対峙
「だからって、どうしてお前がここにいるんだ?」
ノブの声は警戒心で満ちていた。だが、当の藍良はけろりとしている。
「あら、単に彼女と話したかっただけ。まさかあなたと一緒にいるとは思わなかったけれどね」
ふっと遼を見る目が蛇のように輝く。
「やっぱり、油断もすきもありゃしない」
「アイラ、旦那さんが探してるぞ」
「ノブ、知ってるんでしょ? 私、明日には東京に帰るのよ。止めはしないのね?」
「あぁ」
「じゃあ、その子をとるのね?」
強い光を帯びた藍良の視線に射貫かれて、遼は立ちすくんだ。
「何を言ってるんだ」
「とるんでしょ?」
藍良の声が震えた。
「そう、昔みたいに私を選ばない。あなたは結局、昔から何も変わっていない!」
藍良がつかつかと歩み寄り、ノブを押しのけて大きく手を振り上げた。次の瞬間、重い衝撃が遼の左手に走る。平手打ちしようとした藍良の手首を、遼が咄嗟に掴んで受け止めたのだ。藍良を押し戻すと、小さな悲鳴と共によろめく。
「な、生意気に!」
彼女のまとめ髪から、はらりと一筋の毛束が落ちた。怒りと屈辱で顔が染まる。ノブがすぐさま遼をかばうように立ちふさがった。
「落ち着け、アイラ。こいつは関係ないだろ」
関係ないという一言に、ぐっと遼の胸が潰される。だが、藍良は肩を震わせて笑った。
「嘘ばっかり。その子のそばにいたくて戻ってきたくせに。私を拒んだくせに! あのときも、今も!」
その言葉の意味がわからず、遼は眉間に皺を寄せる。藍良は吼えるように叫んだ。
「消えてよ! 私が選ばれないのは、あんたのせいなのよ」
最後には声が震え、彼女は涙で頬を濡らし始めた。
「苦しいのよ。私だって忘れたいのよ。なのに、なんでノブはあの頃と変わっていないのよ? 私、前に進めないじゃない」
絞り出すような声だ。身をかがめ、まるで自分を抱くように腕を交差させている。
「この子なんでしょ? ノブの特別な人って」
その問いに、ノブは答えない。ただ、黙って藍良を見ていた。
「だから、わざわざこの街に戻ってきたのよね? 私から逃げたくせに、それでもこの子のそばにいたいからよね? 私じゃなくて」
ノブが「だから」と苛立ちを押し殺しながら藍良に話しかけた。
「何度も説明しただろう。俺は親父を放っておけなかったんだ。だから戻ってきたんだよ」
だが、藍良がぶんっと大きく首を振った。
「それだけじゃないでしょ。その子にまた会えるかもしれないって全然考えなかったわけじゃないわよね」
藍良は手を伸ばし、ノブの頬を撫でた。ノブの目は緊張に瞬きすら忘れている。
「私を見てほしかった。あなたを救いたかった。それだけだったのよ。なのに、私を拒んでおきながら、その子のそばにいながら、どうしてあなたは変わってないの? どうして、あの頃と同じ、寂しそうな目をしているの」
藍良はそっとノブから離れ、遼を見つめる。
「あなたさえいなければ、よかった。あなた、邪魔だったのよ」
遼は戸惑っていた。彼女の言葉を聞けば聞くほど、この胸に忍び寄るのは恐怖でも怒りでもなく、冷たいほどの寂しさだった。痛みを独りで抱えてうずくまる藍良が見えた気がしたのだ。
本当は、藍良はノブに想いをぶつけることが間違ったことだと、とうにわかっているような気がした。彼女がさっきから過去形で話をしていることに気づいたのだ。
ただ誰よりも愛情深いだけだったのかもしれない。そう思ったとき、襲いかかる気配に気がつきながらも、遼は動く気になれなかった。手を振り上げた藍良を、遼は射抜くように見つめて逃げなかった。
派手な音とともに、脳を揺らす衝撃が遼を襲う。
「リョウ!」
ノブの悲鳴に似た声がした。
遼は藍良の平手打ちを抵抗もせず受け止めたのだ。まるでピンと張ったゴムを弾いたあとのように意識のブレが戻ると、頬が熱を帯びてじんじんと痛み出した。
「ば、馬鹿にして!」
打たれた頬を手で押さえていると、藍良が尻ごみして青ざめる。
「あんた、わざと避けなかったわね?」
藍良は屈辱に唇を歪ませ、拳をきつく握り締めていた。
「なんのつもりよ? なによ、その目は」
遼には、今、自分がどんな目をしているか知るよしもなかった。ただ、藍良が不憫だった。自分で編み込んだ心の網でもがく傷ついた鳥が、ここにいる。
「これで少しはあなたの苦しみが吐き出せるなら、いいです」
遼の言葉に、藍良の顔が凍りつく。
「あなたの吐き出すものがノブさんに向けられずに済むのなら、幾らでも好きなだけ私を打てばいいわ」
悲痛な叫びが短く走り、藍良はその場にうずくまった。
「やめて! そんな目で見ないでよ! わかってるのよ。私だって、嫌なのよ」
藍良がぼろぼろ泣きながら自分の細い肩を抱えた。
「私、ノブを救えなかったことを悔いているの」
思わず「救う?」と問い返したノブに、藍良がこくりと頷いた。
「初めて会ったとき、すぐわかった。ノブも私と同じで、愛情が欲しくてたまらないんだって。でも、私がノブを大事にすればするほどノブは遠ざかって、母親代わりにもなれないし、女として満たすこともできない。私の存在って価値がないんだって、すごく辛くて」
荒い呼気の隙間から、藍良は涙が流れるままに続ける。
「夫と結婚して遠ざかったあと、ノブがこの街に帰ってきたって知って、すぐに気づいたの。本当はあの子の近くにいたいからだって。そのくせ、久しぶりに見たあなたの顔はやっぱり物欲しげで、あの頃と何も変わらない。もどかしかったわ」
ノブがそっとひざまずき、藍良に話しかけた。
「なぁ、アイラ。俺がどんな顔をしてたって、お前が気にすることじゃないんだ」
だが、藍良は「違うの」と、首を振る。
「何が違うんだ?」
「私、夫に『子どもが欲しい』って言われて」
藍良の声がすとんと低くなった。
「私、いい母親になる自信がないの。怖いのよ。だって、ノブすら救えなくて後悔しているのに。夫がどれだけ私を愛しているかなんて知っているわ。本当に感謝もしてる。なのに、私ときたらあなたを忘れられない。あなたの望んだものをあげられなかった悔いにとらわれてばかりいる。……こんな私が、母親になれる?」
ふっと藍良が顔を上げた。ぐしょぐしょに涙で塗れた頬が月明かりに光っている。
「夫に申し訳なくて、息ができない。けれど、あなたに残した悔いは消えない。子どもができても、上手に愛せると思う? 今でさえこんなに歪んでいるのに」
「アイラ」
ノブがそっと頬に張りついた髪を指で払う。
「……いや、姉さん」
そう呼ばれた途端、藍良が息を呑んだ。ノブがゆっくりと優しく藍良を抱きしめる。まるで壊れ物をそっと包み込むように。
「姉さん、ごめんな」と、か細いノブの声が落ちて消えた。
「お前は俺の母親じゃない。でも、女でもない。そんな必要ないんだ。だって、姉さんなんだよ」
優しく藍良の後ろ髪を撫で、ノブは呟く。
「確かにあの頃、俺は両親が離婚して辛かったんだ。俺が無意識に求めたものを、お前は敏感に感じ取って与えようとしてくれたのかもしれないな」
そっと体を離し、ノブがやりきれない顔で囁く。
「頼むから、自分の幸せを一番に願ってくれよ。俺は、お前が思うより大丈夫だよ。俺は孤独じゃない。ずっと、大切に想っている人がいる。それだけでいいんだよ、俺は」
「やっぱり、その子ね?」
藍良が遼に視線を送った。だが、それはさっきまでと違う、まるっきり力の抜けたものだ。ノブはふっと笑って頷いた。
「あぁ。これからちゃんと向き合おうと思うから。きっと、次に会ったら姉さんを安心させられると思うよ」
ノブから『姉さん』と呼ばれるたびに、藍良の顔つきから狂気が抜けていく。
そのとき、背後から「アイラ」と、穏やかな声がした。遼が驚いて振り返ると、門のそばに眼鏡をかけた男性とバーテンダー姿のキラが立っていた。
「キラさん!」
キラは歩み寄ると、遼の頬を「痛むか?」と、気遣った。
「大丈夫です。……あの人は?」
藍良をじっと見下ろしている眼鏡の男性を目で示すと、キラが頷いた。
「アイラの旦那さん」
「えっ? あの人が?」
「ロータスにアイラを探しに来てね。ノブのアパートに案内して欲しいっていうから俺が仕事を抜けてきたんだけど、途中でお前の家の前にノブの車があるのを見つけて降りてきたってわけ」
藍良の夫はとても温和そうな顔つきをしており、細い銀縁眼鏡が生真面目な印象を与えていた。彼は眼鏡の奥で目を細めると、藍良に歩み寄り、ゆっくりひざまずく。
「アイラ、家に帰ろう」
藍良が呆然として、夫を見た。彼はほんの少し悲しげに唇に笑みを浮かべる。
「アイラ、君が辛いなら子どもはいなくていい。けれど、君がいなくちゃ元も子もないじゃないか」
彼は優しい声で言うと、そっと彼女の手をとって軽く撫でた。
「僕はね、伸幸君に愛情を注ぐ君ごと好きなんだ。君のその愛情を否定するなら、僕には君の愛情を受ける権利はない。君は情が深くて、脆くて、優しすぎるだけなんだよ」
藍良の目から、再びすうっと涙が流れる。
「嫌じゃないの? いつまでもノブを愛している私で、嫌じゃないの?」
「アイラ、愛は増えるものだよ。僕はね、君が伸幸君を愛しているように、いや、もっと深いところで、僕を愛しているのをちゃんと知っているからね」
その途端、藍良が泣き崩れた。彼女の夫は、優しく、けれど力強くその肩を抱きしめ囁く。
「さぁ、帰ろう」
彼はゆっくりと妻を立たせ、ノブたちに深々と礼をした。
「お騒がせしました。伸幸君、あとから連絡します」
「姉をよろしくお願いします」
ノブがそう言って頭を下げる。
「あぁ、旦那さん、俺が車で送りますよ。乗りかかった船だ」
キラがため息をつきながら、笑う。
「いいのか、キラ?」
申し訳なさそうなノブに、キラが肩をすくめた。
「どうせロータスを抜けてきたんだし、ちょっと寄り道したってワタルも文句言わないだろ」
キラが遼に向かって微笑んだ。
「それに、怖い思いをさせたんだから、もう少しリョウのそばにいてやれよ」
ノブがふっと笑う。
「悪いな」
「本当だよ、まったく」
キラが苦笑しながら藍良たちを先導するように歩き出した。彼らの去りゆく背中を見ながら、ノブが静かに呟いた。
「アイラは俺を救いたいって言ったけど、本当は自分を救いたかったんだと思う。愛することで誰かに必要とされているんだって確信したいような、そんな心もとなさばかりで寂しかったんじゃないかな」
ノブの横顔はほんの少し泣きそうだった。
「俺は、ある意味、太一と同じことをしたんだな。きっと、あの頃の俺は母親の愛情が欲しくて、でも求めるべきところには求めることができなくて歪んでいたんだ。あいつを追い詰めたのは、俺のせいでもあるってわかってた。だから、あいつを切り離すことなんてできなかったんだよ」
門の外で車のドアが閉まる音がした。やがてエンジン音が遠ざかり、庭は静寂に包まれる。藍良は今、夫の腕の中で何を思っているのか。遼の胸がふさがれた。
ふと、ノブが振り返り、彼女の頬に触れないように手を添えた。
「打たれたところ、平気か?」
「はい。これくらい、なんてことないですよ」
「もう二度とするな」
ノブが低く呟き、ぐっと遼を抱きしめた。遼の耳元に熱い吐息がかかって目眩を誘う。顔を真っ赤にさせていると、ノブがふっと体を離してその顔を覗き込んだ。
「なぁ、この家にもう一本、大きな桜の木がなかったか?」
遼がこくりと頷く。この家には桜の木が二本ある。一本は藍良がもたれていた、玄関先のもの。そしてもう一本は道場の脇にそびえ立っていた。
「教えてください。私たち、どこで会ったんですか」
思わず、彼の腕を掴んで呟く。
「お願い」
すると、彼は観念したように頭を掻きながらぼそっと言った。
「その、桜の木に案内してくれ」
そう言う彼の目は、どこまでも穏やかだった。




