第41話 職人の足跡
ガツンッ――!
大理石の床に突き立てられたスコップの重い響きが、ドームの静寂を切り裂いた。
俺は、完璧な微笑みを浮かべるイザベルにも、画面の向こうで絶望に沈む何千万人の視聴者にも、気の利いた演説などするつもりはなかった。
俺はただ一言、短く告げた。
「カオル。画面を繋げ」
「了解ッ!」
カオルが手元のノートPCと俺のデバイスを有線で直結し、キーを一つ叩いた。
ただそれだけの泥臭い連携で、ドームを取り囲む全天周モニターの華美な演出がすべて剥ぎ取られ、世界中のスクリーンへ地方の「現在のリアルタイム映像」が強制的に投射された。
ルタ村の映像が映し出される。
かつて「絶対に無理だ」と吐き捨てていたザキが、一人で汗だくになりながら堆肥を切り返している。
イサウィラの映像。
塩害に苦しんでいた漁師たちが、自分たちの手で排水路のメンテナンスを行い、海風の中で笑い合っている。
続く、テウマ峠と砂漠のオアシス。
ジャンナの高度なシステムに依存せず、人間が自らの頭で考え、自らの手で土に触れ、自然のサイクルの中にしっかりと根を張り直している姿。俺が何かを語る必要はなかった。
イザベルの完璧な笑顔が、微かに硬直した。
「こんな、非効率なやり方が世界を救うというの。私たちのスーパーコンピューターのシミュレーションでは、その土地はとうに限界を迎えて……」
その時、画面がさらに一つのフィードを大映しにした。
ルタ村の小さな子どもが、形は歪で、泥がこびりついた不格好なトマトに思い切りかぶりついた。
三年前に完全に死んでいたはずの土から育った果実。
弾けた赤い果汁が顎を伝い、子どもが太陽のように無邪気に笑う。
ピキッ、と。
静まり返ったドームに、硬質な音が響いた。
イザベルの白く柔らかな手が、最高級の象牙の扇子を真っ二つにへし折った音だった。
彼女はへし折れた扇子をゆっくりと大理石の床へ落とし、自分の両の手のひらを見つめた。
その顔から、張り付いていた完璧な作り笑いがパラパラと剥がれ落ちていく。
「泥まみれの、不格好な果実。私のシステムが何回計算しても、絶対に弾き出せなかった生存の解」
イザベルの瞳に宿ったのは、恐怖でも怒りでもなく、深い自嘲だった。
実は、彼女は気づいていたのだ。知略を尽くしてカイたちを弄び、コンテンツ化してきた中で、薄々感じていた。
中央の支配層は、失敗を恐れるあまり、AIの計算を鵜呑みにして思考を止めていた。
高度なシステムが「この星はもう滅びるしかない」と弾き出せば、それに抗う挑戦すら諦め、エンタメという麻薬で絶望をごまかすことしかできなくなっていたのだ。
何度も失敗し、それでも自分で考えて挑戦する心を、自分たちが真っ先に失っていた。
「私たちは、効率と清潔さを求めて泥を切り捨てた。AIが『不可逆』と言えば、そこで考えるのをやめた。手を汚す理由がなくなったから、手の使い方も忘れた。……そして、泥と一緒に、明日を創る力そのものを捨ててしまっていたのね」
イザベルは、自らの敗北を噛み締めるように小さく笑った。
彼女のその表情には、自分が絶対だと信じていた計算が覆されたことへの虚無感と、同時に「まだやれることがある」と証明されたことへの、奇妙な安堵が混ざり合っていた。
俺はイザベルの前に歩み寄り、砂に突き刺さったスコップの柄を叩いた。
「シミュレーションは作物を育てない。手が育てるんだ」
俺の言葉に、イザベルがゆっくりと顔を上げる。
「滅びのシナリオはもう終わりだ。これからは、ジャンナのその優秀な頭脳と予算を、すべて現場の人間が自立して試行錯誤するための知恵として使え」
イザベルは抵抗しなかった。ただ、憑き物が落ちたような目で、俺の泥まみれの手とスコップを見つめた。
「本当に、忌々しいエンジニアね」
全天周モニターのチャット欄は、完全な沈黙から一転していた。
そこにあったのは、もはや安全圏から見世物を楽しむ観客の言葉ではない。
歪なトマトをかじる子どもの顔と、最高責任者の敗北を目の当たりにし、自分たちの足で立つ地方の民の姿に打ちのめされた、生身の人間たちの静かな熱狂だった。
『俺たち、今まで何も考えてなかった。安全なカプセルの中で、死ぬのを待ってただけだ』
『魔法なんてなかった。でも、俺たちにはまだ、やれることがたくさんあるんだな』
「カイ、カオル……」
レイラとセリアが、言葉にならない声で、俺とカオルの泥まみれの手をきつく握り締めた。
現場の厳しさに一度は心を折られかけていた二人の元エージェントの誇りが、今、完全に蘇っていた。
だが、この世界中が本物の希望に包まれ、本当の開拓が始ろうとしたその刹那。
カオルのノートPCが、ピピッ、と冷徹な警告音を鳴らし、俺たち全員の左腕の端末が、強烈な青い光を放ち始めた。




