第35話 月下の追跡、三つの熱量
夜の砂漠は、昼間の地獄のような熱さが嘘のように、肌を刺すような冷気に包まれていた。
広大な赤茶けた砂丘を、俺とカオルはマ・カレシュを目指して歩き続けていた。
「……カイ、寒くない? 大丈夫?」
吐く息を白く染めながら、カオルが俺の顔を覗き込んできた。
「問題ない。夜の冷え込みは想定内だ」
そう答えながら、俺はカオルの小さな肩が夜風に僅かに震えているのを見逃さなかった。
俺は無言で足を止め、背嚢から日中の強い日差しを遮るために使っていた、薄手のターバン用の布を取り出すと、彼女の肩に掛けようとした。
「……ちょっと、なめないでよ」
カオルは身をよじって布を押し返し、不敵に笑ってみせた。
「別のエリアの都市再構築サバイバルじゃ、崩落したビル群を毎日何キロも走らされてたんだから。これくらい、なんてことないわ」
頼れる幼馴染だが、こいつだって理不尽に拉致され、情報システムインフラの知識を武器に孤独に戦わされてきた被害者なのだ。
「すまない、カオル。俺がGECOに応募なんてしなければ、お前を巻き込むことも――」
「またそれ?」
カオルは俺の腕を、手袋越しの手でパシッと強めに叩いた。
「あんたのそのクソ真面目な罪悪感、日本に置いてきたと思ったのに。……もう謝るの禁止。これからは二人で、あのクソ運営に盛大な違約金を請求しに行くんだから」
俺は小さく息を吐き、突き返されたシートを背嚢にしまい直した。
凍てつく夜の空気の中で、胸の奥に確かな熱が灯るのを感じていた。
カオルの存在が、俺のプロとしての意地に、もう一つの強烈な動力を与えてくれていた。
その頃、数キロ後方の砂丘の上。
二頭のラクダが、荒い鼻息を撒き散らしながら月明かりの砂を蹴り上げていた。
レイラは、いつも被っている村娘のフードを外し、容赦なく吹き付ける冷気に顔を晒していた。
彼女の耳の裏に貼り付いたGECOの通信パッチが、火傷しそうなほどの異常な熱を持ち、中央のオペレーターたちの怒号を皮膚越しに直接伝えてくる。
『レイラ! キャスト二人の電波がロストしたわ! 早く確保しなさい!』
組織の命令が物理的な熱となって肌を焼く。
だが、レイラの意識はそこにはなかった。
彼女の右手はラクダの手綱を握り、左手は腰に帯びた短剣の柄に、無意識のうちに触れていた。
砂漠のオアシスの護衛として生きてきた彼女の癖。
そしてかつて、カイが自分に向かって「お前はこのパーティに欠欠かせない一流のプロだ」と言ってくれた時に、力強く握りしめていたものだ。
短剣の冷たい感触が、あの日のカイの体温を蘇らせる。
カオルという、カイのすべてを知る女性の出現。
組織の命令に従うだけのエージェントなら、ここで引き返すのが「正解」だった。
だが、短剣を握る指先に宿った熱だけは、どうしても誤魔化せなかった。
「追いつくわよ……ッ!」
誰の命令でもない。
突如現れたあの黒髪の少女に、カイを連れ去られるわけにはいかない――その激しい焦燥だけが、彼女にラクダの腹を強く蹴らせた。
並走するセリアは、砂漠の夜の冷気の中で、ひとつ奇妙なことに気がついていた。
自分の鼻が、自動的に「風上」を探っていたのだ。
海育ちの身体に染み付いた、意味のない癖。
どこに風が抜けているか確認すれば、波の方向が読める。
波が読めれば、船を出す時機が分かる。
だが、見渡す限りの砂漠に、波はない。
(……私は今、何をしているの)
ラクダの激しい揺れの中で、セリアは手元の手綱をギリッと握り直した。
中央が用意した「ツンデレ海の女」というキャラクター。
カオルが現れた瞬間、その役は完全に無意味になった。
演じようにも、もう言葉が出てこない。
海から切り離され、役割すら失った自分が、なぜこんな夜の砂漠を必死に走っているのか。
脳裏に浮かぶのは、イサウィラで、カイが泥まみれになって作った「布まみれの不格好なジョウロ」だ。
彼はセリアという「役」ではなく、彼女の根底にある技術と海への想いに、ただ真っ直ぐに頭を下げた。
あの時、手のひらに触れた泥の感触と水の冷たさが、今も指先に消えずに残っている。
役が剥がれ落ちたセリアの胸の奥で、ただ一つの真実だけが熱を放っていた。
三つの全く異なる熱量が、凍てつく月下の砂漠を猛烈なスピードで肉薄していく。
やがて前方、砂丘の稜線に、二つの小さな人影が浮かび上がった。
「――見つけたッ!!」
セリアとレイラの声が重なり、静寂の砂漠を鋭く切り裂いた。




