔をむけた。
「又兵衛には、大鼬が憑いている」
突飛な言葉が無理なく竹若の腹に落ちた。
「国の乗っ取りを目論む邪な心に、つけこまれたのだろう。餓鬼はやつが誘いこんでいる」
冴の言を当てはめれば、城に起きた異変のなにもかもに帳尻が合う。さとりの自分が掴み得なかった真実を、冴は見抜いている。人とは思えぬ強さと慧眼を併せ持つ女。冴は、本当に龍神なのかもしれない。
「又兵衛を城から追い出せないかな」
「仕事の依頼か。お代がいるぞ」
「僕、お金持ってない。あ、この服がお礼の代わりにならないかな」
黒の法衣を指で摘まんだ。汗を吸い、よれが激しい。すぐに無理な言い草に気づき、こめかみをかいた。
「これじゃあ、幾らにもならないね」
冴が頷く時、かすかに笑ったのを竹若は見逃さなかった。こめかみで動く指先が頬へと移る。笑みで持ち上がった頬には、思いのほか張りがあった。
頂上への道には角度があり、両脇から緑が減った。岩が目につく。やがて道までもが岩になった。一歩ごとに足を大きく伸ばす。かつり、しゃらんと冴の気配を、背中が受けとめる。
冴を恐れ、疑う気持ちはすでにない。土蜘蛛を倒した時に不審はあらかた消え、鎌鼬を討ち払い、又兵衛に大鼬が憑いていると明かしたころには、すっかり信用していた。
息が切れて立ちどまると、音も止まる。竹若は、夕暮れの空気を味わうように、何度も息を胸に出し入れした。後ろからは、急げとも大丈夫かとも、声掛けはない。ただ、待っている。
冴は優しい。
吐く息にのせて呟くと、これまでまったく気づいていなかった感情が、くっきりと言葉になりあらわれた。
冴が好きだ。
自覚した途端、心の臓から熱を持った血が送り出された。手足の先まで熱くなる。すぐ後ろで、自分を見守っているであろう切れ長の目を思い描くと、胸が締めつけられる。今までとは違った息苦しさに見舞われた。
人の気持ちは見抜けても、自分の気持ちはわからない。さとりとは、なんと役立たずなんだろう。竹若は、小さな拳で胸を強く押さえた。
陽が落ち、菫色の帯が山の端に掛かった。竹若は険路をのぼりきり、今は石造りの祠の前で天へと腕を伸ばしている。岩ばかりの山頂を渡る風は軽やかだ。汗が速やかに乾く。足元をゆるめたくて、脚絆を縛る幅広の紐を解こうとした。
「夜になると冷えるぞ。つけておけ」
たしかに、冴は旅装のままだ。
「冴はここに来たことがあるの」
「ああ、何度も。その祠は法天坊の住まいらしいぞ」
「ほうてんぼうって、法天寺と関係があるの」
「法天寺で槍を教える天狗の名前だ。お参りするか」
道がふた手に分かれた時、杖を倒して行く先を決めた。この祠に行き着くよう、杖が転がったのかもしれない。竹若は神妙にさげた頭の奥で、槍を振るう天狗を思いうかべた。しかしすぐ、冴の姿へと変わった。
「あちらの道をくだれば、明日には法天寺に着く。よく気張ってのぼったな」
いたわりのこもった目をむけられ、竹若は俯いた。浅く口元がゆるむ。
兵糧丸と水だけの食事が、竹若は無性に旨く感じられた。空はすっかりと深い藍に顔を変えている。星が銀砂を撒いたように散り、視界いっぱいにまたたく。
「ここは結界が張ってある。ゆっくり眠れ」
冴が初めて体を横たえた。竹若も倣う。しかし、目を閉じて朝を待とうにも、とある思いが邪魔をした。冴が龍神の血統であると、どこかで信じていたからかもしれない。
気が触れたと思われるのではないか。子供の戯言と嘲りを受けるのではないか。重くふさがった口を開くよう、満天の星が後押しする。
「冴が龍神なら、僕はさとりなんだ」
「人の気持ちがわかるのは、主君として便利だろう」
侮りや嘲りよりも、自分の力を受け入れるよう諭す色が含まれていた。
「さとりだと言っても驚かないんだね」
「山姥と出くわした時、自分を殺そうとしていると言っていたからな」
「人が信じられなくなるんだ。顔は笑ってるのに、心では僕が死ぬのを願ってるんだよ」
「人を容易に信じるのは危険だな」
「そうだよね。裏と表があるものね」
「それでも人は人を頼り、力を合わせて生きていく」
人を頼る、の言葉が意外だった。
「冴なら、自分の力でなんでもできるんじゃないの」
「茶屋に泊めてもらっただろう。それに、この法衣だって誰かさんが作ったものだ。私が布を織り、針仕事をしたのではない」
長い手足を折り曲げ、ちまちまと針を運んでいる冴を想像すると頬がゆるんだ。心の最後の重石が落ちた。
「人にどう思われているか気になって、つい心の中を見てしまうんだ。知ったら知ったで、嫌われないためにはどうすれば良いのか悩む。もう、自分のしたいことがわからなくて」
そうか、と冴が呟いた後、暫く沈黙があった。星のまたたきが聞こえそうなほどの静けさだ。冴の声がそっと夜風にのった。
「さとりの力は、あるほうが良いのか。ないほうが良いのか」
「ないほうがいい。ねえ、冴は牛みたいに大きな土蜘蛛も、見えない速さで動く鎌鼬も簡単に倒したよね。僕の中にいるさとりもやっつけられないかな」
「これは仕事の依頼なのか」
「あ、お礼がいるんだ」
なにか少しでも値打ちのありそうなものはないか。背を立て、体のあちこちに掌を当てた。ぱたぱたと布を叩く音がゆるい風に流される。冴は浅く起こした体を地についた肘で支え、見守っていた。
「これだとお代にならないかな」
鞘と柄が黒の漆で仕上げられた短刀を差し出した。
「守り刀か」
「生まれた時に父上からもらったんだ」
良いとも足りぬとも言わず、無表情で返された。
「足りないなら、あと僕が身に着けているもの全部持っていっていいから」
「ひとつの依頼にはひとつの礼でよい。さあ、もう寝るんだ」
硬い声で言い切り、冴は気配を消した。もうなにを話し掛けても返事をするつもりがないことは、さとりの力を使わなくてもわかった。
願いは通じなかった。しかし、眉と眉の間にのる空気は軽い。さとりをかかえた自分をすんなり受け入れてもらえたのだ。
夜空を渡る天の川をゆっくりと目で追う。流れの外に、ひときわ強く光る星と、ささやかに灯る星が隣り合っていた。明日は法天寺だ。満ち足りた思いを逃さぬよう、竹若は瞼を閉じた。




