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バタフライプリンセス  作者: 深水千世
14/19

スティングを胸に

 その日は朝から曇天だったが、大学の講義を終えて千歳駅からロータスに向かう途中で、とうとう雨が降り出した。ロータスまではあと五分ほどの距離とはいえ傘が欲しくなり、目の前のコンビニに駆け込む。

 売り場のビニール傘を手にレジに並んでいると、背後からこそこそと囁きあう女の声がした。

「ねぇ、あの人よね。ほら、ロータスの」

「へぇ。キラってあんなのがいいんだ。男みたいじゃない」

 これから出勤する飲み屋街の女性だろうと目星はつく。だが、振り返る勇気もなかった。遼の心を落ち込ませたのは、自分をかばったキラまで中傷されることだった。

 釣り銭を受け取って、足早に店を出ようとする。そのとき、入り口にある雑誌コーナーから「リョウ」と、声をかけられた。

「あっ……」

 そこにいたのはビルだった。彼は手にした本を棚に戻して歩み寄る。

「よかった、傘を買おうか迷っていたんだ。入れてよ」

「あ、うん。もちろん」

 そう答えながらレジのほうを振り返ると、嫌味を言っていたとおぼしき女たちが二人を盗み見ている。どちらも金髪に見えるほどブリーチをかけた巻き髪で、つけ睫毛が黒々としている。スナックというより、ガールズ・バーに向いている出で立ちだった。

 ビルが気まずそうな遼の顔色に気がつくと、そっと促した。

「さぁ、行こう」

 遼が傘を広げると、ビルはすっとそれを手に取った。

「暗い顔だね」

 傘を傾けながら微笑むビルの声は柔らかい。遼はすがってしまいそうになる衝動をぐっと堪えた。

「……そんなことないよ」

「もしかして、ノブとアイラさんのこと? それともキラとの噂を気にしているのかな」

 ぎょっとしてビルを見上げると、彼は「どっちもかな」と笑った。

「昨日、ノブが僕とキラにも事情を説明してくれて、巻き込んですまんって頭を下げたんだ。特にキラには噂になるようなことをさせてすまないって詫びてた。そこまでしなくていいのにね。それに、キラにしてみれば噂になったってちっとも構わないだろうし。君のことは本気だって知っているでしょ?」

 遼は思わず俯いた。

「それでも、さっきの人たち、私を見て嫌味を言ったわ。そういう風に言われるのって、私のせいよ。キラさんの面子を潰しちゃった」

「馬鹿だなぁ、リョウ」

 ビルがふふっと微笑む。

「悪く言われるってことは、君は素敵なんだよ」

「えっ?」

「嫉妬されてるんだからね。本当にキラの趣味が悪かったら笑い者になるんだ。だけど、リョウは素敵だからそう言われるんだよ」

「ずいぶんポジティブね」

「僕の見た目は外国人だから、じろじろ見られたり、こそこそ何かを言われたりするのは慣れてるからね。そう考えなきゃ参っちゃうよ」

 ビルが金色の毛先をつまんで、あっけらかんと言った。

「よく『ガイジンだ』って声が耳に入るんだ。せめて『外国人』って言って欲しいな、僕は。まぁ、ジレンマはどのみち感じるけれど。ほら、僕ってハーフだけど生まれも育ちも日本だからさ、心は日本人なわけ。だけど、馴染みにくい姿だから困っちゃうよね」

 ビルの話す日本語が流暢なせいで、一緒にいる遼にはさほどそんな気もしないのだが、身近な人が差別されている現実に動揺した。だが、当の本人であるビルは穏やかな顔つきだった。

「人の目を気にしていてもしょうがないよ。そんな小さいことで嫉妬してくるような奴らなんて、誰も君に傷をつけられない。だって、リョウは誰が何と言っても素敵だからね。だから胸を張って。人の噂も七十五日っていうじゃない。特に飲み屋街じゃいっときは騒がれるけど、すぐにみんな飽きちゃうから七十五時間くらいかもよ」

 思わず遼が笑うと、ビルがすっとブルーの目を細めた。

「リョウはスティングって知ってるかい?」

「ううん」

「とてもいいアーティストでね。『Englishman in New York』って歌があるんだ。僕はイギリス人じゃないし、ここはニューヨークでもないけれど、この歌にいつも自分を重ねるんだ。人の目に負けそうなとき、これを聴くんだよ」

 そして、ぽつりとこう言った。

「多分、今の君と似ているけれど違う。同じ境遇にあって同じ思考があるなら別だけど滅多にわかってくれる人はいないからね。だけど、この歌が一番近い気がするんだ。聴いてごらんよ」

「ありがとう」

 遼はさっきまでの暗い気持ちが少し軽くなったのを感じ、「そうよね。いつも通りでいいんだわ」と、口の中で呟く。

 安堵すると同時に、いつも穏やかなビルも何かと闘うことがあるんだという当たり前のことに驚いていた。彼は常に穏やかであり、そういう姿を連想させることはなかったのだ。

「胸を張ってね。きっと勇気出るよ。リョウはとびっきりの女の子だから」

 ビルはそう励まし、遼に歩幅を合わせながら傘を寄せる。彼の向こう側の肩は濡れていた。

「そうだ、リョウ。今度の定休日、予定ある?」

「ううん。どうしたの?」

 きょとんとすると、彼は「話があるんだ」と小さく頷いた。

「どう思われるかわからないけど、伝えなくちゃいけないことがあってね」

「うん?」

「僕はね、他の誰かにどう思われるか気にしているより、自分の大好きな人たちを傷つけずに過ごすだけで精一杯だよ」

 ロータスの前までたどり着いたとき、彼はそう言って傘をたたむ。

「その日はワタルにも話を聞いてもらうつもりだから、三人で飲みに行こう」

 遼は階段に足をかけながら、また何かが一つ動き出す予感を抱いていた。『始まるものは勝手に始まるのだ』というワタルの言葉が思い出された。


 その日の口開けは和久井だった。にやにやしながら、いつもの席から遼に話しかける。

「リョウ、聞いたよ。修羅場なんだって?」

「やめてくださいよ。そんなんじゃありません」

 苦笑しながらおしぼりを差し出すと、彼は意外にも「わかってるよ」とあっさり引き下がった。

「ここのメンバーの仲がいいのは見てりゃわかるし、駐車場でアイラの姿を見た奴もいる。なんとなく察しもつくさ。しばらくは噂の種になって後ろ指さされるかもしれないが、受け流せばいいよ」

「和久井さん、オーダーの仕方が意地悪な人だと思ってましたけど、本当はいい人なんですね」

 すると、和久井が「参ったな」と眉を下げる。

「俺は面白いことは好きだが、無責任なことは嫌いなんだよ」

 ノブたちが彼を癖のある客だと思いながらも嫌いになれない理由がわかった気がして、遼が思わず微笑んだ。すると、和久井は眉を上げて「へぇ」と驚いている。

「……リョウ、お前の本名なんていうの?」

「ハルカです」

「そうか」と、彼は嬉しそうに微笑み、快活な声でこう言った。

「今日はアードベッグにしよう。ロックだ」

「あれ、ウイスキーですか? 今日はカクテルじゃないんですね」

 拍子抜けした遼に、和久井が肩をすくめて見せた。

「だってお前、最近堂々としてきちゃってつまんないんだもん」

「えっ?」

「前みたいにおどおどしなくなって、こなれてきたってことだよ」

「あ、ありがとうございます!」

「ハルカか。いい名前だけど、もう『リョウ』って呼んだほうがロータスにはしっくりくるな」

 遼は思わずはにかんだ。居残り練習の成果が出たことを、今すぐにでもノブに報告したかった。真心こめてカウンターに立っていれば、見ていてくれる人は見ている。酒の知識や技術だけでなく、噂に踊らされずに人柄まできちんと見ていてくれる人もいるのだ。遼は嬉しさのあまり、カウンターの中で跳びはねるところだった。

 和久井のお通しを取りに厨房へ行くと、ワタルがお通しとは別にチョコレートを小皿に盛っていた。

「これも和久井さんにお出しして。あの人、実は甘党なんだよね」

「へぇ。知りませんでした」

「うちのリョウを認めてくれてありがとうってサービスだよ」

 思わず涙が出そうになった。ワタルはそんな遼に白い歯を見せたが、すぐに話題を変える。

「そういえばビルから聞いてる? なんでも次の日曜に話があるっていうから、よそに飲みに行くけど大丈夫?」

「はい。どこに行くんですか?」

「ちょうど行かなきゃいけない店があったから、そこにしようと思ってるんだ。『琥珀亭』っていうバーなんだよね。一本向こうの通りにあるんだけど」

「バーですか」

 思えば同業者のところに飲みに行ったことがない。少し身構える遼に、ワタルが皿を差し出しながら笑う。

「心配いらないよ。うちとは古いつき合いの店でね。ちょうど新しいバーテンダーが入ったからお祝いに行かなきゃならないんだ。そうだな、彼はリョウと同い年なんじゃないかな。いい店だから楽しみにしてて」

 ワタルが『いい店』と言い切るバーとはどんな店なのか、好奇心が沸き起こる。さらに同い年のバーテンダーがいるとなると、がぜん親近感が湧いた。

 お通しを差し出すと、和久井はチョコレートを一目見てにやりとした。彼は「ワタルも丸くなったもんだ」と、ちょっとからかうような口調でビターチョコレートをウイスキーで流し込んだ。

「和久井さん、琥珀亭って行ったことあります?」

 酒に通じている彼ならきっと知っているだろう。そう思って訊いてみると、やはり和久井は「あぁ。いい店だよ」と、即座に頷いた。

「なに、リョウ行ったことないの?」

「はい」

「行ってみるといいよ。勉強になるぜ。ここらじゃ老舗だからな」

 敷居が高そうだと怯む遼をよそに、和久井は呑気にアードベッグのグラスをくるりと揺らして、こう続けた。

「なにせ、ここのオーナーの修業先だからね」

 遼は思わず肩をこわばらせていた。


 定休日がきた。待ち合わせ場所のロータスに遼が到着すると、店先には既にワタルとビルが立っていた。

「すみません、お待たせして」

 ワタルがニッと笑う。

「うん、五分待ったから一杯目はリョウのおごりね」

「ワタルは、さっき来たばかりでしょ」

 ビルが肩をすくめて、「行こう」と、遼を促した。

「あの、キラさんとノブさんは来ないんですか?」

 琥珀亭へ向かいながら遼が訊くと、ビルが「うん」と頷く。

「キラにはもう話してあるし、ノブは用事があるって」

 安堵と落胆が一気に押し寄せた。どぎまぎしなくていいと思う反面、会えないことが残念にも思う。そんな遼を、ワタルがふふんと笑う。

「どっちが来なくてそわそわしているの?」

 ワタルはどう見ても面白がっている。遼が答えずに口を尖らせると、彼はそしらぬ顔になり鼻歌を歌い出した。ビルはそれを見て笑っていた。

「着いたよ」

 遼の口から、思わず感嘆の声が漏れた。ワタルが指差した先で、年代物の木製の扉が外灯に照らし出されていた。その灯りは店の名にふさわしい琥珀色をしており、古びた真鍮の看板が店の歴史を物語っている。

「いらっしゃいませ」

 店に入った遼たちを、優しい声と呼び鈴の音が出迎えた。

 中にいたのは二人の男だった。カウンターに立つバーテンダーは髪の生え際に少し白いものがある男で、穏やかな笑みを浮かべている。もう一人のバーテンダーは若いが、二人とも面影がそっくりだった。

「お待ちしてました。お久しぶりです」

 そう落ち着いた声で歩み寄る若いバーテンダーは、とても涼やかで端正な顔をしていた。どこか女性的な柔らかさを醸しだしているものの、強い目をしている。

「澪、元気そうだね」

 ミオと呼ばれた若いバーテンダーが「おかげさまで」とワタルに微笑み、彼らをカウンターに案内した。ワタルは奥から二番目の席に真っ先に腰を下ろし、その隣に遼が、ビルは一番入り口に近い方に座る。

「今日はワタル君が口開けだよ」

 そう言って年上のバーテンダーがおしぼりを差し出した。年の頃は志帆と同じくらいに見える。

 ワタルは湯気のたつおしぼりを受け取り、「澪が働き出したっていうんで、楽しみにしてたんだ」と微笑んだ。

「お手柔らかに頼むよ」

 ワタルとのやりとりは親しみあるもので、旧知の仲のようだ。おどおどする遼の背中を、ワタルが不意にぽんと叩き、年上のバーテンダーに紹介した。

「タケルさん、彼女はリョウ。うちの新人です」

 慌てて遼が「よろしくお願いします」と頭を下げると、年上のバーテンダーがにっこり笑う。

「あぁ、志帆ちゃんから聞いているよ。俺は松中尊です。よろしくね。こっちは息子の澪。最近、うちで働き出したばかりで」

 澪はちょっとはにかんで礼をした。遼が慌てて頭を下げる。彼は同い年と思えないほど落ち着いた物腰をしていた。

 琥珀亭はこの辺りでは昔からやっているバーで、酒屋やバー仲間にも顔が知れている。澪が働き出したのは一月前のことで、ワタルは酒屋経由でご祝儀としてビール一ケースを届けてはいたが、実際に顔を出すのは久しぶりだった。ワタルが遼に「飲み屋ってのは仲間のつき合いも大事でね」と囁く。

 琥珀亭は上品で落ち着いた佇まいだった。ずらりと並ぶボトルが見る者を圧倒するものの、不思議と堅苦しく感じない。店内に足を踏み入れれば、そこはもう琥珀亭という世界であり、ロータスともまた違う次元だ。同じバーでも店によってこうも空気が変わるものかと、遼は店を見渡して驚いていた。

 ふと、尊がバーボンのボトルをワタルの前に置いた。ネックには札がついていて、ワタルの名前が記されている。中身は残り少なく、もう二、三杯分しかなかった。

「俺はこれをロックでいいや。尊さん、新しいボトル入れてください。ビルとリョウは好きなの頼んでいいよ。それとも、俺のボトルで飲む?」

 ビルは即座に「うん。同じもので」と答えた。だが、遼はうずうずした目でバックバーを見回している。ワタルがそんな彼女の姿に唇をつり上げる。

「リョウはカクテルかな。せっかく来たんだから、尊さんの腕前を見なきゃ勿体ないだろ」

「はい」

 尊を真っ直ぐ見据えた彼女の目が輝いているのは照明のせいだけではない。尊が思わず眉を下げた。

「かしこまりました。何にしましょう?」

「……ジン・トニックでお願いします」

 一番シンプルだが、店のこだわりが見えやすいカクテルを頼んだ。初めて遼がバーで飲んだカクテルでもある。その隣でワタルが声を上げて笑った。

「いいね。そういう挑むような目。リョウもバーテンダーになってきたな」

 遼はじっと尊の手つきを目で追いながら、自分が思うよりバーテンダーの仕事が好きなのかもしれないと感じていた。もっとバーテンダーについて知りたいと思う自分がいる。

 尊はふっと懐かしむような顔で、そんな遼を見つめた。

「あぁ、なんで志帆ちゃんがリョウさんを気に入ったかわかるな」

 ワタルが「どうしてです?」と面白そうな顔をして口を挟んだ。

「似ているからね。バーテンダーになった頃の彼女と」

 尊が冷凍庫から真っ白に冷えたジンを取り出しながら笑う。

「彼女もね、俺がカクテルを作るのをまるで親の敵みたいな目で見てきたものだよ」

「私、そんなに険しい顔をしていますか」

 遼が思わず赤面すると、尊はアイスペールから氷を移しながら、「いいんだよ。君はきっといいバーテンダーになる」と言った。

 尊の手つきに、思わず感嘆のため息が漏れる。他愛もない所作だが、バーテンダーとなった今では彼が比較的小さい氷からグラスに詰めているのがわかる。そうするほうがステアしやすいとノブが教えてくれたのだが、オーナーがここで修行していたのだから、琥珀亭の流儀がロータスに受け継がれているのも当然だった。

「志帆ちゃんはね、俺の妹分なんだ。アキラさんの店に雇われた子だったけど、うちの奥さんが妊娠している間は琥珀亭を手伝いに来てくれてね」

 遼は『アキラ』という聞き慣れない名前にきょとんとした。ワタルがそんな遼を見て「あぁ」と思い出したように言う。

「遼はまだ会ったことがないよね。暁さんってのがうちの本来のオーナーだよ。志帆さんは彼の奥さんなんだ」

「そうなんですか。じゃあ、ここで修行したっていうのは、その人ですね」

 尊が「はは」と笑いながらライムをカットする。

「俺の兄弟子みたいなものでね。ずいぶん世話になったよ」

 そう言う尊の隣で澪がウイスキーを手際よくグラスに注いでいる。最近働き始めたとは思えない手つきに、遼は感嘆と悔しさを覚えた。動きに無駄がないだけではなく、グラスを差し出す姿に余裕さえ見えて、働き始めの自分とつい比較してしまう。

 尊のステアはビルが思わず英語で賞賛を漏らしたほど綺麗だった。早いのに、それでいて丁寧なのだ。その当たり前がどれだけ難しいか、遼はいやというほど知っている。

「なんだか、今すぐ帰って練習したくなりました」

 ため息を漏らす遼に、尊が噴き出した。

「そんなこと言わず、せめて一杯だけでもお召し上がりください」

 グラスが出そろい、乾杯が交わされる。ジン・トニックが喉を流れると、思わず恍惚とした。キンと冷えたカクテルが喉を通るたびに沸き起こる爽快さと鼻に抜けるジンとライムの香りが快い。

「美味しいです」

 心から言うと、尊はまるで少年のような照れ笑いを浮かべた。

「ありがとうございます。何年この仕事をしていても、その一言が本当に嬉しいよ」

 遼は思わず顔を綻ばせた。気さくで飾らず、春の日だまりのような温かい笑みに、無性に和む。この琥珀亭自体はきっちりとしたオーセンティック・バーで一見すると敷居が高そうな店なのに、嫌な圧迫感がないのは彼の人柄だろう。

 ビルがグラスを置き、しみじみと遼を見つめた。

「リョウはバーテンダーが好きなんだね」

「うん。自分との戦いだけど、とびきりの時間が沢山あるもの。どこまでやれるか楽しみよ。ビルもそうでしょ?」

 すると、彼は意外にも首を横に振った。

「僕も嫌いじゃない。だけど、ずっと続けるつもりはないんだ」

「えっ?」

 ワタルが口を開いた。

「ビルは元々、期間限定で働く予定なんだよ」

「どういうこと?」

 ビルはちょっと口ごもりながらこう言った。

「僕はカナダに留学するつもりなんだ。その資金を貯めたいと思って仕事を探していたらキラからロータスを紹介されたんだよ」

 思わず目を丸くした遼に、ビルが力強く頷く。

「僕は僕のルーツを確かめに行くんだ。日本生まれ日本育ちの僕だけど、この体にはカナダ人の血も流れている。カナダを知ったとき、僕は本当に自分が立ちたい場所がどこか、わかるんじゃないかって思ってね」

 青い目の奥に強い意志が燃え上がっている。

「僕はね、スティングの歌を聴いて誓ったんだ。自分の居場所がどこなのか知ろうってね。自分の根っこを知れば、どこにいても強くなれる気がして」

 そこで言葉を切ると、彼はふっと姿勢を正す。

「それでね、今日話そうと思ったのはそのことなんだ」と、ビルはワタルの目をじっと見つめ、きっぱりと言った。

「実は予定よりも早いけれど、来年には向こうに行こうと思うんだ」

 その瞬間、遼の胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。ワタルが静かに口を開く。

「何か予定が早まるようなことでも?」

「うん。それはね、リョウも関係していることなんだよ」

「えぇ? 私?」

 目を丸くした遼の手を取り、ビルがぎゅっと力を込めた。

「リョウ。本当に君に感謝してるんだ」

「ちょっと、どういうこと?」

 たじろいだ遼に、ビルはふっと目を細めて「アズを救ってくれたから」と言った。ぽかんと口を開けた遼の横でワタルも首を傾げている。

「アズって、キラの姉ちゃん? なんかあったの?」

 ビルは梓と相川の一件を手短に話す。

「あぁ、そりゃあキラがリョウに懐くわけだよね」

 納得したと言わんばかりのワタルだったが、ふっと眉間に皺を寄せた。

「で? それがどう関係してくるの?」

 そのとき、ビルの頬が少し赤らみ、照れくさそうな笑みを浮かべた。

「僕、アズとつき合ってるんだ」

「はあ?」

 遼は思わず出た大声に、慌てて口をふさぐ。一方のワタルは「へぇ」となぜか感心したように呟いていた。

「なるほどね。最近、雰囲気がさらに柔らかくなったなと思ったんだ」

「ワタルさん、そんなこと思ってたんですか? 私なんて、ちっともわかりませんでしたよ」

 遼が興奮していると、ワタルが眉を下げた。

「だって、リョウはノブしか見ていないもの」

 真っ赤な顔で絶句した遼に、ビルが噴き出す。彼は面映ゆそうに、金色の透けるような睫毛で何度も瞬きし、ほんのり染まった頬を緩ませていた。

「隅に置けないわね。一体いつの間に? もう、参っちゃうわ」

「リョウ、それ、おばさんくさい」

「なんとでも言ってください。もうびっくり!」

 遼はそう言ってジン・トニックをがぶ飲みする。今夜はいくら飲んでも酔えそうになかったが、心地よい興奮だった。

「彼女もカナダに一緒に行くんだよ。職場復帰してもいいんだけど、彼女も僕のルーツを見たいって言ってくれてね。これから準備をするんだけど、ビザはすぐ取れると思う。カナダにいる祖父が僕らをホームステイで受け入れてくれることになっているんだ。祖父とゆっくり会うのも久しぶりだし、彼のためにも早く会いに行きたいんだよ」

 ワタルが「なるほどねぇ。うん、わかったよ」と頷いた。

「結構あっさり了承するんですね。寂しくないんですか?」

 唇を尖らせる遼に、ワタルはにやりとする。

「しょうがないんだよ、リョウ。前にも言ったけど、人はそこにいるだけで波紋を生むんだよ。それがどんな模様を描くかはわからないけれどね。今回はたまたまビルが自分の道を見つけようとしているだけさ」

「それでも寂しいです」

 ロータスの居心地がよければよいほど、一人でも欠けたときの虚無感が怖かった。そこだけぽっかりと空洞になるような気がするのだ。

「ずっと、同じメンツでいるって訳にいかないだろ」

 肩をすくめるワタルは、しんみりとした声で呟いた。

「人は自分の生きる意味を求めるけれど、本当はそこにいるだけで意味があるんだ。みんな遠いどこかを見ることにばかり気を取られて、足もとに広がる波紋を見ない。ロータスだって、人が入れ替われば波紋がまた交わり合って、なるべき模様が生まれる。リョウが来たときだってそうだ。これから先、誰かが入ってきてもそう」

 そこでワタルはバーボンで喉を潤すと、少しはにかんだ。

「……確かに、そのたびにちょっと寂しいけれど」

 思わず遼の胸が詰まる。彼の目には切ない光が滲んでいる。本当は誰よりも人寂しがりやなのかもしれないと思えた。

「私、惜しいです」と、遼が俯く。

「今のみんなとの時間が心地よすぎて、それが変わるのが怖い。私が恋愛感情なんて抱かなければ、ずっとみんなで仲よくいられるのかなって思ったりもしました。自分でもバカげているってわかるけど、それを認めるほど大人になりきれてない。いつまでもみんなで笑っていたいって思うんです。本当にごめんなさい」

「どうして謝るの?」

 苦笑するワタルを、遼が真っ直ぐ見つめる。

「前に、ワタルさんは今のロータスが気に入っているって言ってましたよね。私が来てから、ロータスのみんなが変わっていくような気がするんです。このままじゃいられないのって、私のせいなんじゃないかって思うんですよ」

 すると、ビルがぽんと遼の背中を押した。

「何を言っているの。いいほうに変わっていると思うよ」

 ワタルがくくっと笑う。

「そう、気にしすぎ。だって、しょうがないじゃない。リョウもビルも好きだって気持ちを止められるわけないでしょ。霞食って生きてる仙人じゃないんだから。僕はそれが人間だと思う。それに、そういう人と人とのつながりを間近で見ると嬉しいよ。人間だって捨てたもんじゃないって思えるからね」

 彼は、いつになく饒舌だった。バーボンのせいか、それとも寂しいからかは、遼には計り知れない。

「遼たちを見ていると、僕もいつかは、傷ついてでも心をぶつけていきたい相手に巡り会えるかもしれないって気がするんだ」

 澪が空になったワタルのグラスにバーボンを注ぎ足す。それを見ていたワタルが、ふと、こう呟く。

「さぁ、これからどうなるのかな。面白くなってきたね」

「私には不安なことだらけです」と遼が思わず口を尖らせる傍らで、ビルは笑っている。

「僕ら、動き出しちゃったね」

 それぞれの気持ちは思い思いの方向に舵をとり、錨を上げたのだ。言いようのない不安と寂しさの入り交じる思いで、遼は炭酸のすっかり抜けたジン・トニックをあおる。

 そのとき、澪が、遼に「何かお作りしましょうか」と、微笑んだ。遼はすかさず「えぇ」と頷いた。驚きっぱなしでいくら飲んでも喉が渇く。

「じゃあ、キューバ・リブレを」

 ラムとコーラのカクテルをオーダーすると、澪は「かしこまりました」と新しいグラスを取り出した。ライムをカットし、グラスに素早く氷を入れる手つきは、尊に負けず劣らず早くて優雅だった。

 思わず遼が「澪さんは相当練習したんでしょ?」と声をかけると、ラムのキャップを手品師のように鮮やかに開けながら、澪が小さく笑う。

「そうですね。一応、三代目というプレッシャーがありますからね」

「三代目? ずいぶん歴史があるんですね」

「元は曾祖父がここを始めたんです。アキラさんは曾祖父の弟子なんですよ。その後、曾祖父の孫娘である俺のお袋が二代目として跡をついで、親父がここに雇われて結婚したわけです」

「はぁ、ややこしいですね」

「でしょう? まぁ、店が古ければ色々ありますよ」

 澪はライムの香りが立つキューバ・リブレを差し出し、父親譲りの笑みを浮かべた。

「俺、リョウさんの気持ち、わかる気がします。変わるって怖いですよね。琥珀亭は変わらないように見えて、ゆっくりと変わっています。ここに立つバーテンダーも代替わりし、お客様も移りゆく。しょうがないことだけど、その流れは止められなくて、どんなに深いやりとりを重ねても人はずっとそこに留まることはないから。大事であればあるほど、怖いです」

 澪の言葉には重みがあった。彼は一番端の席を目で示す。

「一番端の席に、予約席ってあるでしょう?」

 遼が見やると、彼が言う通り、ワタルの隣に予約席の札と、灰皿がある。

「そこにいつも座っていたお客様がいました。曾祖父の代からの常連で、俺の祖母代わりであり、バイオリンの教師です。二年前に亡くなりましたが、俺がバーテンダーになると決めたことを誰よりも喜んでくれた人なんです。彼女が教えてくれたのは、どんなに移り変わっても、人には居場所があれば大丈夫ってことでした」

 ふっと澪は目を細め、穏やかに微笑む。

「ロータスだってそうです。人が入れ替わっても、居場所を見出した人が居る限り、そのときを大事にするしかないんです。カウンターの中にいる人も、外にいる人もお互いにね」

 遼には彼が羨ましく思えた。きっと、澪にも琥珀亭を継ぐかどうか葛藤があったに違いなかった。しかし、結局はここが居場所だと悟り覚悟を決めたのだろう。

 遼は自分が望む居場所はどこだろうと自問自答し、すぐ頭に浮かんだ答えに、思わず笑みが漏れた。ノブがいる場所がいい。けれど、ノブのいるロータスで誰かに居場所を見出す手伝いができるなら、もっといい。素直にそう思える自分が誇らしくさえあった。

「澪さんは、人が好きなんですね」

「はい。予約席のお客様の教えがありましてね。いいバーテンダーってのは技術じゃない、人間味だよと教わりました。俺は彼女が天国で認めてくれるようなバーテンダーになるつもりです」

 自分はノブがいなくてもロータスのカウンターに立ち続けるだろうかと首を傾げる。そもそもノブのためにロータスにいるのではない。ロータスに立つことを決めたから、ノブと出会ったのだ。

「なんだか、今まで自分の足で立っていなかった気がします。澪さんは強いですね」

 遼は喫茶店でノブが『後悔してる』と言ったことを思い出していた。澪の言葉を聞くうちに、自分がノブへの気持ちにしがみついて地に足をつけていなかったために、彼を不安にさせたのだと気づいたのだ。

「本当の強さは力じゃなくて、内からくるものなんですよね」

 思わず呟くのは、他界した父の言葉だった。


 その日の帰り道、遼を送ってくれたのはビルだった。ほろ酔いの遼は、夜風が頬を撫でていくのを心地よく感じながら歩く。

「それにしてもビルが梓さんとつき合っていたなんてね」

 思わず笑うと、ビルが照れくさそうな顔をした。

「実はね、つき合いだしたのは最近だけど、本当はもっと前から彼女が好きだったんだよ」

「そうなの?」

「うん。相川におびえている彼女をなんとかしてあげたくて、でも何もできない自分が嫌で、ずっとジレンマを抱えていたんだ。この手は恐怖に震える肩を抱くことも、迷う手をとることもできない。僕はなんて無力なんだろうって」

 ビルはそう言うと、ぎゅっと手を握り締めた。

「僕にできたことは、そっとそばにいることだけだった。待っているだけの自分が嫌だったけど、それでもアズの手が誰かを求めて伸びたときにはすぐに掴めるようにって」

 思わず遼が「素敵じゃない」と唇をつり上げると、彼は肩をすくめて見せた。

「アズはそれが嬉しかったって言ってくれたけど、男としてはかっこつかないよ。僕はね、君にちょっと嫉妬しちゃうな」

「なんでよ?」

「物事を変えたくても、どうしようもないときがあるんだ。どんなに足掻いてもどんなに頑張っても報われないときがある。けれど、うまくいくときはすんなりいくんだよ。僕らにとって、そのタイミングはリョウが運んできてくれた。本当はリョウがしてくれたことを、代わりに僕がしたかった。僕はアズのスーパーマンになりたかったんだから」

「大げさよ」遼は首を振った。

「私があの日したことは、小さなきっかけにはなったかもしれないけれど、ビルがアズサさんにずっと寄り添っていたから、こうして動き出したんじゃないの」

「うん。どれかが欠けたら駄目だったんだね。でも僕はそういう変化をもたらすエネルギーがある君が羨ましいし、それは恐れることではないんだよ」

 ビルの穏やかな顔は月明かりに照らされて凜としていた。

「どうか怖がらないで」

 道場の前で、ビルが足を止める。そして、遼をまっすぐ見つめて、力強く言った。

「何かを変えられることはそれだけですごいことだって、僕はつくづく思う。どうかリョウはリョウの思うままに走ってほしい。先がわからないって怖いけど、きっとだから面白いんだ」

「そうかしら?」

 遼には素直に頷くことができない。ノブ、キラ、藍良の姿が脳裏を巡り、それぞれの思いがどこにたどり着くのか途方に暮れる。思い出すたびに不安で胸が重くなるばかりだった。だが、ビルはそれでも優しい声で囁く。

「覚えてる? いつだったか、志帆さんがリョウに『うちのプリンセスになって』って言ったよね。僕にとってリョウは、玉座で王子様を待ってるだけのプリンセスじゃない。むしろ、勇ましくて凛々しい月と狩りの女神アルテミスだよ。一生懸命バーテンダーの仕事に打ち込んで、藍良に負けずノブを想う姿を見て、僕は君に勇気をもらったんだ。ありがとう」

 ふっと影が降りてきたかと思うと、音もなくビルの唇がそっと遼の額に触れる。思わず顔を真っ赤にして額を抑えると、ビルは「君に祝福を」と言い残し、踵を返した。その遠ざかる足音を聞きながら、思わず長いため息が漏れる。

「……そんなんじゃないのに」

 遼にとっては、自分のことで精一杯で、がむしゃらになっていただけ。それでもノブを想う姿に、ビルは何かを見たという。

 ふと、遼は琥珀亭の澪を思い出した。変わることは怖い。けれど、居場所があれば大丈夫。彼はそう言った。だが、人は自分の居場所がどこかすらわからずに、もがいているのだ。ノブはどこに居場所を持っているんだろう。そう思うと、無性に声が聞きたかった。

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