第37話 スコップが繋ぐ、新たな契約
ザクッ――。
凍てつく砂漠の夜気に、無骨な鉄の刃が深く砂を穿つ重い音が響いた。
俺は二人の目から視線を外さぬまま、砂丘の中腹に突き立てたスコップの柄に、両手を重ねて体重を預けた。
乾いた風の音だけが、数十秒の完全な沈黙を支配する。
エージェントとしての任務も、焦りも、すべてがその重い鉄の響きの前に一時停止していた。
「レイラ、セリア」
静寂の中、俺はゆっくりと口を開いた。
「俺は、お前たちを置いて、自分たちだけが助かるために元の世界へ逃げ帰るつもりはない」
その言葉に、息を呑んでいたレイラがハッと顔を上げ、セリアの細い肩がピクリと跳ね上がった。
「言ったはずだ、セリア。俺たちはマ・カレシュへ行く。だが、それは逃亡じゃない。俺たちを誘拐し、お前たちを脅して踊らせてきたGECOの喉元に、反撃の楔を打ち込みに行くんだ」
俺は静かにカオルを見た。
カオルは冷えた頬を少しだけ緩め、不敵に微笑んで俺の横に並び立つ。
「中央の運営は、今頃チャット欄の大炎上と株価の大暴落でパニックを起こしているわ。自分たちが洗練された文化人だと信じ込んでいた視聴者たちに、人権無視の野蛮な見世物を楽しむ成金っていう最悪の鏡を突きつけてやったんだからね。――でも、これだけじゃ足りない」
カオルは、俺たちのデバイスを分厚く覆う硬化ポリマーに指先を触れさせた。
システムインフラのプロである彼女の指が、端末の側面に残された極小の物理リセットスイッチを正確に弄ぶ。
「半分だけ、あいつらの回線を開けてあげる。……いい、レイラ、セリア。これはあんたたちへの提案よ。このままGECOの言いなりになって、使い捨てのエージェントとして終わるつもり?」
「使い捨て……?」
セリアが、掠れた声で呟く。
「そうよ。このままカイが連行されたら、お役御免になったあなたたちの農区や海の街がどうなるか、想像がつくでしょ? 奴らは平気で次の新ステージへ移行して、今の場所を切り捨てるわ。……だから、私たちの共犯者になりなさい」
カオルの毅然とした提案が、電波に乗って中央の管理室へとダイレクトに流し込まれていく。
今頃、スピーカーの向こうでオペレーターどもが顔を真っ青にしているはずだ。
だが、あいつらは手出しできない。
ここで通信を強制遮断すれば、世界中の視聴者に対して「隠蔽」を認めることになるからだ。
俺はスコップから手を離し、一歩、彼女たちに向かって歩みを進めた。
「レイラ、俺はお前たちのルタ村を本気で救いたかった。セリア、お前の海の街の塩害を、プロとして本気で解決したいと思っている。その気持ちに、GECOのシナリオなんて関係ない。……お前たちの土地を守るために、俺たちの技術を貸す。その代わり、俺たちが中央の組織の拠点を叩き潰すために、お前たちの立場と情報網を、俺たちに貸してくれ」
ただの見世物のキャストと監視役という、歪んだ関係はここで終わりだ。
これからは、同じ大地を踏みしめる「ビジネスパートナー」として、運命を共にする。
「カイ……」
レイラの琥珀色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
足元の乾ききった砂漠の大地は、落下したその一滴の水分を、あっという間に黒い染みへと変えて無慈悲に吸い込んでいく。
レイラは、その水分の消える速さを見つめた。
もしここでGECOに従えば、自分のこの感情も、カイがもたらした熱も、この涙のように世界に何も残らず消え去ってしまう。
その喪失の恐怖を振り払うように、レイラはギュッと目を閉じ――再び開いた瞳には、エージェントの迷いを捨て去った、明確な光が宿っていた。
「……ふん、本当に、どこまでも生意気な農業バカね」
セリアが、ふいっと顔を背けながら、手綱を握りしめていた冷たい手で乱暴に目元を拭った。
だが、その唇は微かに笑っている。
「エージェントの規約違反なんて、今さら怖くもないわよ。あんたが私の畑の塩を完璧に抜いてみせるって言うなら……その口出まかせ、信じてあげるわよ」
セリアは手綱を握り直し、一歩前に出た。レイラもまた、力強く頷いてセリアの隣に並ぶ。
中央への恐れも、嫉妬も、すべてが「GECOをハメる」という一つの目的のために昇華された瞬間だった。
「よし、交渉成立ね。――世界中のみんな、お待たせ」
カオルが満足そうに頷き、硬化したポリマーの殻を力任せにバサリと引き剥がした。完全な電波の復旧だ。
『――ピピッ! 通信完全復旧! マスター・カイ、システム、オンライン!』
脳内にフロの電子音が響き渡ると同時に、俺たちの左腕の端末が眩い光を放ち、24時間生配信の極小カメラが完全に再起動する。その瞬間、画面の向こうで固唾を呑んで見守っていた何千万人の視聴者たちのチャット欄が、一気にとんでもない速度で流れ始めた。
俺は、砂に深く突き刺さったままのスコップの柄を握り、力強く引き抜いた。ザラリ、と冷たい砂が刃から滑り落ちる。
その重い鉄の感触を肩に担ぎ直し、俺はレンズの向こう――何千万人の視聴者と、完全に主導権を奪われて大パニックに陥っている中央の運営に向けて、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「待たせたな、視聴者の皆さん。――砂漠編のエンディングは、俺たちが書き換える。ここからは、マ・カレシュへの強行軍だ。目を離すなよ」
大炎上するチャット欄を背に、俺たち4人はマ・カレシュへ向かって、堂々と歩き出した。
運営の用意したシナリオを、根底からテラフォーミングするための、逆襲の第二幕が始まったのだ。




