第二話 さとりと龍神 五
翌朝、飯と干した梅を馳走になった。出発間際、冴は竹若の足に膏薬を塗り、あらためて手拭いをあてがう。時折触れる指先が、とてもあたたかだった。竹若は草鞋の緒を、幾分慣れた手つきで締め直す。通りで頭をさげて見送る主に、冴が長い会釈をした。
斜めからさしていた陽が高くなったころ、道がふた手に分かれた。右はややくだり、左はのぼりとなっている。
「どちらにする。右は山裾をぐるりとまわるなだらかな道だ。左は岩をよじのぼり頂上へとむかう。右よりも一日、旅を短くできる」
「えっと、僕が選ぶの」
うむ、と冴が顎を引く。
早く着くなら左かな、と思ったところで冴の言葉に考えが詰まる。
「右だと茶屋に泊まり、左なら野宿だ」
冴がいれば大丈夫だと思うものの、体ひとつで夜の闇を迎えるのは理屈抜きに恐ろしかった。
どちらにするか。決めることができず、立ち尽くしてしまう。
「冴が決めてよ」
冴のほうがよく知っているから。と、道を選べぬ自分に心の内で言い訳をした。
「杖を倒せ」
よくわからない言いつけに従い、竹若は杖から手を離した。握りが小石に当たり、左へと転がった。
「山越えだな」
迷わず足を踏み出す冴に、慌てて竹若はならんだ。幾らも行かぬうちに、足元に注意を払わねば、たちまち転ぶほどに木の根や岩が地面を荒らす。道は厳しさを増すだけでなく、しだいに細くなる。やがては横にならぶこともままならなくなった。
「前を行ってくれ」
もう後ろに立たれても、冴が怖くなかった。頼もしく感じる反面、すぐ隣にいないことに心の空白を感じる。
じきに道は行き止まりになった。目の前に岩の壁がそそり立つ。高さは竹若の背丈の三倍を超える。右にも左にもまわりこむ余地はない。首を反らせて途方に暮れていると冴が背中を押した。
「崖をのぼるの」
沈黙の頷きを、素直に腹に落とせない。
「本当にこれ、道なの」
首がまた縦に動く。冴の目は、竹若から離れなかった。
竹若は二度、硬い表面を撫でてから指先を岩の角に掛けた。痛めた足先を窪みにこじ入れる。胆が縮んだのと等しく、手足も竦んでいる。鉛と炭を塗りたくったような岩の色合いが、いっそう体を重くする。のぼりきり、地に尻をついて初めて、汗で背中に衣服が張り付いていると気づいた。
下を見ると、錫杖を背に差した冴が、岩に右手を掛けたところだった。片腕で軽々と体をうかせた。窪みに置いたつま先を支点に、脚が体を跳ね上げる。走るような速さで、竹若と同じ地面に到達した。
「あと、三か所岩場がある。さっきの調子で頼むぞ」
冴の手が肩に置かれ、頬に血がめぐる。
ひとつ、ふたつと崖を踏み越えるたびに、竹若の胸は躍った。次も頼むぞ、と腰を折った冴に目を覗きこまれるからだ。あまりにも素早く顔を寄せるため、鼻と鼻が当たるかと錯覚する。竹若は首から上が熱くて仕方がなかった。
さあ次だ、と勇んで進む。が、最後の壁を前にして、足裏は地面から離れなくなった。高さが二階家の屋根をあっさりと超えていた。例によってまわりこむ道はない。
「これ、のぼるの」
「難所はこれで終いだ。すぐ下を私ものぼる。もし落ちても、とめてやる。さあ行け」
冴に尻を叩かれた。軽くではなく、強い力で。
よおし。拳を握りしめた後、竹若は岩に指を掛けた。崖の果てを見詰め、ただひたすらに腕を伸ばした。
尻を叩く直前、冴はすぐ下にいると言った。つい視線をむけそうになる。やめろと自分に命じた。もし下を見れば、臆病風に吹かれるとわかっていた。冴がいても。
恐れが体に沁みる前に掌で先を探る。置き場を求め、足裏で岩肌をさする。冴の巻いてくれた手拭いが、足先をしっかりと固めている。
見上げれば、岩の端が青い空をくっきりと切り取っていた。空を掴むように、また腕を伸ばす。竹若がなにかに、これほど無心に取り組んだのは初めてだった。人の心を盗み見ては、あれこれ考えるばかりだった今までとは大違いだ。
空と岩の区切りに手が届いた時、深い息が漏れた。膝を岩にすらせて足場をとらえ、太股に力を注ぐ。崖のふちに腹を乗り上げると、急に体が軽くなった。冴が押し上げてくれたのかと思ったが、違う。首や肩に巻きつくものがある。
危ない、と本能で察し周囲に目を遣る。間を置かず、木の幹と幹の間に網を張った、化け物の姿をとらえた。牛ほどもある土蜘蛛が、尻から糸を出している。
「冴、助けて」
竹若の悲鳴を聞き、年老いた猿にも似た土蜘蛛の顔が笑みを刻む。剥き出しになった牙に、竹若は顔をそむけた。
黒の毛に覆われた腹がゆっくりと収縮をくり返す。腹がしぼむたびに糸の太さが増し、竹若に切れ目なく重なった。
土蜘蛛が地におりるのと、冴が岩壁を跳ね上がるのが同時だった。錫杖の金具を外しながら駆け、そのままの勢いで投げた。
竹若の体から力みが消えたのは、冴が土蜘蛛の額から槍を抜いた時だった。形は蜘蛛そのものでも、眉間から噴き出す血は赤い。一瞬で命を絶たれたせいか、土蜘蛛の顔は笑った形のままだ。
道端で腰をおろし、竹若は口を真一文字に結んでいた。絡んだ糸を一本一本、指先で摘まんでは払い捨てながら、度重なる妖怪による襲撃の原因を探った。
「しゃがみついでに、足の手当てをするか」
岩で擦れた細裂きの手拭いには、血が滲んでいた。
「薄皮が破れただけか」
膏薬をのせた指先が傷口を押しても、竹若は眉間に、ごく浅い皺を寄せるだけだった。
冴は片膝を地につき、手をとめない。眉越しに見える切れこみの深い目は、竹若の足先に据えられている。長い睫が、静かに上下をくり返す。
きれいな人だ。竹若の内側にささやかなぬくもりが生じた。
が、やわらかな気持ちはたちどころに消し飛ぶ。強い風のような殺気に、竹若の体は草叢へと押し倒された。冴が肩に立て掛けていた錫杖を手に立ち上がる。
地面と水平に構えた錫杖で左右を突いた。石突で右を。頂部で左を。神速の動きに、遊環はしゃんと切れ良く一度だけ鳴る。錫杖が手の内でくるりとまわった。尖った石突が竹若にむけられる。目をつむる間もなく、冴は石突を繰り出した。きい、と甲高い鳴き声がひとつ。
冴の殺気が消えた。淡い茶色の毛に覆われた細長い獣が、錫杖を胴に通し地面に固定されていた。離れたところに、頭を砕かれた同じ獣がもう一匹転がっている。竹若が両手を広げたほどの大きさだ。前足の先が、軽く弧を描いた刃になっていた。
「鎌鼬だな」
「まったく見えなかった」
「目にもとまらぬ素早い動き。それがこいつらの持ち味だ」
「冴には見えたの」
うむ、と無言で顎が引かれる。愚問だった。見えなければ倒せるはずもない。左右ふた手から襲いかかる凶獣を、冴はまさに目にもとまらぬ素早さで片づけたのだ。
「ねえ冴、どうしてこんなにも妖怪が出るの」
「なにがなんでも、竹若を殺したいやつがいるのだろう」




