後悔させない女
「どうぞ」
そっとスクリュー・ドライバーを差し出した澪に頭を下げる。待ち合わせ場所は琥珀亭だったが、着いたのはノブよりも遼のほうが早かった。
「今日は澪さん一人なんですね」
気を紛らわせたい一心で話しかけると、澪は「えぇ」と穏やかに笑う。
「親父はお袋とデートです」
「仲がいいんですね」
「デートなんていっても実際は酒屋巡りですよ。酒馬鹿なんです、あの二人は」
澪が肩をすくめたとき、扉が開いて呼び鈴が鳴り響く。遼が思わずびくりと体を震わせると、ノブが店に入ってきたところだった。
「悪い、待たせたな」
「いえ……」
遼の心拍数がぐんと跳ね上がる。
「澪、テーブル席に移っていい?」
「えぇ、どうぞ」
遼たちがテーブル席に腰を落ち着ける合間に、澪は出したばかりのスクリュー・ドライバーをテーブル席に移してくれた。
「俺、車だからウーロン茶で」
ノブはそうオーダーすると、煙草に火をつける。やがてウーロン茶を置いた澪が遠ざかるのを見計らって、遼が話しかけた。
「あの、ノブさんの話って?」
ふうっと一息ついて、彼は口を開く。
「実は今、アイラの旦那さんがこっちに来ているんだ」
「えっ?」
目をぱちくりしていると、彼が紫煙を吐き出しながら「アイラを迎えにね」と、言葉を続ける。
「すぐに二人で東京に帰ると思う」
「本当に?」
「アイラは旦那さんに物足りなさを感じているけど、それって甘えられるからさ」
ノブがふっと笑った。
「自分をいつでも優しく包んで許してくれるのがわかるから、甘えているだけ。アイラに必要なのは燃えるような想いよりも、旦那さんみたいな愛情だ。あいつだって、本当はわかってるんだよ」
そう話す顔に漂うものをなんといったらいいだろう。少し切なそうでもあり、それでいて慈しむようでもある。彼にとって藍良はやはり家族なのだ。
「じゃあ、どうしてノブさんを今更、自分のそばに置きたがったんですか?」
結婚したからには、一度は自分の気持ちに踏ん切りをつけたはずだ。なのに、ネット上で久しぶりに顔を見たからといって、それだけで昔の想いが燃え上がるものなのだろうか。そう考えた遼に、ノブが煙草をもみ消しながらため息をついた。
「アイラが言うには、俺の顔が昔と変わっていなかったからだそうだ」
「どういう意味ですか?」
「さぁな。ただ、放っておけないとは言われた」
ノブの表情から藍良が汲み取ったものがわからず、遼は眉をひそめる。
「まぁ、どのみちアイラは旦那さんが連れて行く。これでお前に迷惑をかけることもないと思う。いろいろすまなかったな」
「あ、いえ、あの、それはよかったです」
口ではそう言ったものの、どうも腑に落ちない。あの藍良が本当に納得して帰るのだろうか。もうノブのところへ戻ってこない保障はあるのか。なにより、ノブがもう怯えずに生きていくことができるのか、疑わしかった。しかし、遼が口を挟むことではない。
「……で、お前の用って?」
不意に話をふられ、慌てて太一から預かった紙袋を差し出した。
「これ、ありがとうございました」
ガサゴソと紙袋の中を確認し、ノブは「あぁ、なんだ」と呟く。
「あの二人とはもう何もないのか?」
「あ、はい」
「なら、いい」
隣の椅子に紙袋を置き、ノブが右の眉をくいっと上げた。
「いい奴だったな」
「へ?」
「お前の男だったやつ。太一だっけ? ここには自分たちが勝手に来ただけだから、お前は叱らないでやってくれって更衣室で頭下げてたよ」
「そうなんですか?」
「あぁ」
思わずちょっと切なくなって、遼は伏し目になる。
「なんとなくだけど」と、ノブが前置きして笑った。
「あいつが別れたことを後悔する気持ちもわかるな」
「でも、それってあとになってからです。別れるときは確かにつき合ったことを後悔させていたんですよ。一緒にいるってどんなことか、私はわかっていなかったんです。大切な人の笑顔がいつだって本当は一番大事なのに、自分のコンプレックスやわがままばかり優先させて、彼をいたわることができませんでした」
じっとノブの目を射るように見つめる。
「……私、今度は自分を選んでくれた人に、絶対に後悔させません。『笑わせてほしい』なんてもう言いません。そんな甘えたことを言わずに、こちらから笑わせます。相手が笑ってくれれば、私も自然に笑えますから」
まるで探り合うように視線がかち合った。先に目をそらしたのは、ノブだった。
「お前にはいい奴が見つかるよ」
遼は目頭が熱くなるのを必死に堪えながら呟いた。
「ずるいです。とどめを刺さない優しさは残酷です」
声が掠れて、それ以上口を開いたら嗚咽が漏れ出そうだった。
ノブが何か言おうと口を開いたとき、彼の携帯電話が鳴った。二回、三回とコールが鳴るがノブは動かない。だが、五回目にもなるとさすがに携帯電話を取り出した。そして、画面を見たノブの表情が凍りつく。
「……もしもし。何かありましたか?」
その声がこわばっている。やがて息を呑んだ彼の唇から「え?」と、驚きの声が漏れた。
「アイラが消えた?」
心臓に氷水を浴びせられたようだった。ノブはしばらく電話の相手と何か話し合ったあと、重苦しい表情で携帯電話をしまう。
「アイラの旦那さんが風呂に入っている間にいなくなったらしい。明日、朝一番の飛行機で東京に帰るつもりだったらしいんだけど」
「ノブさんの実家にもいないんですか?」
「あぁ」
「心当たりは?」
「ない。俺のアパートの場所は教えていないし、友達のところにも行っていないそうだ」
ノブは青ざめた顔をしたまま立ち上がり、澪に「会計を」と短く言った。
「悪い。急用ができたんで、近いうちにまたゆっくり来るよ」
笑みを繕ってそう言い残し、ノブは遼の背に手をまわしてかばうように連れて行く。
「送るよ。お前は家にいろ。今日は飲み屋街にいない方がいい。俺もお前も」
ノブは車に遼を乗せ、エンジンをかける。動き出した車窓の景色は夕闇に浸食されかかっていた。雲は分厚く、今にも雨が降り出しそうだ。
藍良はどこに行ったのか。遼はそう考え、すぐにため息を漏らした。答えなんて一つしかないのだ。彼女はノブのところに来るだろう。アパートの場所だって、いくらでも調べることはできる。
ノブはこの後、一人で彼女を探しに行くのだろうか。こうして遠ざけられるしかない自分がちっぽけに思えた。何もできないのだ。ビルが梓に抱いていたもどかしさが、少しわかった気がした。けれど、ビルはそばにいることだけでも許されていたのだから、まだいい。いつしか、遼はきつく唇をかみ締めていた。
運転するノブが、ふと口を開いた。その横顔は苦渋の色を浮かべている。
「わかってほしいんだ。アイラがいる限り、俺のそばにいればずっとこんな恐怖がつきまとう。どこに離れても、不意に出くわすんじゃないかって怯えることもある。俺だけならともかく、お前にまでこんな思いはさせたくない。かといって、アイラを見捨てるわけにいかないんだ。わかっちゃいるんだよ、縁を切るのが一番早い話だって。でも、俺にはそうできないんだよ」
そして彼は「あいつも俺の家族なんだ。頼む、わかってくれ」と、懇願するような声で言った。
それは、遼への返事だった。今の彼には遼を遠ざけることで精一杯なのだ。だが、遼は覚悟を決めたように囁いた。
「私は怯えるあなたをどうしたらほっとさせられるか、必死に考えます」
するっと涙が溢れ、彼女の服に染みを作った。
「そばにいさせてくださいとは言いません。だけど、遠くにも行きたくない。あなたのために何ができるか想うことくらいは許してください」
ノブはしばらく黙っていたが、やがて長いため息をつく。
「俺には余裕がない。お前を目一杯、笑わせることもできない。俺は自分の恋人には満ち足りた想いで過ごさせてやりたいと思う。でも、今は無理なんだ」
遼は力強く頷いた。自分の選ぼうとしている道が、自分の無力さに泣き、声が届かない寂しさに苦しむものだということもわかっていた。
「それでも、私は簡単に去れるほど、器用じゃないんですよ」と、おどけて無理やり笑って見せた。だが、そう思って細めた目から、また涙が溢れてしまった。
「……俺はずるい」
少しの沈黙の後、ノブが赤信号を見つめながら、長いため息を漏らした。
「お前と向き合う自信がなくて逃げているのに、手放したくないなんて」
「えっ?」
ぽかんと遼の口が開いた。
「もし、何の不安もなくお前を選べたら、絶対後悔しないよ。本当はキラにだって渡したくない。けれど、今のままじゃ駄目なんだ」
戸惑う遼が、喜んでいいのか、怒るべきなのか考えあぐねる。
「そんな言い方、ずるいです」と、やっと呟くと、ノブは乾いた笑いを浮かべた。
「だよな。すまない。忘れてくれ」
そのとき、携帯電話の着信音が鳴って、思わず肩がびくりと震えた。今度の着信は遼の携帯電話だ。
「もしもし」
「リョウ? 今どこにいる?」
声の主はキラだった。
「えっと、移動中なの。これから家に帰るところで」
「誰かと一緒か?」
「あ、うん。あの、ノブさん」
一瞬、電話の向こうで息を吸い込む音が聞こえた。
「そうか、ノブがいるなら話が早い。あのな、ちょっと気になったから」
キラの声は少し落ち着きがない。
「どうしたんですか?」
「さっき、和久井さんが店に来てね。どうもアイラがリョウのことを聞きまわっているみたいだって教えてくれたんだ」
「私のことを?」
「うん。それに、アイラが今日、開店前にうちの店に来てさ」
遼は思わず息を呑んだ。
「キラさん、本当ですか? アイラさん、ロータスに来たんですね?」
慌てて問いかけながらノブを見ると、彼の唇が言葉なしに『やっぱり』と動いた。
「あぁ。でも、ノブが休みだって言ったら、すぐに出て行った」
「実はアイラさんがいなくなっちゃったみたいで」
「はぁ? 子どもじゃあるまいし、飲み歩いてるんじゃないの?」
「それが、明日東京に戻るんで、旦那さんと一緒にいたらしいんだけど、いなくなったって連絡があったの」
電話の向こうの空気がピリッと張り詰めたのを感じた。
「リョウ、家に戻ったら電話しろよ」
珍しく、キラが強い口調で言った。
「なんだか気になる。ちょっと、ノブに代わって」
ノブに電話を差し出すと、すっと車が車道脇に停められた。携帯電話を受け取り、ノブがキラと話し出す。
「……あぁ、わかったよ。ちゃんと玄関まで送るから心配するな」
ノブは携帯電話を遼に返すと、「今日、家族は?」と訊ねた。
「兄は同窓会で出かけてます」
「家に一人か?」
「はい」
「そうか。家に着いたらキラに電話してやれ。すごく心配してる」
「ノブさんはどうするんですか?」
「いったんアパートに戻るよ。そのあとでアイラの旦那さんとうちの実家にまた連絡取ってみる」
ノブはそう言って、カチカチと音を鳴らしていたハザードランプを消す。それから遼の家の前で車を停めるまで、お互い何も言葉を交わすこともなかった。
「ありがとうございました」
遼が礼を言って車を降りようとすると、ノブもシートベルトを外す。
「ちゃんと家に入るのを見届けるよ」
「すみません」
遼は小さく礼を言い、玄関に続く敷石に靴音を響かせた。家屋が真っ暗なところをみると、兄はまだまだ帰ってくる気配がないようだ。玄関が近づき、バッグから鍵を取り出そうとした瞬間だった。
「やっぱり、一緒にいたのね」
ビクッと全身が震え、思わず悲鳴を上げそうになった。背後のノブが咄嗟に遼の肩を抱き寄せる。声のしたほうを見ると、庭先にある桜の木にもたれて立つ藍良の姿があった。あまりの驚きに声も出ない遼をかばうように、ノブが強ばった顔で前に進み出た。
「なぜ、ここがわかった?」
暗がりに浮かぶ藍良の顔は青白く、目だけがやけにぎらついていた。ふっと鼻を鳴らしてあざ笑う。
「人の口には戸が立てられないのよ。特に飲み屋街なんてね。その女が田村道場の娘だって知るなんて簡単なことよ」
芝生を音もなく踏みつけ、藍良が歩み寄る。その姿は月明かりにゆらりと照らされて、異様なほど美しく恐ろしかった。




