後悔させる女
「ありがとうございました」
店を出た客に深々と頭を下げた遼は、晴れやかに顔を上げると、一息ついて店に戻った。
「リョウ、これ頼む」
ノブがカウンターを片づけながらグラスを寄せた。
「はい」と短く返事をし、手早くグラスを洗う。流しの横ではキラが客の相手をしているのが目に入った。
今日のロータスにいるのはノブとキラ、そして遼だった。
遼には少し気まずいシフトだったが、ビルのロッカーにぶらさがる鍵を見たとき、ふと『みんな、いずれはここを去るかもしれない』という思いに駆られた。そう、少なくともビルは来年にはいなくなってしまうのだから。
今の時間は今しかない。彼女はパシッと両手で自分の頬を叩き、深く息を吸った。今、ここにいるのはバーテンダーのリョウで、ハルカではない。いつかこのメンバーでカウンターに立てなくなるというなら、立てるうちに彼らとの時間を大切にするべきだ。
誰か一人でも欠ける前に、胸を張れるようなバーテンダーになりたかった。琥珀亭で過ごしたたった数時間が、そんな意識を植えつけていたのだ。
仕事が始まると、ノブもキラもいつも通りでいてくれた。その胸中はわからないが、少なくともお互いただのバーテンダーという顔をしているのが遼を安堵させた。
ノブはコースターをポケットにつっこみ、カウンターを拭いている。この光景もいつ見られなくなるかわからないと、唇を噛む。彼は『行かないよ』と言ったが、どこにそんな保証があるのか。そして一番切ないのは、それを止める権利は誰にもないということだった。
妙な胸騒ぎがして仕方ない。心のどこかに穴が開いて何かがこぼれ落ちていくのを、彼女は必死に見ない振りをした。
時計の針が真夜中の十二時をまわる頃だった。呼び鈴が鳴り、咄嗟に「いらっしゃいませ」と顔を向けた遼が凍りついた。
「ほら、早く」
猫撫で声を上げながら入ってきたのは、美香だった。そしてその後ろには太一もいる。硬直する遼を見て、美香が声を出さず笑った。一方の太一は目を丸くし、やがて美香を睨めつける。
「お前……だから、ここに来たいって言ったの?」
「なに? 素敵なバーだって聞いたからよ」
白々しく答え、美香がそそくさとカウンターに腰を下ろした。太一は気まずそうに遼をちらりと見たが、しぶしぶ隣に座る。
遼は妙な汗をかくのを感じながら、彼らを呆然と見つめていた。美香は他の男と一緒にいると聞いたが、噂にすぎなかったのだろうか。太一がもう潮時だと言っていたのは建前なのか。なぜよりによって、わざわざこの店に来るのだろう。
何も知らないキラが「いらっしゃいませ」と、笑顔でおしぼりを渡すと、美香が「あっ、すいません」と微笑む。その語尾が媚びるように伸びるのを聞き、思わず顔をしかめそうになった。太一の顔は明らかに青ざめている。
美香はおしぼりで手を拭きながら、まるで値踏みするように店を見渡していた。緩やかに大きく巻いた茶色の髪を垂らし、頬にぽんと乗せられたピンクのチークとワンピースが華やかだった。
「何になさいますか?」
キラの問いに、美香が「どうする? 私、ファジー・ネーブルにしようかな」と太一の腕に寄り添う。だが、太一は彼女の手を黙って押し戻した。
「なんでもいいよ」
むすっと呟く太一の反応が面白くないのか、美香は苛立たしげな顔を見せたが、すぐにキラに向かって笑みを繕った。
「ファジー・ネーブル二つで」
「かしこまりました」
キラがふっと遼に顔を向ける。
「リョウ、氷を足してくれ」
「はい」
短く答えてアイスペールに冷凍庫から氷を移していると、ガラガラという音に紛れて美香の声が耳に届いた。
「ふぅん。やっぱり、ちゃんと名前で呼ぶのは太一くらいね」
「何が言いたいんだよ」
「別に」
そう言いながらも、美香はすっかり拗ねている顔をしている。
遼は、ふと視線を感じて厨房を見た。物陰からノブが手招きしているのだ。キラに氷を渡してから奥に顔を出すと、ノブがカウンターを目で指した。
「知り合いか?」
「私をふった男と、その彼女です」
彼は「ふぅん」と遠目に太一を見て、そっと耳元で囁く。
「お前、趣味悪いのな」
「はぁ?」
くくっと笑い、ノブが「ほら、持っていけ」とお通しを差し出した。
自分の趣味が悪いというなら、ノブも趣味が悪いことになるのだが。遼は思わず唇を尖らせたものの、すぐにぎゅっと顔を引き締める。いたたまれないが、仕事は仕事だと自分に言い聞かせた。
カウンターではキラが手早くファジー・ネーブルを作り上げ、二人に差し出していた。
「すごい。これ美味しい!」
美香の黄色い声を聞きながらポーカーフェイスをまとって、お通しを手にカウンターに戻った。
「どうぞ」
遼がお通しを差し出すと、美香はふっと笑みを消してグラスを置く。そして、つうっとお通しを指で向こうに押しやった。『食べたくない』という意思表示らしい。それを食べても食べなくてもチャージ代は変わらないのだから好きにすればいいと、遼は肩をすくめたいのを堪えてカウンターの端に遠ざかる。
太一はお通しにも手を出すことはなく、ぼそりと言った。
「なぁ、ここでなきゃ駄目なわけ?」
「この店、素敵だって評判なの。いいじゃない」
ふうっとため息を漏らし、太一が「で、話ってなに?」とぼやくように言う。
「うん、あのね、今日こそはっきりさせようと思って。最近、あの子ばかり見てるけど、どういうこと?」
「誰のことだよ?」
美香がちらりと遼に視線を走らせる。
「わかってるでしょ。あなたがちゃんと名前で呼ぶ子よ。どうしてみんなと同じように呼ばないの? どうしていつもあの子を探してるの?」
「そんなことないだろ」
美香がぐっと太一を睨む。
「あるわよ。あなた、どういう顔で彼女を見ているか知らないでしょう?」
その声には嫉妬が滲み、ひしひしと遼への敵意が伝わる。彼女がこの店を選んだのは遼への牽制だろうと察することができたし、太一を懲らしめるつもりにも見えた。最近、別の男といるのも、やきもちをやいて欲しいからかもしれない。
「あの子が綺麗になったから惜しくなったわけ?」
「バカ言うなよ」
「そうね、あの子が綺麗なわけないわね。男にずいぶんだらしなくなったって話だし」
美香の声がわざとらしく張った。遼はむっとしながらも、そう思いたいなら思えばいいと開き直り、カウンターの隅でボトルを拭き続ける。
太一はうんざりした顔で髪をかきむしった。
「お前さ、何をいいがかりつけてんのか知らないけど、あいつは関係ないだろ。もう終わったことだし」
「そう? 本当に? まだ終わってないんじゃないの?」
遼の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。彼女が問い詰めれば問い詰めるほど、太一の面子がつぶされ、心が離れていくのが目に見えている。もし彼が本当に美香を好きだとしたら、痛くもない腹を探られて傷つきもするだろう。だが、当人はそれすら気がつかないほど嫉妬に囚われている。
「終わってるよ。あいつの中では終わってる」
「あいつの中でってことは、太一の中では終わってないってことよね」
太一がぐっと美香を見据えた。
「そりゃ、後悔はしているよ。ちゃんとあいつを見てやれなかったって」
「今更? あれだけ私に甘いこと言っておいて?」
彼の言葉は美香のプライドを傷つけたらしく、その声がわなないていた。
「そうだな。ごめん」
「謝らないでよ!」
美香の顔は怒りに歪んでいる。
「私が聞きたいのはそんな言葉じゃない」
「ごめん。ずっと話そうと思ってたけど……」
「違うって言ってるでしょ。私は、あの子の前でちゃんと私が好きだって、私を選ぶって言い切って欲しいのよ」
太一が苦笑した。
「それってさ、そこまでしないともう俺の言葉は信用できないってことだよな」
押し黙る美香に、太一がそっと呟いた。
「少なくとも、あいつはお前みたいに誰かを巻き込んだり、人を落とすことはしない。それに、いつでも俺を信じてくれた。俺、お前のこと確かに好きだったよ。あいつにないものがある気がして、惹かれた。けど、俺が求めているものは結局あいつの中にあって、それを誰かに先にみつけられたのが男として悔しい」
すっと太一が頭を下げた。
「ごめん。見誤った俺が悪い。別れてくれ」
そう言った途端、派手な水音が響き渡った。雫がぽたぽたと太一の髪からしたたり落ちる。美香が彼の頭にファジー・ネーブルを浴びせたのだ。
「お客様!」
キラが慌ててタオルを手に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
キラの問いかけにも、太一は頭を上げない。美香が怒りに肩を振るわせ、言葉が出ないまま酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせている。やがて遼めがけて、カウンターの中に入ろうとした。
だが、厨房から出てきたノブが立ちはだかる。
「どいてよ! なによ、あんた。用があるのはあの女よ!」
金切り声を上げた美香にも動じず、ノブが低い声で言った。
「ここから先はご遠慮願います」
冷たい声に、遼とキラは思わず顔を見合わせた。口調は穏やかだが、今、ノブの胸中は怒りで満ちていた。
「大変申し訳ございませんが、当店のカクテルは召し上がっていただくもので、他のお客様に浴びせるものではございません。それがご理解いただけないようでしたら、今後の入店はご遠慮願います」
美香は悔しそうに唇を噛んでいる。追い討ちをかけるように、キラがそっと美香に顔を寄せて囁いた。
「うちのリョウに用があるなら、俺たちがききますよ」
美香が何か言い返そうと口を開く。だが、二人の鋼の様な視線に気がつき、吐き捨てるように叫んだ。
「二度と来ないわよ!」
キラを押しのけ、バッグを鷲づかみにして出て行く。あとには頭を下げたままの太一が残った。遼はそっとキラの手からタオルを取り、太一の頭にかける。
「なんであんなこと言ったのよ。あんた悪者じゃない」
ため息まじりに言うと、太一は俯いたまま「ごめん」と消え入るような声で呟く。遼は思わず力一杯タオルで太一の頭を拭いた。
「うわ!」
思わず顔を上げた太一は「ハルカ?」と、目を丸くしている。
「しゃきっとしなさい!」
まるで母親のように叱る遼に、太一はふっと眉を下げた。
「うん。ごめん」と呟き、太一はノブたちに深々と頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。後片づけは俺にさせてください」
キラが困惑してノブを見る。カウンターの中で黙っていたノブが、ふうっと長いため息をついた。
「とりあえずその格好じゃどうしようもないな。俺の予備のシャツを貸すんで、こちらへどうぞ」
ノブが太一をカウンターの奥にある更衣室に促す。
「えっ、そこまで厄介になるわけにはいきませんよ」
躊躇する太一の背中を、キラがぽんと叩いて微笑んだ。
「せっかくだから、どうぞ。頭もベタつくだろうから、いったん流すといいよ。そんなんじゃタクシーだって乗車拒否だぜ」
「すみません」
流しで髪を水洗いしてから、太一は更衣室へ消えていく。恐縮のあまり丸くなった背中が扉の向こうに消えるのを見届け、キラが遼に訊ねた。
「あの女が言ってた『あの子』ってお前?」
「そうね。あれ、別れた男だから」
「ふぅん。お前、不器用なのが好きなんだな」
「へ?」
「後悔するくらいなら別れなきゃいいのに。あっ、でも別れてくれたから俺は感謝すべきか」
「何を言ってるの」
思わずかっとなる遼に、キラが耳打ちする。
「顔が赤いよ。可愛いね、ハルカ」
「今はリョウよ!」
赤面する遼を見てキラはけらけらと笑い転げていたが、思いついたように話題を変える。
「そういえば、ビルから聞いた?」
「うん。ビルも梓さんもカナダに行っちゃうのね」
二人の転機は素晴らしいことだが、やはりどこか寂しいという感情は堪えることができなかった。しゅんとした遼をよそに、キラがファジー・ネーブルまみれのカウンターを拭きながら言う。
「まぁ、みんなそれぞれの道を行くもんさ」
「キラさんもいつかはロータスからいなくなるの?」
彼は汚れた布巾を置いて、今度はモップを取り出しながら答える。
「俺さ、カメラが趣味なんだけどね。最近、昼間は週に何度か知り合いのカメラマンのアシスタントをしているんだ。結婚式とか七五三とか、そういうイベント事の記念撮影だけどね。基礎から教えてもらっているんだけど、いずれはカメラマンとしてみっちり働かないかって言われてて」
キラはそう言って、カメラを構える手つきをして見せた。まるでファインダーに遼をおさめるように。
「お前も撮ってやるよ」
「キラさんもいなくなるんですね」
「おや、寂しがってくれるの?」
「仲間ですから」
「俺とずっと一緒にいれば、ロータスを辞めても寂しくないよ」
押し黙る遼に苦笑したキラは、モップの柄に寄りかかって切なく笑う。
「嘘。今の忘れて」
モップを洗う水音を聞きながら、遼は唇を噛んだ。キラの思いに甘えている自分に嫌気がさす。希望がなくても想い続けるというのは辛いことだ。それでも彼は耐えてくれている。
このままではいけないのだと俯いたとき、更衣室から太一が出てきた。ノブの白いシャツは、太一には少しサイズが大きかったが、こざっぱりとした顔をしていた。その手には汚れた服の入ったビニール袋を抱えている。
「ご迷惑をおかけしました」
太一はモップを片づけたキラに深々と礼をする。
「いや、いいんですよ。せっかくだから、一杯飲んで帰ったら? 他にお客さんもいないし」
「そんなわけにはいきません。すぐに帰りますから」
すっかり首をすぼめる太一は、かつて見たことがないほど小さくなった。そのとき、遼の声が凜と響く。
「太一、私の仕事見ていってよ」
「え?」
「あんたが私をかばってくれたとき、嬉しかった。礼だと思って、私のカクテル飲んでって。あんな噂なんて根も葉もないこと、証明してみせるわ」
まだカクテルで濡れたままの椅子を手早く拭き、遼はカウンターに入る。
「バーテンダーだもの、私」
太一は思わず目を細める。目の前にいるのは、彼の知らない遼の顔だった。今まで見たことがないほど潔く、気高い気さえする。
太一がゆっくり席に着くのを見たノブが、アイスペールを差し伸べた。遼が思わずふっと目を細めると、ノブも静かに微笑んでいる。その笑みは『よく言った』と言葉なしにねぎらうようだった。
「何がいい?」
遼の問いに、太一は照れくさそうに鼻を掻く。
「……俺、バイオレット・フィズしか知らないから」
「かしこまりました」
グラスを取り出しながら、遼は思わず口元を緩ませた。『バイオレット・フィズ』という言葉が、彼女の脳裏に忘れかけていた記憶を呼び戻す。
つき合い出して間もない頃、太一のアパートで一緒に飲んだことがあった。買い出しに行った太一は、遼が『色が綺麗だ』と誉めたバイオレット・フィズの缶をかごに入れた。しかし、飲んでみると、遼よりも太一のほうが気に入ってしまい、結局笑いながら彼の缶チューハイと交換したのだ。太一はそれ以来、バイオレット・フィズの缶を見かけるとレジのかごに入れるようになった。
バイオレット・フィズのベースはジンだ。あの綺麗な紫色はパルフェタムールというリキュールによるものだと、遼はロータスに来て初めて知った。
シェーカーにジン、パルフェタムール、レモンジュース、シュガーシロップを入れ、遼はすっと呼吸を整える。そして、心をこめてシェーカーを振った。ゆるやかに手を止め、氷の入ったグラスに紫色をした酒を注ぎ、仕上げにソーダで満たし、軽くステアする。
「バイオレット・フィズでございます」
すっと差し出すと、太一はそっと口をつけた。しんと静まるカウンターで、彼はふっと笑みを漏らした。
「すげぇや。俺の知ってるバイオレット・フィズとは全然違う」
遼が思わず苦笑すると、太一は顔を上げ、切なそうに呟いた。
「……俺の知ってるハルカでもないや」
一気に遠く見えるのは、カウンター越しだからではない。寂しげに細められた太一の目が、そう言っていた。
「ハルカはこの仕事、好きなんだな。なんとなく伝わるよ」
「少しは強くなったのよ。あんたのおかげで」
「俺もなれるかな」
太一がそっとグラスを置き、カウンターの上で手を握りしめている。
「あのさ、俺、さっきみたいにお前に叱って欲しかったんだと思う。しゃきっとしなさいなんて言ってくれる女、お前くらいだし」
「えっ?」
「俺、母親と疎遠なんだよね。気づいてたかもしれないけど」
遼はこくりと頷いた。太一が母親とうまくいっていないのは、なんとなくわかっていた。話題に全然のぼらない上に、何気なく訊いても、いつも話をそらされていたのだ。
「だから、はっきり叱ってくれるお前が嬉しくて、同時に甘えていたんだと思う」
「私は、自分のことで手一杯で、あんたに優しくできなかったわ」
「いや。いつも俺を信じて待っててくれたよ。俺はそれに甘えたんだ」
小さなため息が漏れ、同時にグラスの氷がカランと音をたてた。
「だけど、そのうち自分の弱さをさらけ出したら、お前に見捨てられるんじゃないかって気がして息ができなくなった」
「うん」
「そのとき、美香が『私なら受け止める』って言ってくれたんだ。けど、実際は『情けない』って幻滅されるばかりでさ。お前だったら同じ場面でも『しょうがないな』って笑って背中を蹴飛ばしてくれたのにって思う自分がいたんだ」
「失礼ね、いくら私でも押しても蹴飛ばしはしないわよ」
思わず遼が口を尖らせると、ノブが声を出さずに笑っている。
「美香に『母親じゃあるまいし』って言われたとき気がついた。俺はまず求める先を間違えていたんだ。ハルカは、それでも俺が望むものをくれようと頑張ってくれたんだって。きっと、無意識に俺が求めるものを察知してくれていたんだなって思った」
「でも、それじゃどのみちダメじゃない。私は女だもの。母親じゃない」
「うん。だからさ、お前に母親みたいな姿ばかり求めて、女の部分を探そうとしなかった俺も悪かったんだ」
ぐいっとバイオレット・フィズを飲み干し、彼は立ち上がる。
「会計をお願いします」
ノブがそっと伝票の切れ端を渡すと、太一は財布から千円札を何枚か差し出して深々と頭を下げた。
扉の向こうまで見送ると、太一は急に振り返って眉尻を下げた。
「美香はお前に見せつけたかったんだと思う。ごめんな」
「いいのよ。過ぎたことだし」
「お前のバーテンダー姿、かっこよかったよ。あんな噂に振り回されてごめんな」
「謝ってばっかりね、あんた」
「うん、情けないな。本当、後悔してるよ」
「私はしてないわ。あんたと別れたから、私はここにたどり着いた。だから、感謝してる」
それを聞いた太一の目が細くなった。
「うん。俺もさ、ハルカと別れたから気がついたことがあるよ。今度、母親に連絡とってみる」
「そうしなよ。次はちゃんとうまくつき合える人、見つけなよ」
太一は初めて、白い歯を見せて笑う。
「バイオレット・フィズ、最高にうまかったよ」
「ありがとうございました」
深々と礼をすると、目の前にある太一の靴が向こうを向いた。足音が遠ざかり、聞こえるのは街のざわめきだけになった。遼が顔を上げたときには、太一の姿はなく、ノブが扉を開けたまま立っている。
「自分をふった男に後悔させるなんて、なかなかだね」
「盗み聞きですか」
口を尖らせたが、ノブは涼しい顔でこう言った。
「バイオレット・フィズのカクテル言葉、知ってる?」
「カクテル言葉? 花言葉みたいなものですか?」
「そう。バイオレット・フィズのカクテル言葉は『私を覚えていて』だ。あいつは知らずに頼んだと思うけど」
ニッと笑って彼は店の中に戻っていった。中からキラの「もう店じまいしようぜ」という声が聞こえてくる。
遼はふっと侘びしさにかられて唇を結ぶ。はたして、あのカクテルは太一の心に刻まれただろうか。太一がバイオレット・フィズを飲むたびに、自分を思い出すのだろうか。いや、もしかしたら今までもそうだったのかもしれないが。
「私を覚えていて」
そっとなぞるように、口に出してみた。おそらく、その望み通りになる予感がした。バイオレット・フィズを作るたび、太一を思い出すはずだ。臆病で、強くなりたくてもがく、ちょっと情けない男。だけど優しい人だった。
そう考えて、ふっと笑う。別れを一つ乗り越えたと思っていた。けれど、本当は今がそのときかもしれない。そんなことを思った。
それから数日もたつと、大学で太一と美香が別れたことはすぐに噂になっていた。しかし、別れた理由は誰も知らないようだった。太一が別れた女に未練があったなど、プライドの高い美香は口にしたくないだろうし、太一もわざわざ公言する性格ではないからだろうと、遼は考えていた。
講義が終わると、遼の携帯電話にメールが入っていた。差出人の名前に思わず眉根を寄せる。『研究室六六一二号で待ってる』という短い連絡をくれたのは、太一だった。
がやがやと話し声の飛び交う廊下をすり抜け、敷地の南にある建物に向かう。喧噪から逃げるようにエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押した。ふっと上昇する気圧の変化を身に受け、一体何事だろうかと首を傾げる。
六階の廊下はしんと静まりかえり、ひんやりとしていた。指定された研究室の扉を開けると、窓際で太一が待っていた。遼は少しの懐かしさを覚えながら、中に入る。ここは太一が昼寝をするのによく忍び込む研究室であり、別れを切り出された場所でもあった。逆光の中、太一が気まずそうに笑う。
「この前はすまない」
「いいよ、もう」
太一は手にしていた紙袋を「これ、あのバーテンダーさんに返しておいて」と差し出す。袋の中をのぞくと、ノブのシャツが入っていた。
「ありがとうって伝えて」
「うん、わかった」
「……あのさ、俺、あの人にシャツは返さなくていいって言われたんだ」
「え? そうなの?」
「うん。だけど、そうもいかないし」
太一がじっと遼を見つめる。
「お前を変えたの、あの人だろ?」
「へっ? なんで?」
不意な言葉に驚くと、太一が笑った。
「わかるよ。一緒にカウンターに立っている間、お前の雰囲気が柔らかくなった。それに、あの人がお前を見る目もね」
「ノブさんが私を見る目?」
「うん。大事なものを見る目だよ」
「そうかしら。もしそうなら仲間だからよ」
遼が目を伏せると、太一が「参ったな」と鼻を掻いた。
「ほら、色っぽい」
「もう!」
「お前の『女』の部分に火をつけたのはどんな奴だろうって思ってたけど、敵わないや。俺はあんなに大人じゃないし『男』にもなりきれていない」
「どういう意味?」
「あの人、俺にこうも言ったんだ。シャツを返さずにいれば、ハルカにこれ以上近づく理由もなくなるだろうって」
「へっ?」
「あの人、お前のこと『ハルカ』って呼んだぜ? 笑顔なのに目は笑ってなくてさ。あんな牽制初めてだ。大事にされてるんだな」
思わず遼の顔が赤くなる。
「あの人とつき合っていくのは大変だな」
「そうね。手が届かないけど、頑張るわ」
「あれ? 手、届いてないの?」
「そうよ」
「じゃあさ、手が届く前に俺がちゃんとした男になったらより戻そうか」
「ふざけないで。あんたを応援するのはね、私がつまらない男を選んだ女に成り下がりたくないだけよ」
太一が愉快そうに笑っている。しかし、すぐにすっと顔を引き締め、こう呟いた。
「うん。ありがとう。あの人よりもいい男になってみせるよ」
「できるかもね。一時は私が選んだ男だもの」
すがすがしい笑みを浮かべ、太一は「じゃあな」と研究室を出て行った。
一人残された遼は、窓から札幌の街並みを見渡し、思わず頬を緩めた。ノブが牽制したのは、きっと自分がもう泣かないようにという配慮からかもしれない。しかし、そんなことをされたら自分を抑えきれなくなる。
「覚悟してよね」
ふっと口角をつり上げ、彼女は携帯電話を取り出した。呼び出し音を聞きながら、相手が出るのをじっと待つ。
「もしもし」
耳に響くのはノブの声だ。
「ノブさん、今日、会って欲しいんです」
渡したいもの、届けたい言葉、そして伝えたい気持ちがある。だから、会って欲しい。そんな思いをこめた遼に、ノブは少し沈黙し、やがて口を開く。
「あぁ。わかった。俺も話があった。今日はお前もロータス休みだろ? 待ち合わせしよう」
あっさり形勢逆転だ。遼はさっきまでの強気がしゅんと萎えて、途端にそわそわし始める。紙袋を持つ手は、いつしか汗ばんでいた。




